第2話

         


 久しぶりに突然の帰郷を果たした祥雄は、姿を見るなり肩を殴ってきた颯子に苦笑していた。いままで一切の連絡をしなかったことを怒っているようだ。今は地元の平生にいるのだから帰郷もなにもないのだけれど、この生家に足を踏み入れるのは約半年振りだった。


 明後日、出撃が決まった。颯子にはなにも言うつもりはない。そもそも今日帰宅することさえ言っていない。この身ひとつでふらっと、最後に一目見るためだけに帰ってきたのだ。


 颯子は、祥雄が平生突撃隊に所属していることを知らない。彼女は相変わらず平生基地へ訪れるのだが、祥雄はできる限りで彼女を避け、隠れるようにしてきた。その甲斐あってまだ見つかっておらず、未だ土浦にいるものだと思い込んでいるようだった。


 だが困ったことに、颯子はあれこれ飛行機の話をせがむ。昔はあれだけ話せたのに、今の祥雄には何も言えなかった。もうこの体に、大好きだった飛行機の感覚はない。代わりにあまり好きではない《回天》の感覚ばかりが蘇り、その度に足先から痺れてくるのだった。


 飛行機のことを思い出そうとしては、《回天》のハンドルを回す素振りばかりしてしまう。その動きが染み付いてしまった祥雄を見て、颯子は胸の奥がざわついた。脳裏に浮かんだのは悟志の姿と人間魚雷だ。あの人はぼやかして明確にしなかったけれど、人間魚雷を匂わせた話をするときに、よく同じ仕草をしていた。

――祥雄は、飛行機には乗っていない。乗っているのは……


「わ……私お茶入れてくる……!」


 颯子は至極不自然な流れだと思いながらも、その場を離れたくて会話を遮断した。その声にはっとした祥雄は、そこで初めて自分が《回天》の操縦動作をしているのに気がついた。浮上の操作をしている右手を慌てて引っ込めたが、もう何もかもが遅かった。


 彼女は、全てを悟ってしまったのだろう。平生基地に出入りしているのだから、《回天》の存在を知っていても不思議ではない。だとしたら、どう説明しよう。祥雄は思考を巡らせて目を泳がせた。そのときに見渡せた室内は、以前帰郷したときから変りない……はずだった。


「さ……悟志……」


 気道を絞められる感覚がして、掠れる声で親友の名を口にした。線香の香りがする仏前に、白い布に包まれた見知らぬ桐の箱が置いてある。そしてその横に置かれた写真の中の男は、間違いなく片岡悟志だった。この凛々しく端麗な優男を、祥雄が見間違うはずがない。悟志の戦死は、平生に来る前に聞いた。だけど分からない。なぜ、なぜ悟志の遺品がここにある? こういうものは、本人の実家に送られるはずだろう。なぜ赤の他人の、同期の姉のもとに納まっているのだ。突然のことに動揺を隠せず、祥雄は揺れる瞳で遺影を見ていた。


――要二、祥雄。大丈夫だ、何の問題もないぞ!


 生前の悟志の言葉が、脳内に反響する。やめろやめろやめろ、そんな声は聞きたくない。耳を塞いでも聞こえる声に気狂えそうになっても、一度稼働しだした思考は止まってくれなかった。


 あの殺伐とした戦果の中でも幸福そうだった悟志の表情。

 出撃が決まった時の寂しげな笑顔。

 今日、自分を出迎えてくれたときの颯子の艶やかさ。

 そして――身内でもないのに仏前に置かれた遺品。


 突然繋がりだした現実に眩暈がして、傾いた体を支えるように、畳に手をついた。あのときも動揺していて気付かなかっただけで、本当は既に恋仲だったのではないだろうか。結婚の約束もしていたのではないだろうか。そう思うと、底なしの絶望が祥雄を襲うのだった。


