第4話
祥雄は迷っていた。
特殊兵器の訓練を受けたいか受けたくないかを問われているのだが、前回はどうしても答えが出ず、ただの「希望」と回答したはずだった。希望者が少ないのか人が足りなくなったのか、またも問い質す紙が配布され、目の前に置かれている。制限時間は十分間。長く考えられる猶予などないし、教官の便佞だけが喧しくて無駄に焦らされ、余計に答えは出ない。他の大勢は即答したらしく、もう鉛筆を走らす音は僅かしか聞こえなかった。
要二はすでに鉛筆を置き、腕を組んで俯いている。彼は当然「希望せず」だ。特殊兵器イコール特攻兵器というのはもはや暗黙の了解、反戦派に限りなく近い彼が特攻を希望するなんて、天地がひっくり返ってもあり得ない話だった。
「熱望」しようか「希望」しようか、祥雄は迷っていた。……本当ならこのまま飛行機乗りになって、日本の空を護りたかった。けれどこんな状態になってしまっては、そんな我儘も言っていられないのだ。
瞬く間に時は過ぎ、気付いたときにはあの紙切れは回収されていた。厳しい高高度訓練の後よりも、空襲をやり過ごした後よりも疲労感が酷く、祥雄はしばらく動けなかった。
「一応聞く。お前、なんて書いた」
そっけなく、少しもこちらを見ないで要二は祥雄に問うた。声色もいつも通り平坦で、その感情は覗えない。背の高い彼を下から見上げてみたけれど、表情もまた平坦で、正直彼が何を考えているのが全く分からなかった。
「……熱望」
要二から目を逸らし、祥雄は小さく呟いた。その直後に険しくなった彼の顔は見ていない。祥雄は今度こそ、作戦参加を「熱望」した。これで選考を通過する可能性は高くなったが、彼はそれでも一向に構わなかった。
熱望の理由は、悟志への憧れもあった。国のために尽くしてこそ大和男子、何の躊躇もなく物事を決断できる彼は、祥雄から見て堪らなく格好良かった。彼のように潔く征けたならどんなにいいだろうと、何度思ったか計り知れない。
しかし今回の決定打は悟志への憧れではなく、颯子への想いだった。
確定させるのはまずいと判断して考えないようにしていたのだけど、「なんのために」と聞かれれば、今なら淀みなく「颯子のために」と言い切れる自信がある。異常だと解っていながらも、この気持ちはどうしても変えられない。
断ち切らねば。そう思えば思うほどに、思いは募る。
たとえそれが許されないことだとしても、彼女に全力で拒絶されようとも俺は一向に構わない。ただ颯子を護ることができればそれでいいのだ。
頭上から降りかかる要二の怒声は無視して、祥雄は堅い無表情のまま、目の前の黒板を凝視した。手には、今朝届いたばかりの手紙が握られている。決戦の日は、近い。
※
「颯子さん!」
待ち伏せでもしているのではないかと思うほど、いつも同じ場所でこの優男と鉢合わせる。失礼だと解っていながらも、颯子の口からは小さな溜め息が漏れる。軟くふにゃっとした悟志の態度に慣れることができず、振り回されてばかりの自分が歯痒く悔しかった。颯子はどちらかというと美人に分類されるタイプなのだけれど、「嫁の貰い手がない」と言われるほど気の強い娘だ。こうしてあからさまな好意をぶつけられることは無いに等しく、こんな時の対処法が良く解らなかった。
「おはようございます、悟志さん」
わざとらしい笑顔で挨拶しても、彼は嬉しそうな照れた笑顔を見せてくれる。直情的な彼は解りやすく、あれこれ深層を探る必要がないので楽だ。だいぶ自然に笑えるようになってきたし、生活そのものが楽しくなってきた気がする。未だ照れる彼の横顔を見た颯子は、無意識のうちに微笑んでいた。彼の笑顔に胸が熱くなるのを感じはじめているのだが、これが恋というやつなのだろうか。今まで全く興味がなかったから、颯子にはよくわからなかった。
「ねえ悟志さん。……悟志さんは、ここにくる前は何をしていたんですか?」
