後:あなたとの別れ
俺の記憶はそこで途切れていた。
そうだ、それで、ガツンと強い衝撃があって、目の前が真っ暗になったんだ。
じゃぁここはオーディオルームか?
いや、そんなはずはない。
天井はこんな風に開けてないし、そもそも、潮騒の音が聞こえてくるはずがない。
そんな音源は持っていない。
それなら起き上がって確かめればいい。俺はそう思い立ったが、出来なかった。
腰が起き上がらないどころの話ではない。手も足も全く動かないのだ。
かろうじて指先をわずかに動かせるくらいで、何かに強く締め付けられている感覚がある。
「あ、気付いた?」
女の声がした。聞き覚えのある声だ。
「何が何だかわかってない感じ?」
その声に答えようとするが、口が動かせない。塞がれている。
匂いからして、ガムテープか何かだろうか。ぐるぐるに巻き付けられているような感触がある。
首を少しでも動かそうとすると、後頭部の痛みがぶり返すと同時に、髪の毛がじりじりと引っ張られる嫌な感触が起きる。
「別に答えはいらないよ。聞く気、ないから」
あの女の声だ。
目を必死に上に向け、首も可能な限り最大限逸らせる。
すると、視界の上の方に微かにだが顔の陰が見えてきた。
「元気だね。意味ないのに」
女が両手を眼の前に持ってきた。何かを持っている。イヤホン?
「ま、でも、最後に一応聞いといたげるよ」
何だ?何をするつもりなんだ?
「車、どうしたの?」
言われて、俺は凍り付いた。
「ストレスの原因って、それ?」
あの時、俺はうっかり漏らしてしまったのか?いや、そんなはずはない。
「あ、答えは知ってるからね」
あの時、俺がどんな発言をしたか、今でも覚えている。
この女がそれを知っているはずがない。ならどうして。
「でね、安心していいよ、彼、生きてるから」
彼?生きてる?どういうことだ?
「でもね」
まさか、大丈夫だったのか?
俺は、あんなに怯える必要はなかったのか?
それなら、あの場所にあった献花はいったいなんだったんだ。
「生きてるからって、許したわけじゃないの」
許し?何のことだ?
「まるで彼がストレスの原因みたいな口振り」
だって、仕方ないじゃないか、俺はあの時疲れていて。
「大事な時期だったのに」
女の両手が動く。耳に何かが嵌められた。
微かにガムテープの引き裂かれる音が響き、その後、耳に粘着質の感触が貼り付く。そして、両耳ともに塞がれた。
「あーあー。聞こえてるかな?」
女の声も小さくなったが、まだ聞こえている。なんとか口を開こうと呻くが効果はない。
「聞こえてるみたいだね」
声と同時に、女の顔が動いた。
月の陰になっているが、表情は良くわかる。
泣いていた。
「こんな風に髪をいじるの好きじゃないんだよ、傷むし」
髪?何を言っているんだ、この女は。
「カラコンだって、異物感が凄くてイヤ」
あの暗いブルーの瞳は、作り物だったのか?どうして?
「ピチピチしたスーツなんて死んでも着たくない。彼、絶対喜ばないし」
自ら選んだスーツだろう?何を言っているんだ。
「だから、そんな眼で見られるの、すごく気持ち悪いの」
ガムテープが引き伸ばされる音がした。そして、視界が暗転する。
目玉にテープが貼り付く。
剥がれない。
「これは、私からの餞別。ゆっくり味わってね。それじゃぁ、さようなら」
さようなら?
直後、両耳に音が滑りこんでくる。
なんだ、これは一体なんだ。
音量が馬鹿みたいに大きい。
もう、この音しか聞こえない。
身体が持ち上げられる感触がする。
どこから?
どこへ?
……潮騒の音?
自分がどんな状況に置かれているのかに気付いた俺は、必死で身体を動かそうとするが、さっきと変わらず全く効果がない。
額を殴られる。
その間も耳からは音楽が流れ続ける。男の声が頭に響く。
どこかで、聞いたことがあるような。
不意に、重力から解放された。
直後、水の感触。
身体全体が一度水に浸る。鼻から少し水が入ってきた。苦しい。
すると、身体が浮力に支えられ、浮かびあがった。息が吸える!
しかし、それは一瞬だった。
足に重りが括り付けられていたのだ。引っ張られ、俺の身体は沈んでいく。
嫌だ。嫌だ。嫌だ!
なんとかもがいて浮き上がろうとするが、身体はろくに動かない。板か何かで固定されていることに、今、気が付いた。
合唱が始まった。
あぁ、これは、第九の。
俺の身体はどんどんと沈んでいく。
身体の周りを水が滑る感触だけが残っている。
息ができない。
鼻から水が流れ込んできた。
口は完全に塞がれていて、咳き込むことすらできない。
ソプラノが響き、頭痛を再発させる。
逆流する水に、身体の内側が軋み始める。
オーケストラの演奏が再開される。
暗くなっていく意識の中、聴覚だけが引き摺り出される。
塞がれているはずの視界が明滅する。
ボリュームを増すオーケストラ。
音楽は盛り上がり続け、
俺はまだ、
まだ
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