第4話



 森口要二は、大変に困っていた。


 祥雄の安否を確認した後、早々に岐阜の実家へ帰るつもりだった。しかし実際に来てみればどうだ。帰ろうとすれば、この天野颯子によって阻止されてしまう。心身ともに弱り切り、更には妊娠の疑いのある彼女をひとり放ってもおけず、こうして未だに天野家に居座っている。あれからもう、二ヶ月も経とうとしていた。


 一人暮らしの年頃の娘の家に、他人の男が居座るものではない。それは世間に興味のない俺にでも分かる。『天野颯子の世話係』という名目を確保するために、今は家の裏手にある畑を耕しているところだ。幼少期から実家の畑で手伝いをさせられてきたが、今日ほどそれが役立った日はない。渋々ながらに手伝っていてよかった。要二は初めてそう思った。


「……どうしたかったんだ、お前は……」


 いつも持ち歩いている黒い手帖を手にとって、要二はひとり呟いた。これは自分のものではない。祥雄のものだ。あの日、平生で会ったときに手渡された。祥雄が言うには、『お前に預ける。次に会ったとき俺が生きてたら返してくれ。死んでいたら捨ててくれ』とのことだ。生きているのか死んでいるのかがよくわからない今、これをどうすることもできずに困っていた。これには、颯子への思いがびっしりと綴られていた。


 さっさと帰って来い、祥雄。じゃないと俺が奪っちまうぞ。要二は手帖の表紙を見つめながら囁いた。悟志と祥雄の言い分は、土浦で話を聞いていただけの頃には全く理解できなかったのだが、実際一緒に暮らしはじめてようやく分かった。不器用で抜けている正確をしているくせに、しっかり者を演じようとしてる様はいじらしく甘やかしたくなる。だが甘やかそうとするたびに怒るので、それが原因でよく喧嘩になる。彼女の体調を思えばそんなことをするべきではないのだろうが、我が強い者同士、なかなか互いに折れないので長期化することも頻繁にあった。


 颯子は妊娠の疑いがある……と言ったけれどそれはほとんど確定だと思う。思い切って近所のご婦人に聞いてみたが、恐らくそうだろうと言っていた。『相手はあんたか』と軽蔑したような声色で言われたが、そんなことで敗ける要二ではなかった。『勿論そうだ』と堂々嘘をついたときの、あの面食らった顔は今でもよく覚えている。


 実際のところ、腹の子の父親は祥雄だった。颯子は時々、夜魘されているのだ。祥雄、祥雄と呻いて、腹を強く押さえつけながら……。


 初めて見たときは、たたき起こしてやめさせた。『恐らく妊娠しているのだろう』と言われた現場に颯子はいなかったが、彼女は薄々感づいているようだった。寝ぼけていたからか重度の不安からか、彼女はほぼ全てを吐き出した。弟との子供ができるなんて。産みたくないけど、祥雄が残した唯一のものを捨てたくない。颯子は泣きながら、そう言っていた。

 

 だから――というのも可笑しな話だが、その晩に颯子を抱いた。あのとき吐いた大嘘を真実にして、颯子に思い込ませるのが目的だった。出会って高々―ヶ月程度で、そんな理由で抱くとは我ながら最低だと思う。それでも、今の彼女を背徳感から解放してやるにはこの方法以外に思いつかなかった。こうしていれば、腹が大きくなって、いよいよ妊娠が白日の下に晒されたときに「俺の子だ」と胸を張って言える。若い未婚の娘が、と言われることはあるだろうが、近親で通じた罪を糾弾されることはないだろう。これは酷い自己満足だが、それで彼女の重荷が軽くなればいい。要二はそう思っていた。勿論、彼女が望みさえすればすぐにでも娶るつもりだ。


