泡沫の如く、
志槻 黎
前篇
第1話
今日、弟が帰ってくる。その瞬間が待ち遠しくて、
町は閑散としているくせに、駅だけはいつも込みあっている。騒がしい構内の片隅で、颯子はいつ到着するかもわからない汽車を待った。ホームを抜ける春風が、彼女の艶やかな黒髪を揺らす。乱された前髪を直し、手紙を握りしめたまま、汽車を待ち続けた。
この手紙は、ここ平生から遠く離れた土浦から届いた。差出人は双子の弟で、帰郷する旨が記されていた。ようやく休暇が取れたので、三月五日に帰ってくるそうだ。そして今が、その三月五日だった。
颯子は昨晩、手紙を読み返しながら「明日が帰郷の日か」と思っていたのだが、到着予定時刻が書かれていなかった。勝手に昼以降だと思い込んでいたが、早朝に到着するかも知れない。朝に掃除をして、寝床をつくって、食事の用意をして、迎えに行って……と考えていた明日の計画が、一気に崩された思いだった。
「あの子は本当に、どっか抜けてるんだから……」
愚痴を零しつつも、颯子の表情は笑顔だった。時間が分からなければ家で大人しく待っていればいいのだけれど、じっとしていられなくて駅まで来た。これからの事を思うと、心が踊る。たった数日、もしかしたら数時間で終わってしまうかもしれない帰郷だけれど、それでも一向に構わない。いつも隣にいたはずの弟が、近くにいないのは予想以上に寂しかった。
兵隊になるのだと、自分には想像もできないほど遠く離れた所へ行ってしまった双子の弟。常にぼんやりとして締まりのなかった彼が、突如として「飛行機乗りになる!」といって意気込み、迷うことなく土浦を目指したのは一年以上前のことだ。猛勉強の末に驚異の高倍率を勝ち抜き、本当に土浦の予科練習生になったことは記憶に新しい。月日が立つのも早いもので、あと半年もすれば予科練を卒業して本格的な軍人になるのだそうだ。……といっても颯子には全くその実感が無い。周囲から「おめでとう」と言われるのだが、なにがめでたいのかが全く分からなかった。
今日はなんだか、浮き足立っているような感じがしている。珍しく落ち着きのない気持ちを身に沁みて感じた颯子は、意味もなく周囲を見渡したり、同じ場所を行ったり来たりしていた。今や唯一の肉親となった彼の姿を見るのは非常に楽しみで胸が弾む。寂しく不安な一人暮らしとも暫くはお別れできると思うと居てもたってもいられず、その気持ちが、颯子を足早に駅へと向かわせたのだった。
遠くから、人のざわめきとは違う音が聞こえてきた。汽笛の音と、車輪とレールの擦れる金属音が、駅の構内に響く。待ちわびていたのは颯子ひとりではないようで、たくさんの人がホームへと押し寄せる。一層騒がしくなる構内で、颯子も負けじと、人波に逆らって到着を待った。圧迫される苦痛はあったが、そんなものに負けるわけにはいかない。これに打ち勝つことができなければ、待ち侘びた再会なんてできないのだ。
人波が引き始めた頃、ホームからゆっくりのんびり、かなりマイペースに歩いてくる人影を颯子は見た。その人影は軍服によく似た詰め襟を着ていたのだが……正直に言うと、威厳や精悍さは見受けられない。その軍人とは思えないようなのんびり屋に、颯子は覚えがあった。
「サチ!祥雄!」
歩みを止めてしまった七つボタンの詰襟姿を、颯子は強く呼びつける。すれ違った子猫に気を取られ、目で追いながらにやにや笑うこの男こそ、颯子の待ち侘びた弟だった。体をびくりと跳ねさせてこちらを向いた彼――天野
「颯子っ」
「うわっ、なにすんのよこんなところで……!」
ばたばたと駆け寄り、容赦なく飛びついて甘えるようにがっちりと抱きついた祥雄を受け止めながら、颯子は彼を叱咤した。十七にもなった男が甘えたとは情けない。そう思う反面、やはり片割れとの再会は嬉しいものだ。二人して顔を見合わせて笑い、互いの生存を喜び合った。
「無事でよかった。怪我も病気もしてないね」
「ん、大丈夫。さ、帰ろ?」
当然のように手を握り、覗きこむように囁きかける祥雄に応じて、颯子は彼の手を握り返す。二人並んで帰るのは、一体いつぶりだろう。道中、手を繋いで歩く若い男女を見咎める憲兵に出くわしたけれど、それも気にならないくらい、二人は幸せだった。
※
「やっぱり良いなぁ、実家が一番居心地いいな……」
うつ伏せに寝転がりながら、祥雄は大きく息を吸った。彼の大好きな畳は、どうやら土浦にはないらしい。尋常小学校の校舎に良く似た、湿気た木の匂いしかしないと嘆いていた。
