上田文人さんのファンです
開発もいよいよ大詰めという時期のディベロッパーほど同情を誘うものはない。英梨々はこの時期なるといつもそう思う。
時刻は午前3時。詰め将棋に興じる管理人に株式会社アカネプロダクションに所属する人間だと証明する社員カードを見せてビルの中に入っていく。エレベーターで3階を指定、出てすぐ右に曲がった突き当りの扉を開けると、そこが英梨々の職場になる。
扉を開けて、一歩踏み込んで立ち止まる。英梨々は「う」と顔をしかめて指で鼻をつまんだ。臭いというわけではないが何かにおう。整然と並べられているデスクを見渡すと、そこには歴代バイオハザードシリーズのどのナンバリングに出しても恥ずかしくないゾンビたちが。
瘴気を纏いオフィスを彷徨っているそれらは、よく見ると開発部のスタッフたちだった。何事かをつぶやきながら壁に爪を立てているのはエフェクトデザイナーの鈴木で、両手で頭を抱えて床にうずくまっているのはプログラマーの渡辺だろうか。彼らは後しばらくもしないうちに、自分のデスクで息を引き取るように安眠し、朝になると蘇ってトイレの洗面台で頭を洗い歯を磨くだろう。
あいつのデスクってどこだっけとキョロキョロしている英梨々を見かねたビジュアルプランナーの田中が声をかけた。弟子ならあそこだよ、と指をさしてくれる。普段から彼は気さくな人で、その実にふくよかな頬肉を引き伸ばして笑うチャーミングな笑顔に元気づけられなかった人間はこのスタジオでは一人もいない。しかし、今の彼はまるで一滴残らず水を絞り取られた雑巾のような有様になっている。「男子三日会わざれば刮目して見よ」とは言うが、英梨々は悲しい気持ちになった。
デスクとデスクの間を歩きながら、この光景は何度見ても慣れないなと英梨々は慄く。ここを空けていたのは一週間くらいのはずだが、まるでガノンドロフに支配されたハイラル城みたいだ。
田中に案内された英梨々は、そこで寝ているゾンビの肩に手をかけた。
ガバッと脊髄反射で背筋を伸ばすのは、昨年社長にヘッドハンティングされてまんまと入社してしまった哀れな子羊こと
「あれ、柏木先輩! そんな――、」
オフィスに掛けてある時計に振り返って、
「まだ3時じゃないですか! どうしたんですかこんな時間――」
そこで英梨々は「シーッ」と口元に指を当てて、天草は「しまった」と両手で口を覆った。オフィスを見渡すと、デスクワークに勤しむゾンビの誰かがもぞもぞと動いて、ウボアァと言葉にならない声で呻いただけだった。うるさいと言ったのかもしれない。2人は声を潜める。
「あれ? でも先輩って今日はたしか、」
「もちろん出席するわよ、社長命令だしね。でもあたしたちにそんな暇ある? ちょっとでも作業進めとかなきゃ。どこまで進んだ?」
「……あ! えと、その、あの、」
煮え切らない態度に英梨々はしびれを切らして、スクリーンセーバーが起動している天草のディスプレイを叩き起こした。あわわと指をくわえる天草。
「……ま、そんなとこだろうと思ったけど。よかった来といて。あんたもうちょっと徹夜に耐性つけといたほうがいいわよ」
しょんぼりとした天草は力なく笑ってすいませんと謝った。先輩の耐徹夜性がおかしすぎるんです、とはとても言えない。
にしても――と天草は今の英梨々の格好を失礼なくらいまじまじと見て思った。
トップはふんわりしたシルクのキャミソールで印象をボカしていながら、それに反してボトムにはスキニーデニムで、女性なら誰もが羨む脚線美をこれでもかと強調している。肩に下げたド派手なビビットカラーのトートバッグが、差し色となって全体の色調をを引き締めていた。薄手の化粧でも血色が鮮やかに見えるのは、ふっくらした艶のある桜色のリップがあればこそだろう。
