紅のゲロ

「……小説家を目指した理由ってそんだけ?」

「あの一言で目指したわけじゃないけれど、きっかけはそれだけ」

「ん〜、なんというか、その」

「もっとロマンチックな理由を期待させちゃったかしら?」

 もにゅもにゅさせていた口元を結び、英梨々は首を振った。

「……いや、そんなもんよね。何かを始めようと思うきっかけなんて。思えばあたしもそうだった」

 ちなみに15分前のこと。

 もういいや遅刻したらしたでごめんで済むだろうきっと、と諦めの気持ちで詩羽が電車に乗ると、何故かそこにはどんな顔して挨拶したらいいものか決め兼ねている表情の英梨々がむっつり黙ってこちらを睨んでいた。詩羽が「ついさっき遅刻するなと言いつけておいた相手と同じ電車に乗るのってどんな気持ち?」と伺うと英梨々は「張り倒すわよ」と応えてくれる。相変わらず面白い奴だ。ひょっとして狙ってやっているのだろうか? だとしたら絵描きにしておくには惜しい。

「でもどうしたの急に。久しぶりに昔を思い出したとか?」

「まあね、天草と話してて。あいつ普段あたふたしてる割には時々ズバッと切り込んでくるから油断ならないわ」

「あなたもしかしてさっきまで職場にいたの?」

「一昨日に特典のショートストーリーを脱稿したあんたと違ってこっちは余裕がないの。あ、次の駅で降りるから」

「入社して一年とちょっとだったかしら。彼女はモノになりそうなの、柏木先生?」

「今はなんとも。でも絵描きって長くやってるとある日突然ブレイクスルーがやってくるから、そこんとこに期待ね。気配はあるもの」

 様子をうかがうように詩羽は聞いてみた。

「高校生の頃のあなたのように?」

 指折り数える。5,6,

「そっか、もう7年前になるのか」

「あの頃からでしょう? 切羽詰まると那須高原の別荘にカンヅメする癖がついしまったのは」

「……ゲン担ぎって意味もあるのよ、あそこで絵を描くのは。あの日あの場所で描けた絵があったからこそ、今日のあたしがあるんだから」

 座ろうと思えば座れたのだが2人分のまとまったスペースがなかったので、ドア側に背を向けて電車のなかでヒソヒソ立ち話に興じていた。2人は常日頃から電車通勤なので、駅のホームや電車の中でこうやってばったり出くわす場面がちょくちょくある。こういう時はいつもドア側のスペースで立つことにするのがお互いの暗黙のルールになっていた。これにはちゃんと理由がある、その容姿のせいで誘蛾灯に誘われる蛾のように痴漢を引き寄せてしまうからだ。混み合う電車の中で尻を撫でられたことがある方にはご理解いただけるかと思うが、あの恐怖は筆舌に尽くしがたい。

「わたしも今朝高校の頃の夢を見たの。これってもしかしたら何かの予兆かも知れないわね」

「まったく作家様はすぐそういうこと言う。あんたって占いとか信じる人だっけ?」

「日によるわ。とくに今日は気持ちが張ってるのかも」

「あー気持ちはわかる、だっていよいよだもん。あたしたちの7年間が日の目を見るの」

 車掌が自分の名調子に酔いしれるかのような、独特の韻を踏む言い方で次は海浜幕張駅に到着しますと告げる。2人の目の前でもみくちゃにされている人混みの全員が一斉にそれぞれの荷物を背負い直した。イベントの関係者かも知れない。ホームに到着して、ドアが開き、詩羽と英梨々は人の塊と一緒に吐き出されるように電車を降りた。周りを見渡して思ってしまう。今日の自分たちは来場者ではなく参加者、それも仕掛人としてこのイベントに出席するのだ。馬鹿だと分かっていてもつい優越感に浸ってしまう。

 ふと、詩羽は視界の端にどこかで見覚えのある懐かしい影を捉えた気がして振り返った。

 特に何もない。人混みの中にあるのは、腕がつりそうになりながらケースを担いで階段を降りるスタッフと思しき客と、時間よ止まれと唱えながら駆け抜けてゆく遅刻者スプリンターくらいだった。

「どうしたの詩羽? はやく行ってやんないと朱音の奴またゲロゲロになっちゃうよ?」

 ええそうねと言いながら釈然としない詩羽は英梨々の横に並んで歩く。

 最近読んだホラー小説に出てきた、視界の端にしか映らない幽霊なのかもしれない。


 ※ ※ ※


「ああ、社長かい? もうブースの中でスタンバってるよ。いま司会者と最後の確認とってる」

「しかし他は入るなと」

「なんでもスピーチの練習をぎりぎりまでやっておきたいんだとか、いや社長のその姿勢にはいつも恐れ入るよ」

「流石だよな社長」

「あと司会者が2人にも質疑応答の擦り合わせをしときたいって」

「はいこれ紙」

「座席もデモプレイの機器もビンゴゲームも準備完了、いつでも始められるぜ」

「流石だよな俺達」

 キラリと輝く純白の歯を見せつけるように笑うこの双子は佐清秀一さすがしゅういち佐清一郎さすがいちろうである。

 思わず詩羽と英梨々は白々しいものを見るような目で二人を見てしまった。いや、悪いやつらではない。むしろ、前職で映画の舞台セットを手配していたというこの双子はアカネプロダクションの中で随一のフットワークを誇る。営業部兼プロモーションチームに所属している関係で人脈が広く、詩羽も英梨々も何度となく助けてもらったことがある。