「颯子……あれ……」


 顔も上げずに指さすと、颯子はその導線に沿って視線を動かす。祥雄が示すものの正体を確認した颯子は、事も無げに口を開くのだった。


「ん?……ああ、悟志さんね。身寄りがないみたいだから、うちで引き取ったの」


 無縁仏にするよりはいいでしょ、と答える彼女は、祥雄の知らない颯子だった。それを引き出したのは悟志で、そのことを思うと頭が真っ白になった。頭も心臓も痛くて、もう今すぐにでも死んでしまいたかった。

 悟志はお前の何だ。強く問いそうになったところで、祥雄は息を呑んだ。悟志の遺影を見る颯子の目は柔らかくて、熱を帯びていて、恋する乙女そのものだった。


 帰ってこなければよかった。


 脳内の大半をその気持ちに占領された祥雄は、最後だからと颯子に会いに来たことを激しく後悔していた。最後の最後にこんな苦しい思いをするくらいなら黙って行けばよかった。絶対に無理だと諦めていたはずなのに、それでも彼女に大切な人がいると知れば抑えきれないくらいの嫉妬心が体内に蠢く。


 断ち切らねば。そう思えば思うほどに、思いは募る。どうして俺は、彼女の弟なのだろう。どう頑張っても自分では解決できない問題に絶望して、好条件ばかりが揃っている悟志に無性に腹が立つ。祥雄は、仏壇に祀られたもの全てを力一杯払い落したい衝動に駆られていた。


 駄目だ、落ち着け祥雄。そんなことをしたって何にもならない。祥雄は必死に自分の腕を掴んで静止し、耐え忍んでいた。颯子は悟志の遺影を見るばかりで、苦しみ悶え、震える祥雄に気づかない。今だ。今のうちに出ていこう。悟志にも颯子にも危害を加えてしまう前に、早急に立ち去らねば。どうせ気づきはしないし、何も困ることはないはずだ。だってもう、彼女の隣には悟志が……。色んな感情が混じりあって破裂しそうなのを感じた祥雄は、だいぶ古びた畳を踏みしめて立ち上がり足早に廊下へ出た。


「祥雄? どこに行くの、あんたさっき来たばっかで、」


 去ろうとする祥雄をすぐに追い、腕を掴んで引き留めようとする颯子に、遂に祥雄の中の何かが切れた。触れられた腕を起点に、全身がかっと熱くなる。長年抑えこんでいたもの全てが一気に放出されるような感じがして、自我に反して体が動く。颯子を振りほどくまでならまだいい。そこでやめておいてさっさと出て行けばいいものの、その足は颯子に詰め寄っていく。やめろ、落ち着け。これ以上は動くなと命令しても、体は言うことを聞いてくれない。そして力任せに薙ぎ払い、冷たい床の間に颯子組み敷いた。


「祥雄……?」


 突然のことに目を白黒させた颯子は、この状況を理解しようと努力していた。だがどれだけ考えても理由が見当たらない。悟志のことが原因なのだろうか。でも二人は、仲の良い親友同士だったはずだ。――ああもう、本当に分からない。


「なんだよ颯子……おれの気も知らねえで……!」


 真っ直ぐに見た先には祥雄がいて、複数の感情が混じりあったような表情をしていた。寂しそうに笑いながら泣いていて、声からは怒りと苛立ちを感じ取れた。


 彼は、一体どうしてしまったのか。


 あまりに異様な祥雄に怯んだ颯子は、怒鳴る祥雄を見上げるしかなかった。この二年近い年月の間、彼に何があったのだろう。目を逸らして唇を噛みしめた彼の苦悩の表情から、何か思い詰め、壊れる寸前にあることは分かる。けれど、それがなぜなのかが分からない――。


「……!」


 颯子の思考は、体を這う手の感触に遮断された。服の中に差し込まれた冷たい手に頭が真っ白になり、それ以上は考えられなかった。至近距離にある祥雄の光のない目が恐ろしくて、悲しくて、こうなるまで気付かなかった自身を責めた。