いつも颯子を質問攻めにしている悟志は、彼女からの問に驚き勢いよく振り返った。そのせいでがっちりと目が合い、彼女のきれいな目をはっきりと見る羽目になった。別に見たくないわけではなくて、見てしまうと緊張してそわそわしてしまうのだ。この挙動不審な様は、しっかりと見られているのだろう。急いで逸らしたけれど、紅潮した顔だって見られたはずだ。――なんてことだ、こんな格好悪いとことを見せてしまうなんて。悟志は恥ずかしいやら情けないやらで、少し暗い気持ちになった。
「俺は……」
とにかく今は彼女からの問に答えなければ、と思った悟志は、急に立ち止まりって颯子に向き合った。
「飛行機の訓練受けてました」
はぐらかすべきか正直にいうべきか迷った結果、悟志は前者を選んだ。個人的なことを聞いているのだろうが、近々死にゆく自分自身のことを話しても不毛だと思ったのだ。
そう答えたところで、颯子の表情が曇っていくのを見た。曇っていく、というか敗北感満載な、少し拗ねたような顔だ。くそう、なんでこんなに可愛いんだ。悟志はばれないように歯噛みし、努めて平常心を装った。
「……って言うのは冗談! 俺、これでも歌舞伎役者やってたんですよ。まだまだ下っ端なんですけどね、結構楽しいもんですよ……まあ気に入らないことがあるとすれば、おれが女形だってことくらいですか」
それを聞いた颯子は、こちらの頭から爪先までをなぞって見ていた。女性的な顔立ちに白い肌。華奢というわけではないが、筋肉量の少ないしなやかな体つき。周りは「持って生まれた財産だ」というが、悟志にとってはコンプレックス以外の何物でもなかった。あまり見て欲しくないが、颯子なら許す。やはり彼女には甘くなってしまうな、と思っていると、彼女は唐突に笑い出した。
「あっ、何笑ってるんですか!」
怒りますよ、と颯子の右頬を抓りながら、悟志は彼女の顔を覗き込むように言った。力を加減しているせいか痛みはないようで、彼女は未だに笑っていた。その笑顔に悪意も蔑みもなく、寧ろ無邪気で屈託がない。やはり、彼女なら許せる。
「俺としては女形より、男らしい役がしたかったんですからね」
「でも似合ってるじゃないですか。悟志さんの女形姿」
恐らく想像だけて言っているだろう颯子に『見たこともないのに言いきるなんて悪い子だ』と言って、両手で頬を包んで顔を近付けた。特に嫌がる様子もなくされるがままだったが、その目はすこし揺れていて、同様しているのが見て取れた。いつもの強情さ、時折見せるしおらしさ。その全てが愛おしくて、悟志はこのときはじめて、死ぬのが惜しいと思った。
※
「要二、祥雄。大丈夫だ、何の問題もないぞ!」
誇らしげに言いながら、兵舎の一室に入ってきた男に一同唖然とした。そこには、一足先に特殊任務に就いたはずの片岡悟志が立っている。向こうでの様子を聞きたくてうずうずしている同期たちには見向きもせず、悟志は親友の要二と、お気に入りの祥雄のもとへ直行した。
「何が問題ないのかは知らんが、お前はどうしてここにいるんだ」
「休暇を戴いたからに決まっているだろう」
「じゃあ実家に帰れよ」
「俺にとっての実家はここだ」
満面の笑みを浮かべて言う悟志に、祥雄は心の中が暖かくなるのを感じた。自分たちを家族のように思ってくれていることが、祥雄には嬉しかった。
しかし要二がいうように「なんの問題もない」とは一体何のことだろうか。彼に外傷はなさそうだし……例の特殊兵器の操縦など恐れるに足らず、ということだろうか。
「なあ悟志。問題ないって、なんのこと?」
「馬鹿、そんなの颯子さんのことに決まってるだろうが」
それを聞いた途端、笑顔だった祥雄の顔が強張った。悟志はそれに気付く様子もなく、言葉を続けるのだった。
「いやお前、俺に颯子さんは無理って言ったろ。だがお前、あんまりおれをなめて貰っちゃあ困るぜ。第一、思想が合わないくらいで反発しあうなら、要二なんかと一緒にいねえよ」
「別におれは、お前にいて貰わなくても全然構わんが」
「もうっ、照れんなよ!」
ばしばし背中を叩いてくる悟志から視線を逸らし、要二はこっそりと祥雄を盗み見てみた。彼の顔は、未だに強張ったままだった。――片岡の大馬鹿野郎。浮かれるのも分かるがたいがいにしろ。要二は心中で彼を罵倒した。
