第5話
今日もまた、いつものように奉公へ行かなければ。苦手だった溶接作業も今では手慣れたもので、もう卒業後は工場勤務でもいいのではないかと思う。紺のセーラー服に着替えた颯子は、出かけるために玄関へ向けて歩いていた。
戦局はますます悪化したようで、こんな田舎も空襲に見舞われるようになった。南方戦線でも敗北を続けているようで、時々よむ新聞には、『玉砕』文字が書かれていた。南方だけでなく本土でも玉砕するつもりらしく、最近では竹槍の訓練に参加させられるようになった。「筋がいい」と褒められたが、何も嬉しいことはない。少々乱暴に玄関を開けると、そこには見知った顔が、驚き顔で立っていた。
「……悟志さん」
長かった髪を切り、更に精悍になった顔つきは見違えるようだった。だがそこにいるのは間違いなく片岡悟志で、寂しそうに苦笑していた。
嫌な胸騒ぎがする。いつもは明るい笑顔で「颯子さん」と呼んでくれるのに、今日はそれがない。いやにそわそわしていて、言葉を発することを躊躇っているかのように思える。
「今日は……軍装なんですね」
普段は着崩した略装姿なのに、今日に限ってかっちりした紺の詰襟を着ていた。今日は嫌に肌寒いから、そのせいかと思ったが違うだろう。なんせ彼は、今日よりずっと寒かった三月の中頃に半袖で出歩いていたのだ。
「ええ、まあ……。今日はちょっと、聞いて貰いたいことがありまして」
少しも目を合わせようとしない悟志に、颯子はこれから先のことを感じ取った。この人は近々いなくなってしまうのだ。そのことを思うと一気に血の気が引き、体の芯まで冷え切るようだった。
「聞きたくないって言ったら、」
「駄目です。聞いて貰います」
いつにない強い口調で、彼の表情に明るさが戻ることはなく強張ったままだ。その張り詰めたような声を聞くのが怖くて辛くて、玄関の戸を閉め切ってしまいたかった。
「明日から光に転属になりました。しばらくはお会いできないので、挨拶に――」
「嘘」
颯子は、悟志の言葉が終るのを待たなかった。
そんなの嘘だ、大嘘だ。しばらくだって?そんなに短い時間ではないだろう。余程の強運でない限り、永久なんていう途方もなく長い間、会うことができなくなる……
「颯子さん?」
「しばらくなんて嘘。もうずっと会えんのでしょ?知ってるんだから……悟志さん、あの黒いのに乗って敵の船に突っ込むんでしょ?そのために行くんでしょ?帰ってこれる訳ないじゃないの……!」
心配そうに伸ばしてきた悟志の腕を払いながら、颯子は感情的に喚き散らした。誰に聞かれていても、咎められても構わなかった。
悲しみと怒りを織り交ぜて怒鳴る颯子の涙は、これ以上見ていられない。悟志は彼女の頭に手を添え、その胸に強く抱きこんだ。力一杯に抵抗してくるが、だからと言ってそう簡単に手放すつもりもない。開け放された玄関の先に見える廊下を凝視したまま、暴れる颯子の頭を撫でた。
「すみません、嘘吐きました。そうです、俺は多分、もう帰って来ない。それで、すげえ勝手なんですけど、俺の遺書とか遺品とかの届け先をここに指定しました。あとで捨ててくれて構わないので、一応受け取るだけはしてやって下さい。これ、俺の最後の頼みです」
「……なんでうちなんです。ちゃんとご実家にお送りしなきゃ駄目じゃないですか」
『最後の頼み』という言葉に脱力してしまい、抵抗をやめた颯子は、大人しく悟志の腕に納まったまま言った。相変わらず可愛げのない発言だと分かっているが、彼が言っている意味がわからなかった。遺品は親族の手に渡るべきだ。それを「同期の姉」という赤の他人が受け取るなんておかしな話だ。自分が彼の妻であったなら有り得ることだが、そもそも恋人ですらない。この人は何を考えているのだろう。最後の最後で、よく分からなくなった。
悟志の腕がびくりと揺れて、颯子を抱く力が強まった。息苦しい、少しでも力を緩めて貰おうと思って彼の腕に手を添えたとほぼ同時に、頭上から堅い声が降ってきた。
「実家はもうない。十一月に初めて東京が空襲にあった時に、みんな失くなってしまった」
家族を守りたくて志願したのに、自分だけが生き残ってしまった。これでは本末転倒で、何のために厳しい訓練を受けてきたか分からない。以降は国のため、市民のために戦うのだと主張し続けていたけれど、本当は何もなく空っぽだった。敵国への復讐のためだと、無理やり自身に言い聞かせていたときに知ったのが颯子だった。はじめはただ理想の女性だと偶像崇拝的に憧れていただけだったが、それでも心の空白を埋めるのには十分だった。
「俺が今、本気で護りたいと思ってるのは颯子――お前だけだ」