 脳と体の意見が一致しないまま、祥雄はこの日、颯子の全てを奪った。



        ※



 何も言わずに帰ってきた俺は、間違いなく最低な男だ。祥雄は《回天》から這い出ながら思った。結局昨日は、最後の最後まで脳と体は一致しなかった。脳がやめろと命令しても、体は確実に颯子を傷つけていく。泣かせてしまったのは申し訳ないと思う一方、後悔はしていなかった。二度と会わないのだから、嫌われようが拒絶されようが構わない。もし実ったなら産んで欲しいとは思っているが、あとは好きなようにすればいい。どうせ俺はいなくなるのだ、あれこれ口出しする権限など持っていない。


 兵舎に戻る途中に「面会の客が来ている」と呼びとめられたが、それは拒否した。客といってもどうせ颯子だ。彼女からの文句を聞いてやるつもりはない。また昨日のようになってしまう可能性が高い気がして、直接面会するのは気が引けた。


「おい、待て貴様!これ以上は、」

「来ないなら行くしかないだろう」


 自室の扉に手をかけた所で、慌てる先輩の声と、それと対照的な淡々とした声を聞いた。その声は聞き覚えがあったが、こんなところで聞くはずがない。幻聴が聞こえるほどぶっ壊れていたかと苦笑しながら声のした方を見た祥雄は、突然のことに息を呑んだ。


「要二……!」


 面会の客は、颯子ではなく森口要二だった。もうすぐ予科練卒業を控え、土浦にいるはずの男がなぜここに。律儀に七つ釦の詰襟を来た要二は、慌てた先輩に押さえられながら強引に兵舎の奥まで来たらしい。本当に、我が道を行く自由なやつだ。唯一変わらないでいてくれる要二に安心して、祥雄は思わず頬が緩むのを感じていた。


「まだ生きているようだな。それならいいんだ、それなら」

「え?ちょ、要二……!」


 微笑んだ祥雄の顔を見て満足そうに頷き、立ち去ろうとする彼を思わず呼びとめた。遠路遥々、丸一日かけて平生まで来たというのに、ろくな会話もせずに帰るとは彼らしい。しかしせっかく安心できたのに、それが一瞬で終わってしまうのは口惜しかった。


 要二もそうしてやりたかったが、生憎と時間がない。呼び止めておきながら寂しそうにこちらを見上げるだけの祥雄を、乱雑に撫でてやった。


「悪いな、あまり時間がないんだ。おれはこれから、鹿屋に行く」


 すぐそこにある海を眺めながら言う要二に、祥雄は暫し混乱した。なぜ彼は、鹿屋に行く。要二は飛行機を作りたいと言っていたから、どこかの工場へ行くものとばかり思っていた。だがそこに、彼が望むような規模の大きい工場はなかったはずだ。鹿屋にあるのは――。


「要二、お前どうして」

「特攻を志願したんだ。本当はお前たちと同じ○六金物……《回天》っていうのか?それを希望したはずなんだが……なぜか航空機になった」


 お前にもいうつもりはなかったんだが、ばれちゃあしょうがねえ。祥雄の問を遮り言った要二は、こちらは見ずに海ばかりを見ている。


「でも要二、あんなに特攻を嫌ってたのに」

「ああ、今でも特攻自体は大嫌いだ。国のために、という定義が気に入らん。実際、熱望まではしてないからな。俺は国のために行くつもりはねえ。悟志を殺した敵艦に、仇討をする」


 そう言って見下ろす彼の目は、恐ろしくぎらついていた。祥雄はその目に怯んだが、要二の表情はすぐに柔らかいものに変化し、苦笑混じりの笑顔を寄越してきたのだった。


「俺の命だと、悟志の分が精々だ。お前は終戦まで持ちこたえろよ」

「いや……俺な、明日行くんだ」


 そう言った祥雄の表情は明るく、それを見た要二は暫し呆然としてた。いやに清々しい笑顔は、明日の死を心待ちにしているかのように感じる。『祥雄が特攻任務を熱望したのは、尽きない悩みからの解放を望む自殺願望に近いものではなか』。以前たてたこの予想は、限りなく正解に近いのかも知れない。もう既に手遅れだったか――この現実があまりにも遣る瀬なくて、要二は無言で、祥雄の肩に手を置くしかできなかった。



 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る