祥雄は土浦へ行く前と何ら変わりない……と思っていたが、至るところに変化した箇所がある。良く見ると体格は確実に育っていて、ついさっき覗きこまれたときにも、大きく開いてしまった身長差を痛感した。隣を歩いていたときは気付かなかったけれど、その背中は広く逞しくなっているし、繋いでいた手も……そう言えば武骨で男くさかった。
――これはもう、今までのようにじゃれあうわけにもいかないかな。
成人男性へと成長しつつある祥雄を目の当たりにした颯子は、駅で抱きついてきた彼を思い出してそう思った。寝転がって畳特有の匂いを満喫する祥雄は今までよく見ていたはずなのに、なんだか少し違う気がする。同じ親から産まれ、似通った遺伝子を持ち、十数年も同じ家で育ったはずの彼が、少し遠くに行っただけで別人になってしまったような気がして仕方がなかった。何度見返してみてもその違和感は払拭できず、颯子の頭は混乱している。嘗てこの家の中で見ていた幸雄はどこにもおらず、そう思うと堪らなく寂しかった。成長していくのは当たり前なのに、ずっと一緒にいられるわけがないのに、どうしてこんなにも寂しいのだろう。私は彼に依存してしまっていたのだろうか。もしそうなら、もっとしっかりしなければ。だって私は『お姉ちゃん』なのだから……
「あっ、そうだ忘れるとこだった……!」
がば、とうつ伏せたまま勢いよく上体を起こし、畳を強く踏み込んで立ち上がった。その姿を見た颯子は、すっかり驚いてしまった。あの祥雄が、こんなに機敏に動けるなんて思っていなかったからだ。機敏に動きまわるのは姉である自分の役目で、これまで見てきた祥雄は、常にゆったりした動きだった。「これも厳しい訓練の賜か……」と一人納得し、颯子はこれ以上深く考えないようにした。
荷物を漁り、颯子の目の前に座った祥雄は、「これ、あげる」と彼女の掌に長方形の箱を置いた。重ねられた彼の掌から覗いたのは、白と黄色の箱に踊るキャラメルの文字。キャラメルと言えば、贅沢品という印象がある。練習生に嗜好品を与えるほど、海軍の人間は贅沢をしているのかと思うと、自然と颯子の眉間に皺が寄る。そんな彼女に気付かないのか、祥雄は出掛けに貰ったのだという餞別を詰めた袋から、一つ一つ丁寧に土産の品を取り出し彼女に見せてやるのだった。
気を取り直してその中を覗き込んだ中にあるものを見つけた颯子は、眉間の皺を一層深くした。袋の中に手を突っ込んで取ったその箱は、先程手渡され、今もなお手中にあるキャラメルの箱よりも薄い。横に広い薄緑の箱には、《金鵄》の文字と鳶が描かれていた。……確か《金鵄》といえば、煙草の銘柄ではなかったか。そう思うと同時に手が動き、箱の封を開ける。出てきたのはやっぱり煙草で、颯子はぎろりと祥雄を睨んだ。
「あんた、煙草なんか吸ってんの……!」
「へ?……あっ、いやっ、吸わん吸わん!」
颯子の行動をぼんやりと見ていた祥雄だったが、彼女の怒った目に驚き必死に否定した。正直に言えば、一度だけ吸ったことがある。先輩からの無理強い半分、好奇心半分だったが、全く美味いと感じないばかりか胸が痛くなったので、この一度でやめた。
このことは、祥雄だけの秘密だ。健康と倹約にうるさい彼女に煙草を吸ったことがあると知られたら、長いこと口を利いて貰えなくなってしまう。颯子は、祥雄の言い訳に聞く耳を持たなかった……というのは傍から見た印象で、実際は拗ねていた。私と祥雄は双子だけれど、結局は別々の人間だ。だから全く同じ時間を共有する訳がなく、価値観や常識だって違っている。仕方がないことだ。仕方がないことなのに、『自分の知らない祥雄がいる』事実が寂しく、また嫌だった。
自分はこんなにも面倒くさい女だったか。そう思うとなんだか情けなくなって、泣きたくなった。こんな姿、祥雄には見られたくない。逃げるように彼から背を向けた颯子は、今日の分の仕事をしてしまおうと思い立った。一つのことに集中していれば、こんな嫌な気持ちも忘れられるはずだ。颯子は手近にあった箱を引き寄せ、その中を探った。
一方の祥雄は、そんな颯子の心を知らないままに項垂れていた。本当にこの帰省中、口を利いてもらえないのだろうか。それは嫌だ、一体俺は何のために帰ってきたのだ。逃げるように向けられた背に、自分の全てを拒絶されたような思いになった祥雄は酷い寂しさと苦しさを感じていた。
「……サチ、重い」
「颯子……何してるの?」