天草はごくりと生唾を呑む。普段の英梨々は色気もクソもあったのもじゃなく、どうかすると「ちょっとコンビニいってくる」という感じのジャージで出社するのでなかなか気づかないが、やっぱりちゃんとすればすごい美人だ。これじゃ今日のイベントのパンダ役にしようという社長の案も頷けてしまう。
「詩羽だったらホテルから直行よ。見たいんだったらあんたも来る?」
口に出てたらしい。慌てて手で口に蓋する天草を横目に、英梨々はくすりと笑った。
「冗談よ。あんたまで遊んでたら誰があたしの仕事をフォローすんの? ただでさえうちの男どもは頼りにならないんだから。それから、」
英梨々は急に険しい顔になって、
「どうせ寝るなら第2会議室にしなさい。昨日やたらと長文の社内メールが回ってきたでしょ。最近じゃこういうことに中も外もうるさくってさ、大変だったんだからこの件を落ち着かせるの」
「この件」については補足する必要があるだろう。
株式会社アカネプロダクションには第1と第2のふたつの会議室がある。第1会議室は平時から使用される会議室であり、皆が顔を突き合わせる場所といえばほとんどがここだ。面倒くさいですとはっきり顔に書いてある英梨々が頭役を務める進捗報告会も、立ち上げた企画を披露するガッチガチに緊張した詩羽の社内プレゼンも、主にここで行われる。
もう一つの会議室が使われる機会はほとんどない。社の人間はここを「ボス部屋」と呼んで近づきたがらないからだ。それは部屋を開くために必要な鍵は
株式会社アカネプロダクションのボス、
「自室のような」ではない、「自室」だ。
今手がけているIPの開発が大詰めという今のアカネプロダクションは、リビングデッドひしめく不浄の肥溜めであり、その職場は
――ビジホなんてケチな事は言わない、スイートルームだって経費で落とそう。ホテルに泊まってくれ頼む。
――んなとこ籠もってたらスタッフの指揮にラグがでる。1分だって許容できない。現場にこそ、舵を切れる決定権を持った人間が必要だ。
お互い全く譲らず議題の解決は困難を極めた。営業部が口八丁手八丁で労基から送られる刺客と互角に渡り合っている間、密かに水面下で行われた英梨々と詩羽の地道な調停工作がようやく実を結び、双方崖っぷちギリギリの妥協点として出てきたのが、今まさに朱音たちが火花を散らしているこの第2会議室だった。
――いいだろう。今からここがあたしの
もちろんあるに決まってる。しかし、同社が初めて手がけるオリジナルタイトルの開発が佳境を迎えているこの時期に、紅坂朱音がヘソを曲げる事態だけは回避しなければならなかった。
「ボス部屋」の誕生である。
※ ※ ※
「でも本音を言えば出たかったです、今日のイベント。だってどれを見ても注目タイトルばかりじゃないですか! ICOにワンダに巨像にトリコ! そこにわたしたちのゲームが肩を並べちゃうんですよ! 夢みたい! はぁぁ~、数年前の私なら想像できなかっただろうなぁ」
イベントの前日は
そこには天草の話を聞きいてちゃんと返事をしながらも、作業をすすめる手がとどまるところを知らない英梨々と、夢を見るようにうっとりとした声を上げて両手を組む、作業が全く進んでいない天草が。
「それにしてもさすが先輩です! 私あんまし笑わないヒロインって好きななれないんですよ。アンニュイと言いますかクールビューティーと言いますか。でもこの子はいい! すごくいい! 例えばこのシーン、主人公のくっだらないジョークに慈悲をかけるかのように優しく口をほころぶ様は、まさに聖母そのもの!」
「……お褒めに預かり光栄だけど、手は止めないでね。はいラフ二枚目」
「そんな、まだこっちの下塗りも終わってないのに!」
「こっちの着彩は髪の部分直しといて、照り返しがなってない」
「そんな、そこあたしが一番こだわったとこなのに!」
