第3話
夏が近づくにつれて一際戦況が険しくなり、敗戦色は濃厚になっていく。天野家の近くにも基地があるのだけれど、以前とは雰囲気が変わった気がする。人の入れ替わりが激しくなったし、もともと高かった機密性が、更に高くなったようだ。いつ、何のために、何をするのかが分からない基地が目と鼻の先にあるのは、非常に気味の悪いものだった。
近所のおば様たちの噂話によれば、その基地は特攻のための基地になったらしい。だが颯子は腑に落ちない。特攻といえば「神風」で、航空機による体当たり攻撃だ。このあたりはよく歩くが、飛行場ができた様子も飛行機もあまり見かけない。なによりここは海が近く、艦からの砲撃を受ける可能性が高い土地だ。
「……一体どういうことだ?」
不可解なことばかりで気持ちが悪いが、これ以上考えたって仕方のないことだ。大事なことはなにも教えてくれないし、知ったところで抑圧されるだけだ。しかしどうしてよりによって特攻基地になってしまったのだ。颯子は毛嫌いしているものが近くにある嫌悪感で、眉間に皺を寄せた。
連日、新聞には「神風」の文字が書かれている。祥雄は……軍人になりに行った祥雄は大丈夫なのだろうか。
颯子は、このごろ音信不通気味になった弟の祥雄を思った。まさか自分に黙って神風に参加したのではないだろうかと思う一方、あの子は絶対にしないだろうという身勝手な憶測もある。憶測……というよりは希望だ。最後の身内が、成し遂げられるかどうかも分からない体当たりで死んでしまうなんて耐えられなかった。
彼の消息も軍隊の仕組みと同様に、こちらが気にしても仕方のないことなのかもしれない。行くなと駄々をこねても男たちは戦地に行ってしまうし、死んだら死んだで遺骨かその代替え品が事務的に送られてくるのだ。女があれこれ心配し、泣き縋ったところで結局無意味に終わり、ただ何もできぬままに待たなければならない。その不条理を思うと腹立たしくて、情けなくて、惨めな気持ちになるのだった。
軍需工場での奉仕が終われば、兵士たちの身の回りの世話をするため基地へ向かう。道すがら見える海面に視線を向ければ、波の合間に揺らめき、見え隠れする黒い塊がある。広がる青の中に決して混じることのない異物が、潜水艇にしては小さすぎるそれが、噂の特攻兵器なのだそうだ。詳細は機密だそうだが、別に知りたくもない。それに、聞かなくたって大体はわかる。きっとあれに人が乗って、敵に突っ込んでいくのだ。『平生突撃隊』――本当に嫌な名前だ。
機密ならもっとわかりにくい名前にしてくれればいいのに。名前からその部隊が何をしにいくのかを想像してしまった颯子は、横隔膜を突き上げられるような感覚に襲われた。どう見ても魚雷にしか見えないそれに人が入り、敵の船にぶつかっていくと思うと寒気がした。ぶつかった後はどうする? 中に入っている人は? そもそも敵に見つからずに突っ込んでいくなんて、本当にできるのか……。
考えれば考えるほどに気持ち悪くて、吐気と頭痛が当時に身を攻める。そろそろ思考回路を遮断したかったができなかった。次々と脳内に映しだされる負の場面は、絶望に近い負の感情は、留まることを知らなかった。こんなに酷い話があるものか、人の命をなんだと思っている。そんな捨て身の攻撃で逆転できるとでも思っているのか。やはり愚かだ、男は愚かだ。そんなことでお前たちの護りたい者たちが……女たちが、喜んだりするものか。
「颯子さん……?」
苦痛と苛立ちに耐えるかのように、歯を食いしばって俯き佇んでいた颯子だったが、自分を呼ぶ声を聞いて僅かに顔を上げた。――こんな卑屈な態度を取り続けるのは良くない。颯子は自身を奮い立たせてみたけれど、苛立ちは今も健在で衰えることを知らない。気安く名前を呼ぶのはどこのどいつだと攻撃的な感情が表に出層になるのをどうにか抑えて、一度深呼吸をする。だめだだめだ、こんなときだからこそ明るく居なければ。それにしかめっ面で振り返ろうもうのなら、またいつものように「女のくせに愛想のない」と言われてしまう。これ以上の面倒事を避けるため、颯子は笑顔を作って男に挨拶した。
「こんにちは、毎日お勤めご苦労さまです」
「やっぱり颯子さんだ……!」
こちらからの言葉を半ば無視して、男は颯子の手を取った。まだ二十代前半と見受けられる男は、長い後ろ髪を一つに結った、すらりと背の高い優男だった。肌理が細かい色白な肌に、男にしてはしなやかな肢体。少々体格はいいし凛々しくもあるのだけれど、女のような美しさがあった。