息苦しさを無理にでも払拭したくて、颯子の肩を抱いて寄り添った。側頭部同士が触れるか触れないかくらいにまで近づいてきた祥雄は、鬱陶しがる颯子にも構わず彼女の手元を見る。針仕事をしている彼女の細く小さい手は、忙しなく動いていた。颯子が針仕事をしているのは、かなり新鮮だった。なんせ彼女は不器用で、細かいことが苦手なのだ。その不器用さは今も健在なようで、指には無数の刺し傷があった。女の子がこんなに傷をつくって――と思う一方で、そんなところも可愛いな、と祥雄は思う。
作業に集中してしまったのか、どんなに突いても揺すっても颯子からの反応はない。それがつまらなくて拗ねてみても、相変わらず反応はなかった。
颯子は祥雄がごそごそやっているのに気づいていたが、それよりも作業の方に意識を向けていたかった。私は間違いなく不器用だ。だから、今みたいに波に乗れているときにできるだけ進めておきたいのだ。
そのまま作業に没頭していると、顎の下にさく、と何かが差し込まれるのを感じた。ちくちくする感覚が気持ち悪くて、集中力を一気に削がれてしまった。おのれ、祥雄め。憎々しく思いながら顎の下に手を伸ばすと、そこに感じたのは紙の感触。一体なんだとそれを掴むと、白い封筒がそこにあった。
「……何」
「おれを構わん仕返し。……っていうのは半分冗談で、これはおれの同期からの手紙。颯子にって」
相変らず超至近距離にいる祥雄から封筒を受け取った颯子は、その表面を見た。白い紙上には『天野颯子様』と、確かに自分の名前が書かれていた。差出人は、
差出人の名前には覚えがあった。祥雄は去年の夏にも一度、手紙を寄越してきた。検閲のためかその時は大好きな飛行機のことは綴らず、大好きな同期の男達の話ばかりを書き連ねていた。その中の特に大好きな同期の名が、森口要二と
その同期が、一体私になんの用事だろう。颯子は中身まで巻き添えないよう慎重に、封筒の端を破いた。彼女が封を切ったのを確認すると、祥雄はそそくさと彼女から離れていく。「一緒に見ないのか」と尋ねる颯子に、「今は猫と遊びたい気分」と適当に返事をする。丁度目の前に、迷い込んだらしい真っ白な子猫がいる。その猫を目指して、祥雄は縁側から庭へと降りた。
本当のことをいうと、一緒に文面を見たいという気持ちもある。けれど年頃の娘に当てた男からの手紙を、一緒に見るほどこちらも野暮ではないつもりだ。もしかすると、ここから恋が始まるかも知れない。颯子が他の男のものになってしまうのは寂しいが――要二なら、或いは。
祥雄も少しはそう思うのだけれど、やはり気分は良くなく、胸のあたりに靄がかった感覚がある。このもやもやした気持ちは、子猫を構うことによって晴らしたい。手紙を開いた颯子のことは見ないように心がけたが、紙を破る音も開く音も、否応なしに鼓膜を震わす。
嫌だ、聞きたくない。
祥雄は子猫と遊ぶことも忘れ、両耳を塞いで庭に蹲るのだった。
そんな祥雄の気も知らず、颯子は自分宛の珍しい手紙を開いた。封筒の宛名と同じく、達筆で端正な字が並ぶ。仄かに墨の匂いのするそれを、颯子は読み進めた。
『拝啓 天野颯子様
突然の便り、申し訳ありません。貴女のことは、祥雄からよく聞いております。
なんでも、平生で一人で暮らしているとか。我々同期は、そのことが心配でなりません。何かと物騒なこの御時世、寡弱き乙女の一人暮らしでは、なにかと不便も多いでしょう。
いらぬ心配かも知れません。
しかし気を張りすぎては体調も崩しかねませんから、どうか一人で何でも背負わないようにお願いします。
折角祥雄も帰った事ですし、どうか彼を頼ってやってください。
森口要二
追伸・
同じ同期の片岡悟志も、貴女のことを心配しています。彼も貴女に便りしたがっておりましたが、あまりに拙すぎて驚かれるだろうと、控えさせて頂きました』
添えられた追伸にクスリと笑いながらも、じんと胸の奥が暖かくなるのを颯子は感じていた。一人暮らしの身を案じる言葉など、もう何度も聞いたはずだった。父を日中戦争で亡くし、母を結核に奪われ、祥雄共々引き取ってくれた祖母も、祥雄が土浦へ行った翌日に流行病に倒れてしまった。その後は誰に引き取られることも望まず、祖母の残した家を護るのだと決めた颯子に、親族や友人たちは挙って心配したものだ。
その中のどれにも心打たれなかったのは、偏屈で意固地な小娘を厄介者扱いしている心が見え透いていたからだろう。どの家庭にも人を預かる余力なんてないだろうから、自分なりに気を使った結果だったのだが……親族らにとっての心配とは、彼女の身を案じて、というよりも行き遅れ確定の娘を輩出してしまう世間体の悪さだろう。まあ、そんなことは颯子にとってはどうでもいいことなのだが。
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