第3話



 これでもう、後戻りは出来ない。

 

 閉め切られた上部のハッチを見上げ、静かに目を閉じた。そのまま大きく息を吸うと、湿気と金属の匂いが混じった空気が肺を満たす。あれだけ怖かった《回天》の内部も、今では一番落ち着ける場所になった。自分以外の誰もいない、静かで狭い空間が祥雄は堪らなく好きだった。


 颯子に手紙は残さなかった。遺品や遺骨代わりの箱も全て、どこにもやらずに捨ててくれと頼んである。そんなものが家にあっては、颯子は永遠に俺のことを思い出してしまうだろう。あんなことをしておいてこう言うのは酷なのかも知れないが、颯子はさっさと俺のことなど忘れてしまうべきなのだ。そうして全ての苦痛を忘れて、幸せになるといい。それが祥雄の、颯子への最後の望みだった。

 この後のことは、全て要二に任せてある。『俺ももうじき征くのだが』という彼の言葉もろくに聞かず、半ば強制的に押し付けてきた。要二は出撃しない。特に理由はないが、祥雄には直感に近い自信があった。


(四号艇、感度はどうか?)

「四号艇、感度良好。やはり柳井やないの整備は最高ですね」

(そうか……柳井にそう伝えておこう。貴様は待機しておけ)


 自分でも驚くほど柔らかく落ち着いた声で、それこそ土浦にいた頃に戻ったような気分になった。声は落ち着いていたが、心身共にそわそわしていた。他の隊員たちが出撃するエンジン音をじっと聞くのは、気が狂いそうになるほどもどかしかった。早く俺を行かせてくれ。祥雄の心は、急いていた。


 気を紛らすために今までのことを思い返してみたが、なんだかんだ言っても幸福な人生だったのだろうと思う。平生で過ごした幼少期も、予科練で過ごした一年半も――颯子を想った十八年間も、辛く惨めで過酷だったけれど、それでも充実していたし暖かかった。


 何の心残りもないけれど、ただひとつあるとすれば、悟志と颯子の仲を受け入れてやれなかったことだ。別に悟志のことが嫌いなわけではない。寧ろ好きだ。――ごめんな、悟志。最後までお前の颯子に対する想いをいけ入れることができなかった。靖国で会った時にでも、この詫びを受け取ってくれ……。


(各艇発進用意。方位角左六十度、距離千五百!)

(一号艇、発進!)


 苦笑混じりに懺悔していると、作戦開始を合図する電話が狭い艇内に鳴り響いた。――いよいよ、この時が来た。一号艇にエンジンが点火され、スクリューが海水を掻く音が鋼鉄越しに聞こえる。それを聞きながら、祥雄は大人しく特眼鏡に凭れかかって待った。少しずつ少しずつ、一号艇の音が遠ざかる。少ししてから爆音が聞こえ、突撃成功が確認された。――もしかして、俺は用済みか?二号艇、三号艇の音が聞こえないあたり、さっきの一号艇だけで片付いたのではないだろうか。だとしたらまずいぞ、非常に……


(四号艇、発進用意を!)

「了解」


 頭を預けていた特眼鏡から身を起こして焦っていると、すぐに発信用意の命令を受けて安心した。その安心しきった声で返答したから、艦長の心に引っかかってしいまったのだろう。何か言いたげだったが、聞かずに全ての弁を開放した。今のところ、艇内に異常はない。


(……天野、行ってくれるか)

「勿論ですよ。必ず仕留めてきます」


 相変わらず穏やかな声をした祥雄に『この瞬間にこんなに穏やかなのはお前くらいだ』と艦長は言い、直ぐに固縛バンドの開放命令を下した。

 ハンドルを目一杯押してエンジンを回すと、後方から物凄い衝撃と共に、爆発音がした。良かった、問題なく点火してくれた。これで俺は……逝ける。


「熱走!」

(四号艇、発進!)


 固縛バンドを外され、ごぼごぼと大量の気泡が発生する音を聞いた。グンと一気に重力がかかる感じがし、時速五十キロで前進していく。十三、二十六、三十九……徐々に敵に近づいている。あと五分もすれば、あいつにぶち当たれるはずだ。


 誰かのためだとか、そんなものはどうでもいいと思っていた。だが実際に突撃しに行くとなると「これで誰かの未来を護れるのか」という気にもなってくる。ここで船を沈めて敵を減らせば、誰かが生き延びる確率が上がるのかもしれない。その中に要二と颯子が含まれていたなら……それはこの上ない幸福だ。


 見てろよ。俺は必ず、お前を沈める。


 自分でも驚くほどの攻撃性を剥き出しにした祥雄は、不敵な笑みでハンドルを握り直す。俺の命と引き換えに、二人の未来を守ってみせる。祥雄は期待と希望に満ちた瞳で、ただ真っ直ぐ敵艦がいるはずの前方を見据えた。



――これで、全て断ち切れる……。


 

        ※



 ろくな見送りもできず、祥雄がいつの間にかこの家を去ってから随分と経った。颯子は、戦争が終わっても帰ってくる気配のない祥雄の帰りを待っていた。戦死公報も届いていないし、きっとまだ生きているはずだ。彼には今でも信じられないような大変で背徳的なことをされたけれど、無事に生きて返ってきてくれたなら帳消しにしてやるつもりだった。


