歓喜の歌
前:あなたとの出会い
目が覚めたら眼前には満点の星空が広がっていた。
耳には潮騒の音が響く。
周りを見回そうにも何故か首が動かない。
それが出来なければ周囲の様子が確認出来ないから、自分が今どこにいるのかすらわからない。
後頭部にはずきずきとした痛みが走っている。
俺はいったい、どうなっているんだ。
***
親から譲り受けたマンションのオーナーであり、家賃収入という不労所得を得ながら、日々何をするでもなくだらだらと過ごしている自堕落な人間、それが俺だ。
まぁ、ほとんど働かずに金が入ってくるのだから働く意欲も失せるというものだ。大学を卒業して三年くらいは会社員をしていたのだが、企業文化に馴染めなくて辞めてしまった。
自分で稼いだ金で生活をするということに意味を見出していた時期もあったが、今となってはその痕跡はどこにもない。
過去に自分で溜めていた金は、車を買うのにパーッと使ってしまったが、あっというまにそれ以上の貯蓄は出来上がってしまった。
会社員時代より入ってくる金は増えたし、使う金は減ったからだ。
散財はストレス解消のためのものなんだなぁというのを、痛く感じたものだ。
会社っていうのは常にストレスに晒され続ける場所なのだろう、きっと。
そんな俺が、久々にバカ高い買い物をした。春の陽気に浮かれていたってのもある。
買ったのは、オーディオセットだ。うん百万もする塊をどかんと買った。
そして、家の駐車場の隣を防音室にしてそこに運び込み、自分専用のオーディオルームに仕立てあげた。トータルではかなりの金額がかかったが、一週間もしないくらいで全部の工事が済んでしまった。
自分で言うのもどうかと思うが、俺は普段、あまり音楽を聞くような人間ではない。これといったジャンルに精通しているわけでもなく、せいぜい、ポップスを幾つか聞いたことがあるくらいだ。
今回、オーディオセットを買ったのは、周囲に気兼ねすることなく、最高の音質と大音量の中に身を放り投げたいと思ったからだ。
そのために、わざわざクラシックにまで手を出した。作曲家とかなんて全然わからないから、俺の頭に唯一ぱっと浮かんだベートーヴェン、こいつの楽曲を適当に買い漁った。
気が向けばオーディオルームに閉じ込もって、ベートーヴェンの曲を大音量で流し、音を体中で感じる。それが時々、俺にとてつもない開放感を与えてくれるのだ。
音楽を存分に聞き終えたら、夜の街へ繰り出して行き付けのバーへ行き、良質のウヰスキーを味わいながら、静かな時間に身を任せる。
この頃は車を走らせてのストレス解消が出来なくなったので、こういった緩急を付けた生活が、非常に身に沁みる。
そんな風に過ごし始めてから幾日か経ったある日、三軒目のバーのカウンター席で、店内でざわめく若者たちを肴に酒を飲んでいると、すぐ近くの席に一人の女がやってきた。
ウェーブをかけた長い黒髪にフレームレスの眼鏡、そして、ワインレッドに飾られた唇。暗いベージュのスーツは、身体のラインを静かに際立たせている。
女は周りのどこかに目を向けるでもなく、一人静かにカクテルを飲んでいた。その様がやけに魅力的だった。
正直に言おう。
一目見て、惹かれた。まさに好みの女だったのだ。
だけど、既に酒がかなり回っていた俺は、そこでアプローチをかけずに店を出て行ってしまった。
酔うと大人しくなるタイプなのが災いした。
家に帰ってから死ぬほど後悔したものだ。
こんな生活をしていると、滅多に会えるものじゃない。
せっかくのチャンスを逃してしまったのだ、と。
だが、それで終わりじゃぁなかった。神様はもう一度チャンスをくれたのだ。
***
それから数日後の夜、その日は、一軒目のバーで長いことたむろしていた。
なんとなく、場所を変えたくない気分だったのだ。それが幸を奏したのかもしれない。
そろそろ店を出ようかと考え出したころ、女はやってきた。ウェーブのかかった長に黒髪にフレームレスの眼鏡、そしてワインレッドの唇。
