第2話


 この手紙の言葉は、それらとは違う。颯子はそう思った。理由はよくわからないけど、胸に響く……ような気がする。会ったこともない、名前の字面しか知らない人だからこそそう思うのかもしれない。久々に感じた目頭の熱さに涙の到来を予感したが、泣くわけにはいかないと深呼吸して気を鎮めた。一人暮らしをすると決めたとき、同時に泣かないと決めたのだ。颯子は涙を堪え、古びた天井を見上げた。


 森口要二といえば、どちらだっただろう。なにせ例の手紙を読んだのは半年前で、読み返す間もなかったから正直うろ覚えだ。あれこれ考えては見たけれど、名前と人柄は一致してくれなかった。野性的な二枚目だったか、物静かな頑固者だったか――文面から見ると後者なのだろうが、どうしても思い出せなかった颯子は、祥雄に聞こうと彼の方を向く。するとすぐに、寂しそうな彼の瞳と視線がかち合った。


「……やっぱり嫌だ」

「何がよ」


 近いうちにそうなるのだと解っていても、やはり他の男のものになるのはいやだ。子猫を抱えたまま畳の間に転がり込み、そのまま颯子に抱きついた。そうしていなければ、どこか遠くへ行ってしまいそうで怖かった。祥雄のことを素直に受け止めた颯子だったが、内心はひどく動揺していた。触れた感触も匂いも嘗ての祥雄とは違い、知らない誰かに抱きしめられているような感覚だった。


 祥雄にとっての颯子とは、何よりも大切な存在だった。物心ついた頃から彼女の隣は自分のものだと思っていて、誰にも譲りたくないという強い独占欲も感じていた。颯子への好意が異常であることは、自分でもよく理解しているつもりだ。


 彼女が姉でなければどんなに良かったかと思うと同時に、《双子の弟》という立場への優越感という真逆の感情も持ち合わせている。この気持ちを『シスター・コンプレックス』という心理現象で片付けるにはあまりにエグい気がして仕方ないのだが、今はそれ以外に名づけようがない。成長の差で一回り小さくなったように感じる颯子の体は思いの外柔らかく、体の芯が熱くなりそうだと、祥雄は思った。


「……祥雄。森口さんってどっちだっけ。野性児?頑固者?」


 動揺で震えそうな声を抑えて、颯子は何事もなかったかのような態度を繕った。それをまともに受け止めた祥雄は、ひどく悲しい気持ちになった。自分と彼女の温度差を、はっきり見せつけられたような気がして苦しかった。颯子が他の男に興味を示すということは、祥雄にとっては大事件だ。しかし彼女にとってはなんてことない出来事の一つに過ぎないのだろう。

 いくら双子とはいえ結局は他人で、どれだけ思ってもこの気持は通じない。仕方がないことだ。仕方がないことなのに、どうしてこんな気持になるのだろう。祥雄は泣きそうになるのを堪え、じっと耐えるように畳の目を無心に見る。ここで泣いて、彼女を困らすわけにはいかない。やや早く脈打っていた鼓動が大人しくなったのを確認して、祥雄は笑顔を作って颯子に向き合った。


「要二は頑固者の方だよ。本当に自分の意見を曲げん奴でさ。良い奴なんだけど、たまに厄介」

「へえ、そうなの?」

「ん。そうそう」


 森口要二が外国の本を好んで読むという面は、敢えて隠した。これを言ってしまえば、颯子の心が完全に要二に傾いてしまうのは目に見えていた。これは好ましいことで、事実、平生に着くまでそれを望んでいたはずだ。しかし彼女を目の前にすると、どうしようもない独占欲が自我を支配する。……要二に颯子を、取られたくない。まだなにも決まっていないのに、その気持ばかりが先行してしまっていた。


「……どんな人だろ」

「……こんな人だけど」


 早くも興味を示し始めた颯子に、祥雄は一枚の写真を差し出した。詰襟の内ポケットから出てきたそれに驚く彼女は可愛らしい。この都合よく出てきた写真は、事前に用意していたものだ。今でこそ独占欲に苛まれているけれど、土浦を発った時点では颯子と要二を引き会わせようと目論んでいた。純粋に彼らの幸せを望むものではない。ただ自身の気持ちを断ち切るためだった。


