転:介助

翌週の月曜日。

右腕のギプスはまだ外れていないが、痛みは大分穏やかになってきた。

自転車を漕ぐことは当然出来ないので、徒歩で大学へと向かうことにする。自転車で数分の距離だったので、徒歩でもそれほど時間はかからないだろう。講義には十分間に合うよう、以前よりも大分早めに家を出ることにした。


道中、大通りに差し掛かる。

そして思い出した。僕が車に轢かれたのはここを渡る時だった。

辺りを見回してみると、僕が跳ねられたと思しき場所の近くの電柱に立て看板があり、僕が跳ねられたと思しき時間と、轢き逃げ犯を探してる旨が書かれていた。

なんといえばいいのだろうか。こういう立て看板は過去に何度も見てきたが、自分が当事者になってみるとなんだか特別感がある。

場合によっては生命を失っていたかもしれなかったので、ちょっと不謹慎な話ではあるけれど。

そして、ふと気付く。立て看板の下に花が何本か添えられていた。


どういうことだ?僕は死んでないぞ?

そうだよね?


そんな不安に駆られつつ、今度こそ車に轢かれずに大通りを渡り終えてほっとしながら先を進んでいると、後ろから声をかけられた。

「皆川くん、おはよう」

振り向くと、自転車に乗った獅子木さんがいた。獅子木さんは僕の横まで乗り付けると、自転車を降りて立ち止まった。

「久しぶり。大学、出れるようになったんだね」

「おかげさまで」

「あの献花、気になるの?」

「え?あぁ、まぁね。自分が事故に遭った場所でそういうの置いてあるとなかなかね」

「ああいう立て看板が置いてあるとさ、すぐ人が死んじゃったって勘違いする人がいるんだよ。その誰かが花を置くと、それにつられて勘違いした人がまた花を置くって感じ」

「あぁ、そうなんだ」

「だから、別に皆川くんが死んじゃったってわけじゃないよ。こうして私と話してるしね」

獅子木さんが笑う。

「とりあえず、大学の方へ行こっか」

そう言って獅子木さんが歩き出したので、それに合わせて僕も歩を進める。

「それ、乗らないの?」

「いいじゃん、歩きながら話そうよ」

「獅子木さんがいいなら、いいけど」

なんとなく、今日の獅子木さんは前に会ったときと少し印象が違う。

髪の毛かな?先の方がちょっとだけ波打っている。

「そうだ、そういえば先週、講義ノート、家まで持ってきてくれたよね。ありがとう、かなり助かったよ」

結局、先週はずっと、眠気と戦いながらではあったものの、ひたすら講義ノートとの睨めっこだった。おかげで、復帰に対する不安はかなり薄れている。

「役に立ったならよかった」

獅子木さんはそう言って笑う。

「そうだ、先週の分も用意してあるから、あとで渡すね」

「え、そうなの?正直、すごく助かるけど、なんでまた」

先週受け取ったのは先々週の分だから、つまり先週分の講義の内容はまだカバーできていない。一週分のブランクは残っているわけだ。しかし、それでも十分だと思っていた僕にとって、これは青天の霹靂だった。

「困ったときはお互いさまだよ」

こっちはまだ何も返せてないので、何だか偲びない。

「気にしないでいいからね。一回見せるって言っちゃったし、やるなら最後まできちんとやろうってね。それに、自分が取ったノートを纏めてるだけだから、そんなに手間もかかってないよ」