 帳消しにしてやる……というのは少し違うのかもしれない。寧ろ逆かと、颯子は思った。結局、なぜ彼があんな表情をしたのかが分からなかった。それに「俺の気も知らないで」と言っていた。そんなの、言われていないのだから知るはずがない。そう思う反面、双子の姉だからと何もかも解っているような気になっていたのも事実だった。あるかないかも不確かな絆を過信し、意志の疎通を怠った結果がこれだ。祥雄は私に傷つけられ、限界ぎりぎりまで壊れてしまった……何としてでも、再会して心からの謝罪を聞いて欲しかった。


「……!」


 玄関の戸を叩く音がして、颯子は急いで駆け付けた。祥雄だ、祥雄が帰ってきた。勢いよく戸を開けて出迎えたが……そこにいたのは祥雄ではなかった。小柄な彼とはおよそかけ離れた長身の男が、玄関先に立っている。


「はじめまして。予科練で天野祥雄の同期だった森口要二です」

「森口さん……!祥雄は……祥雄はどこに居るんですか……!」


 名乗ったとほぼ同時に問い詰めてきた颯子に、要二は面食らった。どうやら、自分と彼女の求めるものは同じらしい。要二もまた、祥雄の安否確認のためにここへ来た。自分は突撃前に終戦を迎えてしまったが、祥雄は突撃して戦死したはずだ。だが艇の不備で生き延びた可能性も捨てられない。

 彼に押し付けられた面倒事を片付けるには彼自身の安否確認が必要不可欠だから、何としてでも知りたいのだが……ここも駄目だったか。自分の存在自体を消すかのような処理をして回ったらしい祥雄に、要二は心の中だけで舌打ちをした。


「それは俺にはわかりません。その確認のためにこちらへ寄らせて貰ったのですが……通知などは何も?」


 要二が問うと、颯子は俯いたまま小さく頷いた。

 さあ、どうしたものか。要二はひとり、今後のことを考えていた。ここへ来れば何か分かるかもしれないと思ったが、その考は甘かった。解放されたい思いがあった彼が、言い方が悪いが悩みの種があるこの生家に戻ってくるとは思えない。少し考えれば分かるようなことだが……俺もこの混乱に乗じて焦っていたのだろう。真相を知りたいなら、平生基地に行ったほうが良さそうだ。あまりここに長居するのも悪いと思い、今だ俯いたままの颯子を見下ろしながら要二は口を開いた。


「そうですか、では他を当たってみます。もしこちらに祥雄が戻ることがあれば、くれぐれもよろしく、」

「祥雄は」


 踵を返しかけた要二の袖を掴んで引き止めた颯子は、彼が言い終わるのも待たずに問いかけた。今まで抱え込んでいた不安を全てぶち撒けてしまいそうなのを堪えて、袖を強く握った。振り返った要二の顔は、見られなかった。


「祥雄は、本当に居たんでしょうか……?」


 今の颯子には、それすら分からず不安だった。終戦から半月が経っても、近隣の平生基地にいるはずの祥雄は帰らない。戦死公報もない、手紙もない。それだけならまだしも、この家に置いてあった彼のもの全てがなくなっていたのだ。予科練の前に通っていた中学校の制服も、書いて寄越してくれていた手紙も、祥雄が写っていたはずの写真も、何もかもが消えていた。彼が確かに存在していたことを証明するものが何もなくて、ぐるぐると考え事を繰り返すうち、本当にいたかどうかすらよく分からなくなってきていた。


 自分でも、わけがわからないことを言っているという自覚はある。それでも、自分以外の誰かの口から「天野祥雄」と聞いただけで安心し、問わずには居られなかった。

 要二は何も言わなかった。正確にいえば、何も言えなかった。……これは、他人の自分が口出ししてもいいことなのだろうか。

 この様子からすると、祥雄の工作は完全に成功していると見た。彼の思いを尊重するなら、このまま曖昧にして立ち去った方がいいだろう。だが、この独り残された彼女を思うなら『確かに存在した』と肯定してやるべきだ。あいつは『後は頼む』と言っていたが、一体なにを頼みたいのだ。お前はざっくりしすぎなんだ、全く面倒なことを押し付けやがって。要二は表情を変えないまま脳内のみで毒づき、取り敢えずで有耶無耶にしてやろうと言葉を探した。


 考えるために少し上を向いていた視線を戻し、項垂れた颯子の頭が見えた――と同時に、それがどんどん遠ざかっていくのを見た。何事かと思い更に見下ろせば、地面にへたり込んで辛そうにしている颯子が見えた。


「……大丈夫か?」


 この場合にどうすればいいかがよくわからない要二は、取り敢えず以前に土浦で悟志がしていたことを真似てみた。あまりの心労に体調を崩してしまったか。青ざめてぐったりしてしまった颯子を支えるように抱きとめ、背中をさすってやった。これが正しい処置かどうかは知らない。実家でも学校でも周りは全て男ばかりだったから、女子の扱いは本当に分からん。要二はすっかり、困り果てていた。


「……気持ち悪い……」


 掠れる程の弱々しい声でいう颯子に、やはり心労が祟ったかと思ったが――なぜだか下腹部をさする彼女を見て、要二ははっとした。この子は、まさか……


 要二はひとまず有耶無耶にすることは諦めて、せめて彼女を安静な状態にしてやろうと抱え上げて勝手に玄関を上がっていった。「勝手な侵入を許せ」と吐き捨てるように言ったが、具合の悪い颯子には届かない。


 悟志、祥雄。一体どっちが彼女を……?思いがけない事態になっていたことを知った要二は、ひとり困惑していた。



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