 祥雄の目論見を知らない颯子は、なぜ都合良く写真を持っているのだろうと疑問に思っていた。もしかしたら同期の集合写真を持ち歩くのは当たり前のことなのかもしれないが、颯子にはそれが分からない。どれだけ首をひねっても答えは出ず、祥雄もそれに答えない。答えを諦めて考えるのをやめて、颯子は大人しく その写真を覗きこんだ。同期たちが全力で祥雄を構っていることが良く解る写真で、彼を中心にももぐっているような風景だった。きっと祥雄を羽交い締めているやや長髪の男が、野性児だという片岡悟志なのだろう。端正な顔立ちをしているとは聞いていたけれど、想像を遥かに上回る二枚目ぶりに驚いた。男前というより美人の類に含まれるのだろうが、それでも精悍さがあって不思議な感じだ。


 そしてその隣の青年が森口要二なのだろう。騒がしい周囲に目もくれず、ただ只管に本を読んでいる。マイペースなのか、それともただただ図太いのか。自分との共通点も多々ありそうだが、その分衝突することも多そうだと颯子は直感でそう思った。


「何じっと見てんの?」


 写真を凝視している颯子を茶化すように祥雄は言う。けれど本心は気が気ではない。視線は確実に要二に向いていて、鳩尾あたりがギリギリと痛む。気を紛らわすために彼女をからかうことに専念したが、彼女がそれを気にする気配はない。それを目の当たりにした祥雄は、全身を鈍器で滅多打ちにされたような気分になった。痛みは度を超えて、もう感覚もない。


「これで良かったんだよな……?」


 一向に晴れる気配のない気持ちを抱えたまま、祥雄は視線を颯子から逸らした。その末に見えた空は、この心に相反して快晴だ。祥雄は暖かく照り映える太陽を、憎々しげに見ていた。




        ※



「颯子さんは無事だったか?」


 祥雄が姿を現すなり言ったこの男に対し、「第一声がこれか」と内心に呆れ、祥雄はばれないようにため息を吐いた。


 この男――片岡悟志は、なぜか以前から颯子のことを気に掛けていた。祥雄が帰郷すると聞いたときも、颯子さん、颯子さんと煩かったものだ。一度、自慢の意も含めて彼女の写真を見せたのが不味かったかと後悔したが、もう手遅れだろう。結論を言ってしまえば、颯子は悟志の理想だった。祥雄の話にしょっちゅう出てくる彼女の人物像を聞いたときに運命すら感じたものだ。可憐だが強情で、更に強がっているが脆い部分もある可愛げのない娘……世間では「はしたない」とされているが、悟志はそこが可愛いと思うのだ。


「大丈夫だって。言ったろ?颯子は強い子だって」


 こちらの気も知らず、浮かれた様子で喋る悟志に腹が立ち、すこし棘のある声色になってしまった。――悟志はなにも悪くないのに。自分の行為に後悔したが、彼はそれを気にしていない。いつもと変わらない様子で「そういう問題じゃないだろ!」とがなり立てるこの男に、祥雄は苛立ちを募らせていた。他人のお前に何が分かる、と叫びたいのを抑えて、祥雄はバそっと小さく深呼吸した。


「ん、大丈夫。何も変わりなかったよ。……要二に興味持ちはじめたこと以外は」


 気分を変えてニヤリと笑いながら、祥雄は要二を横目で見た。すると一瞬にして悟志の表情が険しくなり、目線を要二に向けた。当事者の要二はいつも通り我関せずで、懐いてじゃれてくる雑種犬のユキにも構わず、相変わらず凄まじい集中力で読書している。しかも禁止された洋書を堂々と、物凄いスピードで読み進めているのだった。


「何で……何でお前なんだ畜生!」


 悟志は要二に飛びつき、床に薙ぎ倒して胸倉をつかんだ。勿論、これは本気の喧嘩などではなく、じゃれあいの一種なので誰も止めないし諫めない。熱くなった悟志にも、心の中で真っ黒い気持ちを培養する祥雄にも気をかけていないようだ。倒れた拍子に宙を舞い、床に落ちた文庫本に目をやりながら、要二は溜め息をついた。


「……今日はなんの用事だ。聞いてやるから、さっさと言え」


 涼しい様子の要二に対し、悟志は奥歯を噛み締めて悔しそうな顔をする。畜生、俺の颯子さん!なんていう悟志に、「颯子はお前のものなんかじゃない」と心の中で強く否定する。募った苛立ちが破裂しそうだったが、祥雄は拳を強く握りしめて耐え、一方的な取っ組み合いを眺めていた。