「いやいや、本当、感謝しかないよ」

人の親切がこれほどまでにありがたいものだとは。

それから、僕たち二人はつらつらと会話をしながら、大学構内へと向かっていった。


***


「最初の講義、B棟だったよね?」

大体二週間ぶりの大学である。記憶が一部薄れかかっていたので、獅子木さんに確認した。

「そうだよ、合ってる」

そして、B棟に到着したのは、ちょうど一つ前の講義が終わったあたりだったので、どうやら家を出る時間の調整は上手くいっていたらしい。

入れ替わりで講義室に入り、前の方の席に腰掛ける。

「隣、いい?」

獅子木さんが聞いてきたので首肯した。断る理由はない。

「これ、先週借りたやつ、今ここで返していいかな?」

「いいよー。それじゃぁ代わりにこれ、先週分のノート」

獅子木さんの鞄から、新たなバインダーが取り出される。

「間違ってなければ、講義順にノート綴じてあるから、最初のやつがこれのノートだと思う」

中身を確認してみる。確かにその通りになっていた。至れり尽くせりだ。

「私がノート取ってる順番でどんどん綴じてるだけだよ」


そして、最初の講義が終わった。先生の話している内容は、先週のノートを参照しながら聞いていたので、大分頭に入ってきたと思う。

それはよかったのだが、問題は今週のノートである。

「あぁ、悲惨だねぇ……」

僕の取ったノートを見て、獅子木さんがそう漏らした。

大学に復帰したとはいえ、右手はいまだに使えないままである。そして、僕の利き腕は右手だ。

つまり、ノートを取るには慣れない左手を使うほかなく、使った結果が、何が書いてあるのか皆目見当も突かない、乱れた筆跡の集積物であった。

「試験対策とかで必要になったら、また貸してあげるね」

獅子木さんのその申し出を断る理由はもはやどこにもなかった。

ありがたく好意に甘えさせていただく所存である。


ちなみに、食事については問題ない。叔母さんが良きに計らってくれたのである。

卵焼きやら野菜やら唐揚げやら、そうしたおかず群を具材にしたおにぎりを、わざわざ作って手渡してくれたのだ。おにぎりなら、左手でもなんとか食べられる。

「優しい叔母さんだね」

食堂で、そんな話を獅子木さんとしていた。

獅子木さんはうどんを食べている。

おにぎりとうどんの組み合わせは素敵なので、出来ることなら僕もうどんを食べたいものだが、ここは我慢するしかない。

「うん。かなり良くしてくれてる」

「先週会ったときも、優しい人オーラが全身から溢れ出てたよ」

バインダーを渡してくれたときのことを言っているのだろう。

叔母さんは、誰に対してもそんな感じなのだ。だから、ついつい甘えてしまいがちになってしまい、それが時々心苦しい。

「甘え過ぎるのもよくないとは思ってるんだけどね」

「でも、食事については仕方ないよ。食べないことには何も出来ないしさ」

「うん、そうだね」

「怪我人のうちに、甘えられるだけ甘えとくといいと思うよー」


***


午後の講義も獅子木さんと一緒だった。

なんとなく不思議に思って尋ねてみると、獅子木さんはきょとんとした様子でこう返してきた。

「一年は皆取る講義大体同じだからね。必修講義が多くて大体時間割が埋まるし、選択講義もそんなにバリエーションないし」

そういえば、履修登録をするとき、それほど悩まなかった気がする。ほとんどの講義が既に決まっていたせいだったのか。

「皆川くんと私は、選択講義の方も被ってたけど」

そのおかげで、僕は漏れなく休んでいた期間の講義内容を後から参照できるのである。偶然、あるいは好みの傾向が似通っていたことに感謝だ。


しかし、一日中獅子木さんといて、しかも、荷物の出し入れなど片手ではちょっと手間取るような作業を手伝ってもらったりしていると、なんだか介助されているような気分になってくる。

獅子木さんは多分そういうつもりで動いてないから、そうとは言わないが、かなり助けられているのは事実だ。


月曜、全ての講義が終わった。

過ごしてみてわかったのだが、片手のみでの生活というのは、思っていたよりも体力を消耗する。予想していたよりも数倍疲れた。

「皆川くんはこの後どうするの?」

「僕は帰るよ。思ってたよりも疲れたし」

最初は図書館に寄って先週分の講義ノートを見直そうかと思ったのだが、諦めて休むことにした。

「あ、やっぱり。顔、疲れてるもん」

「獅子木さんのおかげでかなり助けられたけどね。ありがとう」

「いいっていいって」

獅子木さんは照れ臭そうにしている。叔母さんも大概だが、獅子木さんも良い人のオーラをだいぶ醸し出しているのではなかろうか。


「私も帰るから途中まで一緒に行こうよ。多分、あの大通りまで同じ帰り道だよ」

僕が弾け飛んだ交差点のことである。

なんとも言えない気持ちが湧いてきた。

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