第1話


 こんな馬鹿な作戦に志願するやつがあるか。初めて見る親友の激昂も意に介さず、特殊任務に『熱望』した俺はきっと馬鹿なのだろう。天野祥雄は意識が吹っ飛びそうなほどの息苦しさを感じながら、目の前にある操縦ハンドルを握りなおした。時計と速度計から、目的地までまだ距離があると確認した祥雄は、ひとつ小さく息をつく。


 こいつは化け物だ。初めてこれに乗ったとき、直感でそう思った。訓練を受け始めた当初は、未知への恐怖感に全身が震え上がっていたけれど、最近ではそれもなくなった。全く、慣れとは恐ろしいものだ。じきに恐怖感すらなくなるのかもしれない。


 だいぶ乗り慣れた戦闘機もまあ狭かったが、この特殊兵器はそれとは全く比べ物にならなかった。そう思うのは見通しの問題だろう。飛行機は一面に空が見えていたけれど、こちらに関しては見通しが良い悪い以前の問題だ。いくら見渡しても外の様子は一切見えず、頼みの綱は、潜望鏡の小さな四角形の景色のみだった。


 もともと志願の動機が不純なせいか、特殊兵器の操縦士になった感動はなかった。圧倒的な狭さと閉塞感に怯みはしたものの、『むかし遊んだ土管のようだ』と懐かしさを感じた自分の脳は、もしかしたらどこか可笑しいのかもしれない。


 その土管を連想させる特殊兵器の名は《回天》という。簡潔にいえば人の手で操縦する魚雷で、酸素魚雷を無理に改造しただけあって内部の造りはお世辞にも上等とはいえなかった。その内装だけでも死の恐怖感を煽られるそうだが、祥雄は全く気にならなかった。正直にいうと、いつ死んでもいいと思っていた。近頃はなんだか変だ。祥雄は自身でもそう思っていたけれど、それさえどうでもいいと思い始めている。何に対しても無気力というか、無関心というか。とにかく、自分の気持ちを本格的に自覚してしまってからというもの、別の誰かになってしまったような思いだった。以来、自分に関することの全てが他人ごとのように思え、


《回天》操縦の才を開花させても、優等生だと褒められても、特に何も感じなかった。


 どうしてこうなってしまったのだろう。祥雄は少し考えてみたが、すぐに思考を停止させた。どうせ考えたって分からないことだし、わかったって解決しないことだ。それよりも今は、訓練に専念せねば。祥雄は再び走行距離を計測することだけに全意識を集中させ、現在位置と自分の動きを脳内に再生させた。集中するにつれ、耳障りなエンジン音が、次第に遠ざかっていく――

 目的地にたどりつき、折り返して港へ戻る。丁度の所で浮上し、ハッチを開いて更に狭い通信筒を抜ければ外へ出られる。通信筒から体を乗り出せば、内部に充満している淀んだ空気とは真逆の、瑞々しい潮風が吹き抜ける。やはり新鮮な空気とは美味いもので、その思わぬ甘さに身悶えそうになる。祥雄はそれを肺一杯に取り込んで、束の間の幸福に浸った。


「天野、はやりお前は優秀だな。突撃させるのが勿体ないくらいだ」


 質の高い操縦で戻ってきた祥雄に上官は上機嫌で話しかけてきたが、祥雄は適当に笑って答えるだけだった。かつて散々「子犬のようなふわふわした男」だと可愛がられてきたけれど、今ではその面影は殆どない。無口でぼんやりとしていて、一見無害そうではあるのだけれど……接してみれば雰囲気に一抹の禍々しさを含んでいて、なかなか近寄りがたい存在に成り代わっていた。


「有難うございます」


 やはり、祥雄の心は空っぽだった。操縦の腕が上がっても、褒められても、何も嬉しくなかった。もう何が嬉しくて何が悲しいのかの区別もつかなくなりはじめていて、どうしてこうなってしまったのかと考えるたび、結局すべて自分が悪いのだという結論にたどり着く。この結論に間違いはない。自分がこんな異常を抱え込んでいなければ、こんなに悩むことも当たり散らすことも、自棄になることだってなかったはずだ。祥雄は上官の並べる賛辞を愛想笑いで聞き流し、「お国のために立派に役立って見せます」と、形式だけの敬礼をした。


 突撃させるのが惜しいとは言われても、その時は必ず来るだろう。選考基準は年功序列ではなく上達した順だから、このままいけば俺もそろそろか。確実に迫り来る死の気配を感じ取っても感情はぶれず、何だか別の生き物になった気分だった。今までできなかったはずの愛想笑いと社交辞令を交えながら、すれ違う人たちを躱して祥雄は兵舎へと向かう。目は虚ろだが足取りはしっかりしている彼の様子は、誰がどう見ても異様だった。けれどもう見慣れてしまったし、こんな様子でも成績はいいので、心配して呼び止める者は誰もいなかった。