「いつも言ってるでしょ、髪は常に濡れているようなイメージでって。特にこのイラストは夕日が背景なんだから照り返しは暖色系じゃないと」
口をとんがらせる天草。
「えー、そんなとこまでユーザーは見てませんよきっと」
「見てたらどうするの?」
ぐぬぬ。
「そんな顔しないで、意地悪を言いたいわけじゃないの。そうね、話を変えよっか。天草はイラストレーターの“実力”ってなんだと思う?」
いきなりの話に戸惑った。
「……そういう聞き方をするってことは“技術”じゃないんですか?」
英梨々はもったいぶらずに結論から言った。
「“信頼”よ。どんなに優れた技術も信頼がなければ見向きもされないの。それはこの業界に限った話じゃない。この世界のあらゆる技術史がそう証明してるんだから」
突然、天草は小学校時代の友達を思い出した。最近知ったことをまるで専門家を気取ったように解説するその友達の顔が、今の英梨々のドヤ顔と非常によく似ていたのだ。
「それ、霞先輩の受け売りですか?」
ぺろりと舌を出して「図星です」と英梨々はバツが悪そうな顔をする。
「やっぱあたしが先輩風を吹かせるには十年早かったか。つまりね、何が言いたかったかというと、あんたは飲み込みがすごく早いけど自己流のアレンジが目立つ。でも、このタイトルのイラストはあたしが指揮を執ってる。だから」
英梨々はそこで初めて作業の手を止めて、先程とは打って変わって意外なほど真剣な表情で天草に向き直った。
「お願い、わたしに信頼させて」
天草も英梨々に向き直り、膝の上に両手を重ねて、臣下の如く大仰に頭を垂れた。
「はい、仰せのままに」
1秒経って、2秒経って、3秒目で二人の口からなんなんだこの茶番はと言った感じの笑いがこぼれた。
「分かればヨシ! でも、“技術”あっての“信頼”だからね。そこ忘れないように」
ニカリと笑って英梨々は傍らのトートバッグをつかむ。
「じゃ、あたしそろそろ時間だから。あとはヨロシク!」
入れ替わるように天草は英梨々がたった今描き上げたラフ画を覗き込んだ。
こめかみに嫌な温度の汗が伝う。
乾いた笑いしか出てこない自分が情けなかった。
そうなのだ。ここに来る前まで趣味で絵を描いていただけの自分はまだペーペーの新人で、「フィールズクロニクル」時代から“鬼才”と形容されていた“柏木エリ”とは月とスッポンなのだ。英梨々の人懐っこい性格のせいで時々忘れてしまう。
トートバッグの中に出際良く荷物を詰め込んでいく“柏木エリ”を見ながら天草はふと疑問に思って、
「先輩はいつから“信頼”を得ていたんですか?」
と聞いてしまった。
別にこの質問に大した考えなどない。ただ自分を例に取ってみると、ピクシブでイラストを投稿していたとき、何が一番モチベーションになっていたかというと、やはりフォロワーの声だった。イラストレーターの実力を“信頼”と言い切る柏木エリの言葉は、自分にとっても聞き流せない重みがある。だとしたら、自分と柏木エリの原点は似ているのではないか? もしかしたら共通するかもしれないその原点を、少しだけでも良いから覗いてみたい。そんなことを願ってたら口から転がり出てしまった、そんな質問だった。
「…………」
そして、その言葉は普段張り巡らせている防御壁をすり抜けて、英梨々の原点ともいうべき心の深部に突き刺さった。
天草が心配して声をかけようかと迷うほどの間を空けた後、英梨々はバッグを担ぎ、足早に扉へ歩いて第2会議室のドアノブに手をかける。そして、
「今日の夜にまた顔出すから、液タブはそこ置いといて」
温度が感じられない声で言って、一度もこちらを振り返らず、そのまま出て行ってしまった。
首を傾げる天草の頭の上には「?」がふよふよ漂っていていつまでも消えない。
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