「……しかし一体、どういうつもりでいるんだろうな、お前は」



 大人しくしていろという言付けを破って、颯子は裏手の畑へと降りてきていた。一切振り返らずに言う要二の表情は見えず、また誰へ向けての言葉かも分からない。一人でいるときによく見つめている黒い手帖を手にしていたから、それに向けて言った言葉なのかもしれなかった。


 あの手帖は、余程大切なものらしい。自分が触ろうとすると要二はよく怒っていた。それを見つめる要二のめは切なげだったし、戦争で亡くなった大切な人のものなのかも知れない。だったら、触られて怒るのも頷ける。けれど――そう思うと申し訳なくなると同時に、物凄く妬けてしまう。ただでさえ性格が一致しすぎて頻繁に喧嘩しているというのに、その手帖の存在は、さらに頻発させる起爆剤となる。颯子はそれが、堪らなく憎らしかった。


「お前に言ってるんだぞ、颯子」


 颯子がしばらく黙っていると、要二は彼女を振り返って言った。


「……どういうつもりって、何?」


 ついつい頬が緩みそうになるのをこらえながら、颯子は要二に歩み寄りながら言う。名前を呼ばれただけで嬉しいと思ってしまったのは、彼にだけは知られる訳にはいかない。『そんなに好きなら少しくらい言うことを聞け』と言われるに決っているのだ。


 しらばっくれているように聞こえるかも知れないが、本当に何のことか分からなかった。そのまま近寄って隣に座り込むと、要二は諦めたように溜息をついて手帖を仕舞いこんだ。再び手帖への嫉妬心が湧くのを感じながら、颯子は大人しく黙っている。


「こんな得体の知れない男を連れ込んで。未婚で一人暮らしの小娘が、こんなもの連れ込んでたら悪く言われるのは解りきっていただろうが」

「別に得体が知れないわけじゃないじゃない。祥雄の同期なんでしょう」

「でも会ったのは二ヶ月前が初めてだ」

「そんなこと言ったら要二さんだって、」


 途中まで言ったところで、颯子は抱え込んだ膝に顔を埋めて黙ってしまった。話しながら先月の出来事を思い出し、急激な気恥ずかしさを感じていた。あれ以来同衾することも増えたのだし、何を今更……と思うのだが、たった一ヶ月で慣れてしまうのも問題か。あれこれ考えている間に、俯いてしまったことに焦りだした要二を隣に感じた颯子は、少しだけ勝ち誇った気分になった。


「……この子は、貴方の子なんですよね」

「そうだ、俺の子だ」


 不安げに問う颯子に、要二は間髪入れずに答えた。

 その言葉に安心したし嬉しかったが、その反面の罪悪感も酷かった。悟志の好意を認めながらも応えず、祥雄の苦悩に気づかず彼の心を壊してしまった。そして今、要二の人生を犠牲にしようとしている。そんな自分は間違いなく性悪で最低な女で、いないほうがいいのではないかと思えてくる。


 そんな颯子の気持ちを知ってか知らでか、未だ俯いたままの颯子の肩を抱いて引き寄せた。思った以上に暖かくて、颯子は泣き出したくなった。  



        ※



 終戦から数年経ったが、颯子も要二も未だに平生で暮らしていた。あの時の子もどうにか無事に生まれて、丁度手のかかる年齢になった頃だ。祥雄の戦死公報が届かないまま、二人は終戦した年の十一月に入籍した。


 結婚は親族に反対されると覚悟していいたが、そんなことは全くなかった。挨拶前に「この性格で貰い手がないと思われてたから、寧ろ喜ばれる」と颯子は言い、「基本放任な上に四男だから別に問題ない」と要二は言っていたのだが、実際その通りになったことに互いに少し呆然としていた。


『浜に魚雷のようなものが打ち上がった』。


 そう聞いたのは、山口近辺が酷い台風被害に見舞われた直後のことだ。雨風に荒らされ駄目になってしまった畑の処置をしていたときに、自治会の役員から「若い人手が欲しい」と声をかけられて知った。