「あれこれ考える必要はないのに……」


 兵舎の影に隠れた祥雄は、無意識に小さくつぶやく。なにも感じないなら考える必要はないのに、なぜだなぜだと脳は思考を止めない。訓練や座学を受けているときは集中しているから考えなくて済むが、それ以外の時間は、祥雄にとって苦痛でしかなかった。


――こんなことで音を上げるなんて、情けないぞ天野祥雄。夏なのに冷え切った掌を額に当て、祥雄は自身を叱咤した。あれこれ考える必要はない。あの思いは秘めたまま、海の藻屑となればいいだけだ。それなのに……気を抜けば悟志や要二や、颯子の将来のことを考えてしまう自分がいる……


「くそっ……!」


 いい加減自分が嫌になって、祥雄は力任せに壁を殴って寝台に寝転がった。想像したのは、要二の腕の中でいやに安心しきった颯子の姿だ。かつてはそれを望んで自ら仕掛けたというのに、鳩尾が痛むほどの嫉妬が全身を焼く。どんなに思っても無駄なのだから、さっさと諦めてしまえばいいのに。どうしても止まらない思考に泣きそうになりながら、祥雄はゆっくりと目を閉じた。


「悟志……」


 祥雄は、今は亡き親友に助けを求めた。同じく颯子に片思いしていた片岡悟志は、この気持ちをどう片付けていたのだろう。どんな些細な事でもいいから、その話を聞いておきたかった。けれど、その悟志はもういない――久しぶりに寂しくなった祥雄は、目元が熱くなるのを感じていた。



『祥雄は素直な良い子だなあ……そんな祥雄に、兄さんが素敵な言葉を教えてやろう』


 七つ釦の詰襟を脱ぎ、見慣れたカッターシャツ姿になった帰郷戻りの悟志は、突然に祥雄の頭を撫でながら言った。

 祥雄は悟志のお気に入りだった。正確には「皆のお気に入り」だったのだけど、「その温厚さは癒しの存在だ」と、悟志は殊更に可愛がってくれたものだ。


 祥雄もまた、兄のような二つ年上の彼が大好きだった。長めの髪は上官からの反感を買うこともあったが、他よりずば抜けて優れた練習生だったので、強く注意されるところを見たことがない。野性的な性格には似つかわしくない端正な顔立ちで、女学生たちからの人気は絶大だった。わざわざ彼を見に来る人影を見たのも、一度や二度のことではない。


『ん?どんなの?』


「素敵なことば」の一言に、祥雄は目を輝かせて問うた。彼は自分よりもずっとものを知っているし、きっと面白いことを教えてくれるのだろう。祥雄の期待に気付いた悟志は、もう一度彼の頭を撫で、不敵な笑みを浮かべるのだった。


『神風の、伊勢の海の大石にや、這いもとえる細螺の、吾子よ吾子よ、細螺のい這いもとへり、撃ちてしやまん』

『……?』


 悟志の口から出た言葉は暗号のようで、意味を理解できなかった祥雄は小首を傾げるはめになった。国文科の授業が苦手だった祥雄には、難しい言葉はよくわからない。何かと教えたがっていた、国文が得意な颯子にもっと聞いておけばよかったと思ったが、今更思ったところでもう遅い。落ち込み始めた祥雄に気付かないのか気に留めていないのか、悟志は満面の笑みで、しょぼくれた祥雄の頭を撫で続けていた。


『群がる敵が全滅するまで、こっちも死ぬまで頑張れってことだ。お前にわかるように言えば、な』


 口を挟んだのは要二だった。彼によって簡潔に要訳されたそれを聞いてからようやく納得すると、「お前はもう少し国文を勉強しろ」と、呆れながら叱られてしまった。


『まあ、そういうことだ。でもな、それで終わりじゃない。俺たちは護国の鬼になって、銃後を守っていくんだ』

『そういうことだそうだ。すげえ下らねえけど』


 目を輝かせて言う悟志と冷たく言い放つ要二の温度差は激しかった。一方は国に殉じることも厭わない軍国少年、もう一方は国に殉じるなど馬鹿馬鹿しいと思っている国賊予備軍とくれば、一般的にいえば相性は最悪だ。謂わば炭火と氷、昔から氷炭相容れずという言葉があるのだし、仕方のないことなのだろう。