「颯子?……ああ、祥雄。お前の姉さん、ちゃんと生きてたか?」

「要二!」

「ん。生きてたよ。あ、手紙有難うな。颯子も喜んでた」


 悟志は自分を無視して勝手に話を進める二人に不満を感じてむっとした……ところで、或るワードに引っかかり、首を傾げた。


 手紙。有難う。喜んでいた。颯子。


 これは思っていた以上に、事が進んでいるのではないか?畜生お前ら、俺の知らない間になにを。要二の胸倉をつかんだまま抗議すると、祥雄は曖昧な態度で誤魔化してきた。それを見た要二が、すかさず口を挟む。


「何って、祥雄の姉さんに手紙を書いただけだ。生存確認も兼ねて」

「じゃあおれにも声かけろよ!知ってるだろう、おれの気持ち!」

「だってお前、字も文章も汚いだろう」


 あんなに不味くては相手も驚いてしまう、と事も無げに言う要二の言葉に、悟志も祥雄も呆然としていた。しんとなった二人に相反して、その場に居合わせた同期たちは大いに笑う。凹んで項垂れた悟志を押しのけ、起き上がった要二は床に落ちた本を拾い上げた。ぱらぱらとページ捲って読んでいた箇所を探り、何事もなかったように再び読み始めている。


 それに反して、悟志は未だ床にへたり込み、落ち込んでいる様子だった。本当に落ち込んでいるのか拗ねているだけなのかはわからないが、彼の颯子に対する想いは本気なのだろう。けれど嫌なものは嫌だ。祥雄は颯子と悟志が仲睦まじく寄り添っている様を思い浮かべ、顔を歪ませた。なんだか無性に、胸がむかつく。


 別に、悟志に限った話ではない。本当は誰だって嫌だ。けれど中でも特に、片岡悟志という男とは極力会わせたくないと思っていた。悟志が嫌いな訳でもないし、彼の女癖が悪いわけでもない。ただ単に彼と彼女では思想が違いすぎ、互いに傷つけあうだけに終わる可能性が高かったからだ。


 素行や言葉使いこそ悪いが、悟志はある意味で模範的な日本国民だった。鬼畜米英、暴懲支那、七生報国。国を愛する心が人一倍強く、国のためなら簡単に命を捧げられる男だ。祥雄のように飛行機に憧れたわけでも、要二のように機械いじりが好きだからというだけの理由でもなく、悟志は純粋に国を護りたくて、こうして航空隊に入ったのだった。


 純粋で勇ましく、更に容姿も麗しい。何一つ文句のつけどころがない男だが、相手が颯子となると話は別だ。彼女は、祥雄が驚くほどの反戦派なのだ。先日の帰郷ではっきりと解った。毎朝新聞の見出しを睨みつけて、「こんなもののために自ら死んでいく何て馬鹿馬鹿しい」と、嫌悪感を露わに呟いていた。そのための訓練を日々重ねている祥雄が隣にいることに気づき、バツの悪そうな顔をしていたが、呟いた中身が彼女の本心なのだろう。


 国のために死ぬことを己の美学とする男と、それを愚行だという女。そんな二人の相性が良いはずも なく、例え一緒になったとしても、心の底から幸せになれるとは到底思えなかった。これに関しては颯子の方が分が悪い。一歩間違えれば特高に連れて行かれかねないので、誰にも知られないように隠してきたし工作してきた。颯子にも『外では言うな』と言付けているけれど、彼女は果たして、約束を守ってくれているのだろうか……


「……やっぱり要二かなあ」


 いくら彼女が非国民扱いされていても、自分ならどんな颯子も受け止められる自信がある。しかしおれの立場では、後になにも遺せない。不毛な行為を続けていくくらいならせめて、思想の似通った要二に今後を託したい。祥雄はそう願っていた。


「……なんだと、祥雄ぉ!」

「うわっ」


 小さく独り言ちたはずのそれは、確りと悟志に聞こえていたようだ。今度は標的をこちらに変えたらしい悟志が飛びかかってくるのを見た祥雄は、急いで身を翻した。要二は「まあ頑張れ」なんて他人事のように肩を叩いてきたが、それに応答している暇もなかった。半ばやけくそになった悟志が、目をギラつかせて躙り寄ってくる。これはただでは済まなそうだと直感した祥雄は外へ駆け出し、逃げた。


 追いかける足音は五つ。なぜ悟志だけじゃないんだと不思議に思ったが、すぐにどうでもよくなって考えるのをやめた。走っている間は、余計なことを考えなくて済む。なにも考えていないと非常に気が楽になるものだと、祥雄は疾走しながら染み染みと感じていた。



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