矢の方向

起:入院

轢き逃げされた。


脳に異常はなかったが、右腕を骨折して全治六週間である。

利き腕だ。大学の講義は始まったばかり。


なんてこった。


***


僕、皆川みながわ明仁あきひとは、この春に地元の大学に進学した大学一年生である。

その大学は僕の自宅から自転車で通える距離にあり、僕の学力にも見合ったレベルで、僕にとってはとてもちょうどよい感じの大学だ。

轢き逃げに遭ったのは、履修登録を済ませて各講義が二回ほど行われたころのことだった。

通学にも慣れてきたころで、その慣れが何らかの油断を招いたのかもしれない。

大通りを渡る時、信号は確かに確認した。

したところで、いざという時には関係がなかったのだろう。右方向から走行音がしたと思った時には既に遅く、僕は自転車ごと吹っ飛ばされた。

どうやら落下時に利き腕で身体を庇ったらしいが、よく覚えてはいない。落下の衝撃で気を失った僕が次に目を覚ましたのは、病院のベッドの上だったからだ。

ところどころの擦傷は仕方ないとして、おそらく身体の様々な部位の代わりに負傷を引き受けた右腕はあえなく骨折、入院と相なった。


目を覚ましたとき、まず見えたのは白い天井だった。

直後、車が衝突してくる直前の映像と、辺りの景色がぐるぐると回転している様が記憶に蘇ってきた。それと同時に右腕から強烈な痛み。しかも吊るされている。

そして、僕は自分が車に轢かれたのだということに思い至る。

全身の至るところからひりひりとした痛みがする。擦傷が多いみたいだ。

どれくらい入院することになるのだろうか。すぐに退院できればいいのだが。

いや、それにしたって右腕は確実にやってしまっている。この調子じゃ当分はペンも持てない。退院したところで講義には出れそうもない。

参ったぞ、これは。


そんなことを考えていたら、左側で人の動く気配を感じた。

首は動くらしいので、そちらに顔を向けると、おそらくベッドの横にあるであろう椅子に、長い黒髪の女性が座ってこちらを眺めていた。なんとなく見覚えのある顔だが、誰だかはわからない。

「あ、起きたんだ。よかったぁ」

彼女がそう言う。

いったい誰だ?病院の人だろうか。

「ちょっと待ってね、今、看護師さん呼ぶから」

口ぶりからするとそうではないらしい。

よく見てみると黒い七分丈のシャツにジーパンという服装をしているし、病院関係者ではなさそうだ。

彼女は、ちょうど見回りに来ていたらしき看護師と話をしている。


その後、何人かの看護師がやってきたり医師がやってきたりとベッド周りがごたつき、彼女が誰なのかを尋ねる機会はなかった。

ちなみに、自分がどういう状況なのかを聞いたのはこの時である。

比較的綺麗に折れているので入院期間は短かくて済む、と言われたが何の慰めにもなっていない。

何が一番辛いかって、轢き逃げだから治療費が全部自腹なところである。これまでにも散々お世話になってきたというのに、叔母さんたちにはまた負担をかけてしまうかもしれない。心が痛い。

頭を掻き毟ることもできないのでぼんやりと天井を眺めていると、先程の女性が再びやってきて、左側にある椅子に腰掛けた。


「気分、どう?」

彼女が聞いてきた。

「悪くはない、ですけど……」

一応、質問には答える。

すると、彼女は僕の怪訝そうな表情に気付いたのか、少し目を見開いてから口を開いた。

「もしかして、皆川くん、私が誰だかわかってない感じ?」

彼女の方は僕のことを知っているらしい。

「うん、申し訳ないけど」

「うーん、ちょっと残念だなぁ。一応顔を合わせたことあると思うんだけどなぁ」

そう言いながら彼女は目を手で覆い、大袈裟に上を向く。

もしかして、同じ大学の人か?

そう言われてから記憶を巡らせる。大学でまともに人に接触した日といえば、入学初日だろうか。その日、入学式があった。他には、そう、同じ学科の人間が一つにまとめられて自己紹介をしたような気がする。