 しかし祥雄は、彼らが本気で否定し合うのを見たことが一度もない。反発しあうことも多いくせに、他のどの同期たちよりも頻繁につるんでいる。ぶつかりあってなお、共に歩く理由とはなんなのか。祥雄は以前に問うた事があったが、理由は特にないのだという答えが帰ってきたものだ。強いて言えばなんとなくだそうで、「戦友とはそういうもの」なのだと、二人は声を揃えて言っていた。


『お前なあ、下らないはねえだろ!』


 祥雄がひやひやしながら見守る中、はじめに手を出したのは悟志だった。手を出した、と言っても要二から読んでいた本を奪い取るくらいで、悟志の口調は厳しかったが酷く憤っているわけではないようだ。目は少し笑っていて、どちらかといえばじゃれついているようだ。要二はあからさまに嫌な顔をしていたけれど。


『良い言葉だろ。これで俺たちは、銃後を気にせず死ねるってもんだ』

『そもそも死ななきゃいいだろ。……それより本返せ』

『何を熱心に読んでんだよ、お前は。猥本か?』


 にやにやしながら言う悟志に、要二は「お前と一緒にするな」と冷たく突き放した。無神経にぺらぺらとページを捲る悟志を冷ややかな目で見下ろしながら、要二は結構本気の張り手を彼に食らわすのだった。

 そんな様子に笑いが巻き起こったのだけれど、祥雄は笑うことができなかった。――俺は、その環の中に加わることすらできないのか。ひとり取り残されたような感覚に陥って、寂しくて、泣き出したい気持ちになった。



――と回顧したのは夢で、一瞬にして景色は見慣れた天井になった。意識を現実に引き戻された祥雄は、ひどい倦怠感に見舞われていた。いつの間にか寝てしまったらしく、その間に本当に泣いたようだ。大量の涙でぐしゃぐしゃになった目元を袖で乱雑に涙を拭ったあと、祥雄は横たえていた体を起こした。

 一体どれくらいのあいだ寝ていたのだろうと急いで時計を確認したが――良かった、まだ十分程度しか経っていない。祥雄は安堵の息を吐き、憎らしい程に晴れた空をガムテープの米印越しに見た。


「あれこれ考える必要は……ない」


 まだ自分が自分でいられた頃に帰りたいと願ったって、そんなものは叶わない。どれだけ願っても、どれだけ考えても、結局は時間と体力を無駄にするだけに終わるのだ。自分自身に言い聞かせるかのように呟いた声が、誰もいない兵舎に反響する。その響きは驚くほどに冷たく、無機質だった。



        ※



 そういえば、近頃手紙のやりとりをしていない。唐突に思った森口要二は、今最大の悩みを放り出してそちらの方を考えることにした。


 祥雄は国文が苦手なくせに、手紙を書くのが好きな奴だった。土浦にいた頃にはどうにか時間を捻出して書いていたのに、異動したばかりの頃に葉書が一枚届いたがそれきりだ。この様子だと、姉の颯子にも手紙を寄越していないのだろう。訓練に明け暮れ多忙だからだろうが、きっと一番の理由は、彼があれこれ考えてしまってドツボに嵌っているからだろう。要二は、そう確信していた。


 緩い笑顔のせいで、あの人の表情に敏感だった悟志までもが何一つ悩みを持たぬ男だと思っていたらしいが、要二に言わせてみれば、あんなに悩みを抱えた男はそうそういない。三半規管が弱いとか古典が苦手だとかいう小さな悩みから、軍国主義的な社会に馴染みきれないことや実姉への恋慕など大きすぎる悩みまで、あの小さな体に詰まっている。ただ悩むだけならまだしも、どこにも吐き出さずに極限まで思い詰めるのだ、あいつは。特攻で早々に散ることを希望したのも、尽きない悩みからの解放を望む自殺願望に近いものがあったのではないだろうか。要二はただひとつ、それを危惧していた。


「……愚痴ぐらい、いつでも聞いてやるのに」


 要二は思わず呟いたが、鉛筆の音が余りに煩くて周囲には聞こえていないようだった。皆真剣に用紙に向かい、鉛筆を握っている。本人はこの独り言が聞こえていようが聞こえていまいが全く気にならないので、ひとり悠長に別の事を考えている。それに気付いた上官の視線を受けても態度は変わらず、「祥雄に手紙を書いてやろう」と思い立ち、解散の号令と共に席を立った。


 祥雄のことを思うと、自分の悩みが非常にちっぽけなものに思えてくる。何となく清々しい気持ちになった要二は、軽い足取りで自室へと向かった。彼の机上に残された紙切れには一言、「希望」と記されていた。



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