そう、間違いなく、あの時の女だ。
以前と同じように、女はカウンターに座る。今日はパープルのスーツだ。相変わらず扇情的なラインを描いている。
酒が抜けて冷静さと貪欲さを取り戻していた俺は、静かに頭を巡らせる。
まず、軽めのカクテルを一杯頼んだ。それを片手に、女の左横の席へと移動する。
「乾杯しても?」
席に腰を下ろす直前、女に話しかける。それを受けた女は、こちらを見て一瞬驚いた表情を見せたものの、すぐに微笑み、えぇ、と返事を返してきた。
互いに、一口ずつカクテルを飲み、グラスをテーブルに置く。
あぁ、多分、良いリズムだ。
それからはしばらくの間、話し掛けたりはせず、自分のグラスを揺らすことに集中する。
女は一人でやってきた。誰かと待ち合わせたりしているのでなきゃ、目的の大部分は静かに酒を楽しむことのはずだ。いきなりそこに割り込むのは得策じゃない。
だが、女のグラスの残量には注意しておく。ちょうど無くなりそうなタイミングで、俺もグラスを空にしなきゃならない。
「次は何を飲まれるおつもりで?」
具体的な名前を答えられたら、俺もそれを頼めばいい。今回、女は何も答えず、こちらを向いて微笑むだけだった。
だから俺は、少し強めのカクテルを二つ頼む。
やってきたグラスを手に取って女の方を向くと、同じくこちらを向いていた。お互い無言でグラスを鳴らす。
本番はこれからだ。入口の空気さえ作ってしまえば、あとは流れるように上手くいく。
そのはずさ。
女は一人でやってきて、特に待ち人がいるわけでもないらしい。
女の眼をよく見てみると、暗いブルーの瞳をしていた。尋ねてみると、ロシアとのクォーターなのだそうだ。ますます俺好みだ。
三杯目に入る。今度は俺の話をした。まぁ、会社員時代の話を多少盛ったり、今の環境、つまり金についての話を少しチラつかせただけだ。
女は、あからさまな表現よりもそれの醸し出す匂いに惹かれるものだ。だから、まずは雰囲気だけを漂わせる。
四杯目。次は女の話の番だ。少し、男についての話に触れる。直接じゃぁない。話題の端々に入れ込むだけだ。がっついてるように見られたら堪ったもんじゃないからな。
五杯目。ここだ。攻めるべきポイントはここにある。俺は、オーディオルームの話をした。金についてはさっき匂わせたから、唐突感はかなり薄れているはずだ。女も自然に話題に乗ってきた。いい流れだ。
最近感じたストレスの話をする。弱みをチラつかせるテクニックだ。男だって女だって、ギャップというやつには惹かれるものだ。
六杯目。だいぶアルコールが回ってきた。いい頃合いだろう。今度は女に話を回さず、「この後」の話をする。店を変えるか否か?というやつだ。だけど、その答はもう決まっている。これ以上、店で酒を頂くには飲み過ぎているはずだ。そして、そのまま帰るには酔いが回り過ぎている。だから、「この後」は、そう、俺のオーディオルームだ。これは、驚くほどに上手くいく。見せて欲しい、聞かせて欲しいとあっさりと口にするのだ。良い音楽に囲まれながら酔いを覚ます。粋な計らいを断われる女はいない。
七杯目はない。続きがあるなら、それは俺の部屋の中だ。
***
そして、俺は辿り着いた。駐車場から直通のオーディオルーム。
女に車の方を見せられなかったのが残念だが、そんなものはもう失点にはなるまい。
部屋に女を招き入れる。
大枚叩いて手に入れたオーディオセットを眺め、女は驚嘆の声を漏らす。
この空気をいかにして上手く「次」に繋げるかだ。強引にいくのは紳士のやることじゃぁない。
マニュアルの受け売りだが、それで十分だろう。気を引くために少々解説をしてやろう。
俺はそう思って女に背を向け、オーディオセットに近付いていく。
まずは一曲聴かせてからでもいいかもしれないな。
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