 ただ、根が単純というかなんというかその、

 ともかく。

「中入っていい?」

 2人の想像通りであれば、おそらくブース裏の待機部屋にいる朱音は――、

「おっと、そう言えば君たちが来たらすぐ呼んでくれと社長に言われてたんだっけ」

「そーりー忘れてた」

 企業ブースの裏にあるこぢんまりした待機部屋に入る。仮設のドアを開けるともう既にどんよりした空気が床を這い回っていることにたじろいだ。そこには2人の予想通りの光景が広がっている。

「……やぁご両人、なかなか堂に入った重役出勤ぶりじゃないか……おえっぷ」

 嘔吐感に急き立てられた紅坂朱音はもはや顔が真っ青を通り越して真っ白になっている。2人は床を見回して絨毯爆撃の跡が見えないことにほっとした。

「朱音ったらその体質は一生治んないわね。大丈夫? 開幕まで何とかなりそう?」

「……うぷ……なんとかしてみせるさ、今までと同じようにね」

 様々な作品のディレクター兼プロデューサーのやってきた朱音はプロモーションの一環として今日と似たような表舞台に立つことがしばしばある。いったんスイッチが入れば一端のプレゼンターに変貌するが、スイッチがオフの時は極端にプレッシャーに弱い。

「それより、2人に紹介したい方がいる。アソシエイト・プロデューサーの井口と本日の司会を務めて下さる清水さんだ」

 井口と清水は一礼した。2人も如才ない笑みを浮かべて挨拶する。

 司会者である清水がここにいるのは当然であり、初対面であるのにもなんの不思議もない。

 しかし、井口という人物には覚えがなかった。別にゲームに係るすべてのスタッフと顔見知りというわけじゃない。むしろ、ゲームのクレジットを見ても知らない人達のほうが遥かに多い。しかし、プロデューサーと名のつく役職となると話は別になってくる。自分たちのゲームの今後を左右するかもしれないのだ。

「……そんな顔しなくても心配はいらない。井口の手腕は確かだよ。2人は会ったことがないかも知れないが、実は『フィールズクロニクル』でも彼女はプロモーションチームのリーダーを努めてたこ……と……が……うぷっ!」

 いきなり朱音は口を手で抑えて、ものすごい勢いで身体をくの字に曲げた。ちょっと待ってくれと悲痛の声を上げる井口と清水。パイプ椅子から腰を浮かせて、来るべき災害に備えて少しでも爆心地から離れようとする。詩羽は微動だにしないし、英梨々は眉一つ動かさない。

 朱音の吐き気はやって来た時と同じくらい唐突に引いていった。

「……うっぷ……ハァハァ……いや、お騒がせした」

 おいおい勘弁してくれよと胸を撫で下ろす井口と清水。

 少しでも気を緩めれば小間物を開いてしまうと思ったのか、朱音は深い呼吸で一言ずつ確かめるように話し出した。

「ゲームの開発規模が企画当初より大きくなってるのは、2人もよく知ってるだろ? 販売戦略の方まで、手が回らなくなってきてね。苦しい選択だったが、私はやはりディレクターであるべきだと考えたんだ。助手アソシエイト、という枕はついてるが、井口くんは、事実上のプロデューサーだよ」

「……だったら朱音さんが役職名をはっきりディレクターにすればいいんじゃ?」

 詩羽がそう聞いたのは、井口はプロデュースの指揮権を握っていながら、あくまで外から見た指揮系統では朱音のサポート役にすぎないという気持ち悪さからくるものだった。井口には申し訳ないが、朱音を傀儡にしようという魂胆があるのかもしれないと詩羽は疑ったのだ。事実、今までそういう人間は何人もいた。

「それはわたしの判断だよ、今回の役職変更は彼にとっても寝耳に水でね。もしタイトルが失敗したとき、まだ若い彼を矢面に立たせたくない。……不服かな?」

「……そういうことなら。今までの制作体制に変更はないと考えていいのね?」

「ああ、よろしく頼むよ」

「てか、なに弱気になってんのよ朱音、あたしたちの7年間がようやくお披露目ってときに失敗したときの保険を考えるなんて」

「……ふふ、そうだな。私としたことが、プレゼン前の緊張で頭をヤラれてしまったみた、い――うぷ」

 今度の「うぷ」は決して予兆ではない。

 そのことを敏感に察知した2人の行動は迅速だった。先行する詩羽が急いで朱音を椅子から立たせて床に這いつくばらせて顔を下に固定する。後衛の英梨々はトートバッグの中のいつもここと決めてある位置からエチケット袋を取り出して朱音の口元を包み込むようにセットした。

 次の瞬間、この世すべての悪と呼ぶべき吐瀉物が朱音の口から濁流のごとく迸った。

 オロロロと注がれる小間物を受け止めながら英梨々は祈る。この願いが叶うなら『LAST JOURNEY』に出て来る悪魔と取引してもかまわないとさえ思った。どうか、どうかお願い……!