要二は、祥雄の気持ちを知っていた。彼の姉に対する思いをぶちまけられたのは半年も前のことで、一見幼くみえるこの男は、こんなにも大きな葛藤を抱えているのかと驚いたものだ。当時の本人は気付いていないようだったが、要二は聞いただけですぐに解った……この男は、実姉を一人の女として愛している。それは一般的には許されていない感情だ。悟志を一発でも殴ってやりたかったが、大っぴらに祥雄を庇うことも出来ない。面倒なことになってしまったと溜息を吐いた要二は、せめて流れを変えようと話を切り出した。
「……征くのか」
悟志は何も言わず、寂しげに笑っていた。それは肯定を意味しており、彼の突撃は確定だった。だってそうだ、彼がいる平生からこの土浦までの距離は長い。移動するには時間がかかり、長い休暇が必要になる。その休暇を貰えるとすれば――それは死に近づいた、戦地に赴く前の兵士だ。
こんな曖昧な反応は、この男にしては珍しいと要二は思う。軍神になれる名誉を与えられたとなれば、誇らしげに自慢してくるものだと思っていたのに、まさか寂しげな表情を寄越されるとは。向こうで何があったのだという疑問が浮かんだが、聞くまでもなかった。
「軍事機密だ、許せ」
「馬鹿言え、ここも軍隊だろう」
軍事機密と言ったきり、悟志はこれ以上語ろうとはしなかった。
一方の祥雄は、呆然としていた。不覚にも頭の片隅からも消え去っていた現実を、突然に突きつけられた気分だった。
俺は、戦争を甘く見ていたのかもしれない。それはきっと、大して自身や身内に被害がなかったせいだろう。しかしこうして……兄のように慕ってきた男が数日後には消し飛んでしまうのか。そう思うと堪らなく怖くて、全身の肌が粟立つような思いだった。
「くそう、うらやましいなあ片岡!」
「俺も後から必ず行くからな」
口々に祝い、「片岡に続け」の雰囲気に成り果てた空間に馴染めず、同期たちに揉まれる悟志を、部屋の隅で見ていた。
「馬鹿馬鹿しい」
嫌悪感を全面に押し出して言う様はおよそ要二らしくなく、平静さに欠けていた。本日何冊目かも分からない読書を止めて不貞寝してしまうあたり、彼は本気で苛立っているのだろう。そんな要二を見ながら、祥雄は悟志の方は見ずに静かに立ち上がった。
「やっぱり、悟志に佐津子は無理だ」
思想に関してはなんの問題もないと言ったけれど、一番の問題はそこではない。颯子は何より、知人に死なれるのが一番怖いのだ。父の戦死通告が来たときも、母や祖母が病死した時も、颯子はしばらくのあいだは抜け殻のようになってしまった。
知り合ってしまい、恐らく懐き始めている悟志がいなくなると知れば、彼女はどんなに悲しむだろう。祥雄は誰にも聞こえないように小さく呟き、兵舎から出て行った。
※
悟志に颯子は無理だ。小さく呟いた祥雄の言葉は、しっかり悟志に聞こえていた。けれど悟志は何も言わなかったし、祥雄に会うこともなかった。あの後すぐに土浦を離れた彼は、平生へ引き返す道中、祥雄の吐いた言葉について考えていた。
無理だということはよく解っている。もうじきこの体は失くなってしまうのだから、結婚はおろか恋人同士になるわけにもいかない。その現実とは相反して、顔を合わせて会話するたびに彼女への愛情は膨れ上がっていた。颯子のせいにするわけではないが、平生で偶然会ってしまったがために突撃命令に絶望し、素直に喜べずに困っているのも事実だった。
しかし……近々突撃するということを、どうやってぼんやり彼女に伝えよう。俺は隠し事がへたくそだし、彼女も彼女で勘が鋭いから、ただ顔を見に行くだけでもばれてしまいそうだ。本当は今日、どうすればバレずに済むかを祥雄に聞きたかったのだけれど、とても聞ける雰囲気ではなかった。祥雄も祥雄で何か悩んでいるようだったが、生憎と今の俺には相談にのってやれるだけの余裕がない。
「もういっそ、黙っていこうかねえ……」
それで恨まれてももう会うこともないのだし、最後の最後に怒られるのも泣かれるのも嫌だ。――綺麗な思い出を残したまま潔く消えるか。通り過ぎて行く焦土を車窓から眺めながら、悟志は考えあぐねていた。
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