この男は一体誰なのだろう。颯子は突然の出来事に小首を傾げた。こんな男前は知り合いにおらず、彼とは初対面のはずだ。しかし向うはこちらのことを知っているし、何だか見覚えもある。どこでこの顔を見たのだろう。考えてみたが、一向に解は出ない。
「海軍平生突撃隊、片岡悟志軍曹です。……なんて堅っ苦しい挨拶なんてしてみますけど、あれです、俺、天野祥雄の同期です」
君、天野颯子さんでしょう。彼がそう言ったところで、颯子はようやく事態を理解した。このどこか見覚えのある二枚目は、祥雄が散々自慢げに話していた野生児の優等生で、字も文章も拙い片岡悟志だ。道理で見覚えがあるはずだ、彼のことは一度、写真で見たことがある。
「ああ……あの!」
字の汚い野生児――と口をついて出そうな言葉を飲み込み、颯子は口元を手で覆った。絶対に不審に思われた。そう恥じて俯いてしまった颯子は上目遣いで悟志の様子を盗み見たが、特に不審に思われている様子はない。少し照れたような表情をした顔を背け、後ろ頭を掻いていた。
「片岡さん、土浦じゃなかったんですか? 転属……でしょうか」
「え、っと……まあ、そんなところですか。それと、おれのことは悟志でいいです」
片岡さんだなんて他人行儀な!とおどけてみせた彼は気にならず、それよりも目を泳がせて言葉を濁したことの方が、颯子の心に引っかかっていた。転属かどうかも機密なのだろうか。それとも彼も、この基地に特攻隊員として……? 猜疑や疑問は、止め処なく溢れだす。あっという間に疑問で脳内が埋め尽くされた颯子は、真相は何なのかと、悟志をどうにかして問い質してみようかと考えた。けれど、実行はしなかった。問い詰めたところで彼はきっと答えてくれないし、困らせてしまうだけに終わってしまう。
「……えっと、悟志さん。祥雄が今どうしてるか知ってますか?あの子、最近連絡つかなくって……音信不通なんです」
「何だって! それは許せないな……あ、祥雄はおれの知る限りでは、元気にやってますよ。心配無用です」
あの子は可愛がられてますよ、子犬のように。悟志の言うことは、容易に想像できた。本人には申し訳ないが、祥雄は仔犬という例えがよく似合う。体は随分と育っていたが、その雰囲気はまさにそれだ。良く懐き、纏わりついてくる彼の姿を思い浮かべ、颯子は笑った。
気持ちに余裕ができた今、颯子はようやく悟志がずぶ濡れだと気づいた。水の滴る艶やかな黒髪は綺麗だったが、今は見とれている場合ではない。
「悟志さん、ずぶ濡れですけどどうかしたんですか?」
今は雨が降っているわけでもなく、寧ろ快晴だ。まさか服をきたまま海に飛び込んだのか? ……本当にもう、この世には分からないことが多すぎる。もう何度目かも分からない問いを悟志にぶつけると、彼は嫌な顔ひとつせずに『ああ、』と笑った。
「これですか。訓練からの奇跡の生還です」
へらっと笑いながら大変なことを言う悟志に、颯子の脳内は更に疑問符で埋め尽くされた。ぽかんとした颯子を目の前に、悟志は表情を一変させて真面目な面構えになった。そして海に漂う黒い塊を横目で見ながら、少し声を潜めて言うのだった。
「あの黒い塊、あるじゃないですか。あいつはまだ試験品でね。沢山の不具合に付き纏われてるんですよ。俺の場合は海面付近での事故だったんで何事もなく、で済んでますけどね。海底で窒息とか、考えたくもないですよ」
魚雷に見える黒い塊は、まだ試作段階で事故も多発しているそうだ。まだまだ多くの課題を抱えている状態で、今まさに悟志はその危機に直面し、命辛々脱出してきたばかりだった。唇に人差し指を当てて「これは他言無用ですよ」という悟志に、颯子はただ頷くしかできなかった。あの魚雷みたいなのに乗り込むことだとか、海底で窒息だとか、予想を上回る過酷さに眩暈がした。けれどそれ以上に、「命一個分、得しました」と言った悟志のへらっとした表情に、颯子はかっと頭の中が熱くなるのを感じた。
「馬鹿じゃないの……そんな……」
「……へ?」
悟志の声にはっとして、バツの悪そうな顔をした颯子を悟志は見た。思わず聞き返してしまったけれど、さっき囁いた言葉ははっきりと聞こえている。この子は、特攻で自らを犠牲にする行為を「馬鹿じゃないか」と言ったのだ。震えた声で、悲しそうに。