 願いは、聞き届けられた。朱音の吐瀉物は、それほどの大きさもないエチケット袋にしっかり収まったのだ。

 吐き終わったのを確認した詩羽は、シャンパンを傾けた後の給仕が必ずそうするように朱音の顎を持ち上げて用意しておいたハンカチを当てた。英梨々は匂いが漏れないように袋の口をしっかりと絞ってトイレへ駆ける。椅子に座らせた朱音の背中をさすりながら詩羽は辺り一面の床を確かめた。よし、一滴の汚物も見当たらない。

 為す術もなく傍から眺めることしかできなかった井口と清水は、現役の救急救命士に及ぶかもしれない2人の手際の良さに舌を巻くしかなかった。なんだかよくできた大道芸を見せられた気分だ。もしそこに逆さに置かれたハットがあれば手持ちの金銭を投げ込んでしまったかも知れない。よもや昨日今日で身についたものではあるまい、3人の付き合いの長さと密度が窺い知れる一幕であった。

 朱音は吐くだけ吐いて楽になったのかいつもの調子を取り戻していた。

「……おっぷ……はは、なんてザマだ。モンスタークリエイターだの何だの好き勝手呼んでくれたマルズの連中に、今のあたしの姿を見せてやりたいぜ……!」

 いやホントなんてザマなんだろう。『LAST JOURNEY』のザコ敵にゲロ吐いて攻撃する敵がいるが、今の朱音と瓜二つだ。

 あの~、という遠慮がちな声が奥から聞こえた。司会の清水だ。そろそろ実際に登壇してみてのリハーサルをしておきたい言う。詩羽はわかりましたと言い部屋を出ようとして、危険物処理班えりりが帰ってきてないことに気づいた。

「ここはいいから行ってきな、柏木には私から伝えとくよ――ああ、ちょっと待ってくれ、お前らインタビュー終わったらどうせ直帰するつもりだろ? ブースの後ろの方で待機しておけ」

 なぜと聞く間を与えずに朱音は続けた。

「今回のショーに当たってのヒロインのAI設計を担当してくれたスタッフを呼んでる。顔だけでも覚えておけ、『LAST JOURNEY』以降も世話になるかもしれない」

「……わかりました」

 詩羽と清水が出ていったドアをいつまでも見つめながら、いままで愛想笑いに努めてた井口がようやく口を開く。

「本当に良かったんですか? 2人に知らせなくて」

「なんだ、また話を蒸し返すのか」

「私は2人の今後の活動に支障をきたさないか心配です。制作フローに遅延が出れば私達がその尻拭いをしなければなりません」

「耳が痛いね。だが、予定に変更はあり得ない。なにせこの企画は今日この日のために私が立ち上げたんだ。いやぁ苦労したぜあいつらのスケジュールを上手いことずらすのには。それはそうと、井口は今日あいつらを初めて見てどう思った?」

「美人ですね。それに、クリエイターにしては珍しいほど

 痛快とばかりに朱音は笑い出す。

「まるで非常識な連中に今までウンザリさせられてきたような口ぶりだな」

「私は社長ほどクリエイターと呼ばれる人間を信頼していません。どれほど創造的な才能に秀でた人物でも、実務となった途端にステータスが産廃さんぱいになるクリエイターは少なくないですから」

 たしかにと朱音は喉の奥で笑って、彼女たちが出ていったドアの方へ顔を向けて遠い目をした。

「仕方ないよ、一日中脇目も振らずPCとにらめっこしてたら誰だってそうなる。だが昔ならいざ知らず、今のあいつらはそんなタマじゃないよ。何せこのあたしが鍛えたんだ。学生の頃から数えて7年、『フィールズクロニクル』ですべてを出し尽くしてくれたと思っていたのに、今でもこうして私の後ろをヨチヨチ歩いてきてくれる。親になったカモの気持ちさ。だから今回のサプライズは、言わばあたしからのご褒美だ」

 井口からの角度からではいま朱音がどんな表情をしているのかわからない。しかし口からこぼれて来るその声を拾えば、犬歯を覗かせながら嗤う朱音の顔が頭に浮かんだ。

「その粋は私も見習いたいものです。後学のためにお聞きしたいのですが、もしあの2人がヘソを曲げて問題が起これば、その責任の所在はどこになるんでしょう?」

「もちろん私に帰結する。だがお前は心配しなくていいよ、作品のクオリティが落ちるようなことはない」

 井口は膝下で開いていたノートPCを閉じて、席を立った。

「クオリティなど知ったことではありません。望むのはきちんと期日内にゲームが納品されること、それだけです。そこから先は私達の仕事。例え手渡された品物が傑作であれゴミであれ、」

 ドアノブに手をかけ振り向きざまに断言する。

「私が捌いてみせます」

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