ということは、そういうことなのだろうか。

「あー、もしかして同じ学科の?」

「……そう、そうだよ。思い出した?」

彼女が話す顔や服装を改めて眺め、少しの間を置いてからようやく誰だかわかった。

獅子木ししぎさん?」

「そう、その通り」

僕の所属する学科は、女性の数が他の学科と比べて少なめだ。

その中に一人、身に纏う雰囲気の異なる美人がいた。

それが彼女、獅子木さんだ。

長い黒髪、七分丈の黒いシャツにジーンズという服装は、その時の記憶とも一致する。同じ服装なのが、記憶を呼び覚ますきっかけになったようだ。


しかし、疑問が解けると次の疑問が浮かび上がる。

「あれ、じゃぁ、どうして獅子木さんがここにいるの?」

同じ学科に所属する人間だというのはいいとして、その獅子木さんがなぜ僕のベッドの横にいるのだろうか。

「実はさ、皆川くんが事故にあった時、私、近くにいたんだよ」

「え、そうなの」

「そ、すごくびっくりしちゃった。目の前で人が宙に浮いたんだもん」

「そりゃそうだろうね」

浮いた本人も驚いてる。

「通報したのも私。それで、救急車に一緒に乗ってここまで来たの」

「そうだったんだ、ありがとう」

「いいよいいよ」

獅子木さんが首を横に振ると、長い髪の毛が左右に揺らめく。

「だから焦っちゃってさ、見逃しちゃったんだよ」

「何を?」

「皆川くんを轢いた車のナンバープレート」

「あぁ……」

そうか、轢き逃げということは轢いた車があるわけで、つまりその車を運転していた人がいるということだ。

今、その情報が無いということは、そいつは逃げおおせているということだ。

「ごめんね」

「いや、無理でしょ、普通」

「そんなもんかなぁ」

一目見たら忘れないんだけどなぁ、私なら、と獅子木さんは言う。


「あ、今、何時?」

ふと、時間が気になった。

「今?今は午後の四時半頃だよ」

「あー……」

記憶が正しければ、僕が車に轢かれたのは朝の十時頃だ。目覚めてからの時間も含めれば六時間以上経っている。

「どうかしたの?」

「どうかしたっていうか、今日は平日じゃん」

「もしかして、講義のこと心配してる?」

「まぁね」

「気にしても仕方ないんじゃない?今、そんな腕だし、無理でしょ」

「いや、僕じゃなくて獅子木さんの方。だって、受ける講義同じでしょ。で、今ここにいるってことはさ……」

「いいよ、気にしないで。目の前で知り合いが轢かれたのを放っておいて講義受けられるほど図太い神経してないよ」

「でも、通報してすぐならなんとか間に合ったんじゃない?」

「それでも、どうなったか気になって講義なんか耳に入らなかったと思うよ。いいって、皆川くんは、今は自分のことを考えとけばいいの」

ふむ。まぁ、過ぎたことだ。このことについてはこれ以上話しても特に意味はないだろう。

自分のこと、というなら今日以上にもっとヤバイので考えたくはない。

この折れた右腕が大問題だ。利き腕である。もちろん、左手でペンを握ったことなどほとんどない。

すぐに退院できたとして、講義に出てもノートが取れないのである。

致命的だ。

早めに左手で字を書く練習をしておくべきだろうか。そう思って、左手を何の気なしに動かしていたら、獅子木さんがその様子に気付いた。

「どうかした?」

「いや、なんでもない」

僕はそう言ったが、獅子木さんは少し考える風な仕草をしたあと、口を開いた。

「あ、これからの講義のこと考えてるでしょ。ノートをどう取ったらいいかって」

言い当てられた。

「心配性だなぁ。大丈夫だって。必要ならノート見せてあげるからさ」

「いや、そこまでしてもらわなくても」

獅子木さんはやたらと鋭く親切だ。こういう人なのだろうか。

「何言ってんのさ。一年のこの時期から講義についていけなくなっちゃったら後々大変でしょ。こういう時は好意に甘えるもんだよ」

そう言われると何も返せない。

「とにかくさ、今日はゆっくり休んでおきなよ。身体中痛めてるんだから」

「……そうだね、そうするよ」


「それじゃぁ、私はそろそろ帰るね」

獅子木さんはそう言って椅子から立ち上がり、床に置いてあったバッグを肩にかける。

「うん、ありがとう。助かったよ」

「私じゃなくても誰かが通報してくれたとは思うよ」

「そうじゃなくてさ」

「?」

「いや、なんでもない」

おそらく、話相手がいなかったら気分は大分落ち込んでいただろう。それについての礼のつもりだったが、わざわざ口にするようなことでもない。

「ま、いいや。それじゃぁまたね」

手を振りながら、獅子木さんは病室から出ていった。僕は左手でそれに返した。いつものくせで右手を動かそうとして酷い痛みが走ったのは秘密だ。


その後、叔母さんたち夫婦がやってきて、本やら着替えやら、入院生活に必要になりそうなものを持ってきてくれた。

とても心配してくれていたのだけど、退院自体はすぐに出来そうだというのを聞いて、すごく安心したようだ。

轢き逃げのせいで一時的にかなりの負担が発生しそうなことについても、心配するなと言ってくれた。

そんな言葉がありがたく、夕方のやりとりもあって、僕の心もだいぶ落ち着いてきた。

さすがに身体にかなりの負荷がかかっていたということもあって、その日はすぐに、しかし不安な気持ちをそれほど抱くことなく眠りに就くことができた。

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