こんなことを本人に言うつもりはなかったのだけれど、近い将来を知られてしまって、綺麗な思い出だけを遺して征けないのならもういい。親密になりすぎないよう、壁を作るために使っていた敬語はやめた。当り障りのない爽やかな好青年を演じていた片岡悟志は捨て、「素の片岡悟志」を颯子にぶつける。彼女に寄せた思いは、行き場をなくした『護りたい』という感情が勝手に移行して定着してしまっただけだと思っていた。でももう、そんな理屈だってどうでもいい。きっかけがなんであれ、颯子を護りたい気持ちも、彼女を愛している事実も、なにも変わらないのだ。
「何で……何で私なの。こんなにも可愛げがないのに」
「どうして大事に思っているかなんて、そんな理由はいらねえんだ。俺はそう思ってる。怨むなら祥雄を怨め。俺に颯子の存在を知らせたのはあいつだ」
「……じゃあ行かないで」
俺にとっては颯子が一番可愛い、なんて甘ったるい言葉を飲み込んだ悟志が、そう言い終わるか終わらないかの所で颯子は小さく呟いた。
胸元から聞こえた震える声に初めて颯子を開放した訳だが、思わず見下ろしてしまったことを、悟志は激しく後悔していた。
その目一杯に溜められた涙は溢れ、颯子の頬を伝い落ちる。涙目で真直ぐ、恨めしそうに睨む彼女はいやに扇情的で、今すぐにでも奪ってやりたい衝動に駆られてしまう。しかし彼女も嫁入り前だ。これが最後だからと穢して良い道理はない。先のことを考慮して大切にしてやらねばと思う一方で、隅々まで触れたいという欲望は消えない。落ち着け、無責任なことはするな。今までそうしてきたように自分に言い聞かせて、どうにか平常心を保つことに成功した。頭を撫でるくらいに抑えられた自身を内心で褒め称えた悟志は、叶えてやることのできない颯子の願いに苦笑していた。
「颯子、それは――」
「行く必要なんかないじゃない、わざわざ命を捨てに行くほどの価値だってもうない!……だって、もうじき敗けるでしょ?だっもう勝てるなんて誰も思」
颯子は最後まで言いきれなかった。口を塞がれ、これ以上の声は届かない。突然のことに呆然とした颯子の目に映っているのは、閉じられた悟志の目だ。睫毛は長く上向きで、正直に綺麗だと思った。口を塞いだのは彼の唇。気恥ずかしさを感じる間もなく不意打ちで奪われたのだと気付いたのは、ゆっくりと離された後だった。
「これ以上は言うな。地獄以上に、もっと怖いところへ連れて行かれる」
颯子の唇を撫でながらいう悟志の声色は驚くほど甘く優しく、咎める様子は一切なかった。
悟志は、行くことを否定してはくれなかった。もうどうにもならないのだと彼の纏う雰囲気から理解すると、堰を切ったように涙が溢れた。世界の全てが失くなってしまうような感覚がして、怖くて寂しくて、不安だった。
「泣くな」と袖で雑に涙をぬぐったあと、悟志は颯子の肩を抱いて、どんよりとした空を見た。『ついでに俺の夢も聞いてくれ』。そう言った悟志の笑顔は、明るく朗らかだった。
「生きて帰って、家を立て直す。この国がアメ公の物になっても、日本の芝居を続けるんだ。劇場がなけりゃあ路上でも浜でも、どこででもやってやる。俺は、あの世界を断絶させたくない」
颯子は黙って、生きて帰ったときのことを話し続ける悟志の声を聞いていた。これから死ににいくとは思えないほど溌剌とした彼を見ると、今が戦時下だということを忘れてしまいそうだった。
「ありがとうな、颯子。これで俺も、張り切っていける」
ひとしきり話したあと、スッキリとした様子の悟志は不敵に笑んでいた。一方の颯子は彼の言葉に背筋が凍るような思いをしていたが、悟られないように平常心を装ってみせた。
行くなと駄々をこねても男たちは戦地に行ってしまう。
女があれこれ心配し、泣き縋ったところで結局無意……。
あれこれ考えると負の感情ばかりが溢れ出る。このままでは駄目だ、またさっきのように取り乱して当たり散らしてしまう。明日の天気とか近所の猫のこととか、どうでもいいことを考えて気持ちを落ち着けよう――そう思いながら曖昧に笑む颯子の首元に、悟志は白い布をかける。これは何だと颯子が見てみると、それは菊の紋章を挟むように、雄々しく『轟沈』と書かれた鉢巻きだった。
「それ、やるよ。俺だと思って持っておけ」
綺麗な笑顔で言う悟志に黙って頷き、颯子は踵を返した彼の背中を見送った。彼は確実に戦死してしまうのだろうけど、すぐに帰ってくるような気がして、今は不思議と喪失感も不安も感じていない。これならしっかりと見送れる、決してこの機を逃してはいけない。
「いってらっしゃい」
できるだけ柔らかい声で颯子がいうと、彼は振り返らないまま、手を振って答える。それが堪らなく嬉しくて、颯子は心からの笑顔になった。彼の声、彼の姿、彼の体温、彼の思い。その全てを、私はきっと忘れないだろう。貰った鉢巻を握り締め、颯爽と去りゆく悟志の背を見えなくなるまで見つめていた。
その日以降、天野颯子が片岡悟志に会うことは二度となかった。
【前篇・完】
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