 打ち上がった、魚雷のようなもの。


 それを聞いた二人は顔を見合わせて、役員を放って浜へ駆けだした。五分もしないうちに到着した浜も酷く荒れていて、海も湿気ている。その中に見た黒い塊は……かつて嫌というほど見てきた、飽きるほど志願を問われた《回天》だった。


 性格が一致しすぎている二人の思うことも一致していて、偶然打ち上がったそれに一縷の望みをかけていた。この中に、消息を断った祥雄がいるかもしれない――

「……中を確認しても構いませんか」

「それは構わんが……大丈夫か?危なくないか?」


 心配する自治会長の言葉もろくに聞かず、合否だけを確認した要二は、横倒しになった《回天》に近づいた。長い間海底を這っていたのか、艇体の所々が凹み少し錆びていた。潜望鏡もだいぶひしゃげていたが、接合部が破損した様子はない。上部ハッチの把手に手をかけ、要二は《回天》をこじ開けた。


 その瞬間、饐えたような嫌な臭いが立ち込めた。手拭いをマスク代わりにして中を覗き込むと、人の頭部が見えた……が、これだけでは祥雄かどうか分からない。どうにかして引きずり出して名札を確認したいが、このまま引き出しても大丈夫だろうか。比較的低温で酸素が少ない状態だったからかほとんど腐敗はしていないようだが、あれから五年も経っているのだ。だいぶ劣化はしているだろう。この遺体が誰のものであれ、触れて動かしたことで崩してしまうことだけは避けたかった。


――いちいち気にしてたら、何も変わらない。


 一度大きく息を吐き、要二は思い切って艇内に腕を突っ込んだ。持ち前の大雑把さを発揮して首根っこを掴みかけたが、既のところで手を止めた。脇の下に手を差し込んで、ゆっくりと引き寄せる。ハッチの入り口から頭が出たところで、念の為に遠ざけていた颯子がこちらへ駆け寄ってきた。母に倣ってか興味本位からか、子供たちもついてきた。全く、本当に言うことを聞かないやつだ。


 臭いはだいぶ和らいでいるが、人の変わり果てた姿を幼い子らに見せてしまっても良いものか。……まあ、結局自分自身の責任か。「気分が悪くなったら離れるように」とだけ言って、要二は引き上げ作業を再開した。上半身だけを引き出して、前屈み気味になっていた体を少し伸ばす。そのとき見えたものに、颯子は息を呑んだ。


「……祥雄」


 だいぶ薄れていたが、左胸の名札には『天野祥雄』と書かれていた。あっという間に視界が滲んで分からなくなったけれど、確かにそう書いてあった。無事ではなかったが帰ってきてくれたことが、そして確かに天野祥雄は存在したと証明されたことが嬉しくて、颯子は変わり果てた祥雄を抱きしめた。


「お帰り、祥雄……!」


 要二は、その様子を少し離れた後ろから見ていた。干からびた遺体に怯えた子供たちが足に張り付いて動けない、というのが本当のところだが、久々の姉弟の再会を邪魔せず済んでよかったのかもしれない。


 やっと見つけた。探したんだぞ……要二は小さく呟いた。どうして数年経った今になって帰ってきた。どうせ台風で海が荒れたタイミングで帰ってくるなら、戦後直後の枕崎台風で帰ってくればよかったのに。そうすれば、俺も颯子もお前の身を案じて心労することもなかったのだ。この再会を本人は望まかかったかもしれないが、そんなことは知らん。今までさんざん心配かけてきた罰だと思え。そのおかげで、祥太しょうたのときは随分と難産だったんだぞ……


「祥雄、お前との約束は守ったからな」


 颯子の腕に抱かれながら表情ひとつ変えなくなった祥雄を見届け、要二は手帖を破り捨てた。




   【泡沫の如く、・完】



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泡沫の如く、 志槻 黎 @kuro_shiduki

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