この発言は、本来なら許されることではない。けれど悟志自身も、これは馬鹿げた行為だと思っていた。限りある人材を使い捨てるというのは愚かなことだ。けれどもう、そうするしか道はないのだ。これで一人でも多く誰かを護れるのなら、おれは進んで征く。悟志はそう思っている。
あの時の祥雄が「お前では無理だ」と言った理由が、今日ようやくわかった気がした。俺は典型的な軍国少年で、彼女は典型的な反戦派。反発しあうのに無理はなく、相容れることなど到底ありえない。まあそれも、理屈だけで考えればの話だけれど。
「さあさあ、早く行きましょう。こんな所で立ち話は危険ですよ。都会でないとはいえ、空襲の危機は免れませんから」
静まり返った二人の空間を無理やりぶち壊し、悟志は颯子の背を押して、基地までの道を進んだ。
――祥雄よ、あまりおれを見縊ってもらっては困る。少し考え方が違った所で、おれは彼女を否定したりなどしない。
※
何だか、予想に反して不思議な人だった。今だかつて「野生児」と言うものを見たことがないので何とも言えないが、もっと荒々しく粗骨な男だと思っていた。しかし実際は見かけどおり優しく柔らかな人で、いつまでたっても幼さの残る祥雄とは相反して達観した雰囲気だった。印象は、自分でも驚くほどに良い。
「あれ……?」
玄関に入る前に、佐津子は郵便受けに一通だけ、封筒があるのを見た。天野家の郵便受けに、封書が投函されるのはいつ振りのことだろう。久々すぎて不審な気さえするそれに妙なざわつきを感じたのだけれど、それは敢えて放置して手紙を取りだした。宛名の筆跡には見覚えがある。裏面の差出人を見ると、『土浦航空隊 天野祥雄』と記されていた。
「この子は本当に……」
ようやく手紙を書く気になったか。連絡を寄越さないとは困った子だと毒付きながらも、颯子の心は弾んでいた。ついさっき悟志から元気だと聞いたけれど、やはり本人からの便りで確認するのが一番だ。早速封を切ろうと手をかけたが、寸でのところで止めた。
勝手に決め付けていたけれど、これは本当に近況報告の手紙なのだろうか。特攻決定の知らせではないだろうか。同じ土浦にいたはずの悟志は、なぜだか平生突撃隊にいる。この二所は繋がっているのだろうか。だとしたら祥雄もいずれ突撃隊へ……?
思いもしなかった疑問符が今頃になって噴出し、それは颯子の体を強張らせるのに十分な威力を持っていた。反戦的な自分を酷く叱咤することはないけれど、彼が軍国少年ではないとも限らない。望んで予科練に入った彼だ、特攻に志願することだって無きにしも非ず。そのことを思うと、堪らなく怖かった。――最後の肉親を特攻なんかで亡くすのは、絶対に嫌だ。
数十分悩んだ後、あれこれ悩むのは性に合わんと、思い切って封を開けた。幾ら双子とはいえ、私と祥雄は違う人間。自分の考え方を押しつけてはいけない。だから……もしこれが特攻決定を匂わす知らせであっても、素直に受け止めて祝福してやろう。護りたいものがあって決めたことなのなら、たかが姉の分在で否定していい話ではない。颯子は意を決して、三つに折りたたまれた便箋を開いた。
『颯子へ
そちらの様子はどうですか。関東では毎日のように空襲警報が鳴り響き、日々情けない気持ちになります。そちらでは、空襲などないことを願っています。
長いこと手紙も書けず申し訳ない。今はこの大東亜戦争に勝利するため、お国の役に立てるように訓練に明け暮れ、なかなか時間が取れなかったと言い訳をさせてください……』
文面がただの近況報告だったことにほっとして、同封されていた集合写真と、便箋に目立つ犬の足跡に心が和んだ。毎日のようにある空襲は心配だけれど、彼ももう立派な十八の男子。もうじきすれば、嫁でも貰って家庭も築くのだろう。あまり過保護では彼の将来を潰してしまう可能性もあるし、当面は自粛しようと思う。
綴られた祥雄の丸文字の所々に、綺麗な赤字が並ぶ。この魅惚れる筆跡は森口要二のものだ。文法のおかしな部分が二重線で消され、添削してあった。書き直すことなくそのまま送ってくるなんて。それがなぜだか堪らなくおかしくて、颯子は久しぶりに、声を上げて笑った。
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