乗り遅れた英梨々
たっぷり10コール待たされてようやく霞ヶ丘詩羽は電話に出た。
『お゛~わ゛~よ゛~』
英梨々は思わず頭を抱えた。自宅からじゃ不安だから近場のホテルに泊まりなさいうんそこでいいわちょっと待ってダメダメまだ寝ちゃダメ荷物詰め込むわよしっかりしてキャリーケースはこれでいい? ――昨日あれほどお膳立てしたのにこのザマだ。
「もう電車に乗ってるもんだと思ったけど……。その様子じゃ支度まだでしょ。早くしてよね今度ばかりは遅刻なんてダメなんだから」
まだ言いたいことがないわけじゃなかったが、モーニングコールはここまででいいだろうと通話を切った。これで遅刻してくるようなら流石に面倒見きれない。
ベンチに座ることもなく壁にもたれかけて、自販機で買ってきたコーヒーを啜りながら、品川駅のホームで電車を待つ。手元のiPhoneを操作して自分たちがいま鋭意製作中のタイトルが冠されたサウンドトラックを開いた。その中のひとつの楽曲を再生させる。iPhoneに表示されているジャケットは3ヶ月前に英梨々が描き上げたもので、先方からの「ヒロインは本編じゃ喜怒哀楽の振れ幅が小さいので、サントラのジャケットではいっちょパァッと花咲くような笑顔でオネシャス!」というオーダーにはとても苦労させられたが、そのエピソードを差し引いても、「カビだらけの記憶」は英梨々のお気に入りの一曲だった。ノスタルジックな曲調が、朝焼けに照らされる人もまばらな駅のホームによくマッチしてて気分がいい。
――先輩はいつから“信頼”を得ていたんですか?
あるいは、波長が合っているのは景色ではなく、自分の今の気持ちなのかもしれない。
天草にはみっともないところを見せてしまった。
こんな気分にさせられたのは久しぶりだ。昔は過去がフラッシュバックする度に詩羽に迷惑をかけていたっけと思い返す。最初の一年は大変だったが、二年目からは徐々に安定して、三年目からは平常心を保てるようになった。今となってはもう昔を思い出すこともほとんどない。
イヤフォンから流れる曲の指揮者になったつもりで小さく振る|人差し指≪タクト≫。曲調に合わせるようにリズムを刻んでいく呼吸。気分が乗ったときはいつもそうしてしまうように英梨々は鼻歌を歌っていた。
あれからもう七年になる。自分たちは裏切りも同然と言うかたちで「Blessing Software」を脱退して、同人サークルに興じる恵や倫也たちと袂を分かれたのだ。英梨々と詩羽のその後について言えば、持ちかけられた企画である「フィールズクロニクル」を完成させるために、
まばらだった駅のホームは今や人に溢れて、何本もの電車がせわしなく山手線を行き交っているのを英梨々は見るともなしに見る。周りの男たちはそんな英梨々の横顔に目を縫い止められてしまう。
結局、あれから「Blessing Software」の名前は表舞台から姿を消した。倫也は何やら新企画を立案してたみたいと詩羽から聞いていたが、冬コミには何の音沙汰もなかった。当然といえば当然だ、サークルの中核をなす二人が抜けたのだから。高校三年目にして倫也とも恵ともクラスが別々になってしまい、顔を合わせる機会がめっきり減ってしまった。気まずくて仕方なくて声をかけられなかったというのもあって、彼らが何を企画していたのか、分からずじまいになったというのが心残りだ。でも自分にそんなことを思う資格なんてこれっぽっちもないに違いない。これは詩羽にも話したことはないが、高校の卒業式で卒業証書を受け取ったあの時、これでもう倫也たちと廊下でばったり顔を合わせる度に後ろめたい気持ちにならずに済む、と心の底から安心してしまったのだ。
自分の
それでもかまわない。両耳から引き抜いたイヤフォンをゆっくりと両手で握りしめて、英梨々は強く思う。
すべてはクリエイターとして大成するため。
自分の選んだ道に決して後悔はない。直接確かめたわけじゃないが、詩羽も同じ気持ちだということは側で見ていれば分かる。過去を切り捨てる選択ができたからこそ、今日という日を迎えられたのだ。
と、そこで英梨々はもしかしたらと重大な事実に気づいて戦慄した。何かの思い違いであってくれと何度もグーグルマップとホームの電光掲示板を見比べる。もう間違いない。
乗らなければならない電車を三本も逃した英梨々は、地に穴を穿つような盛大なため息を吐いたのだった。
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