episodeー8

 駅前から泣きっ面の大神おおかみをタクシーに押し込んで大神の自宅まで帰って来た。

 質素なアパートの二階。

 大神らしいと言えばらしいのだが、アパレルをやっているとは思えない程簡素な部屋だった。


「どうぞ……散らかってますけど……」


 社交辞令でそう言った大神は、家に帰って来た途端疲れたとばかりに高そうなジャケットをベッドの上に放り投げてネクタイをうっとおしそうに緩める。

 涙は止まった様だが擦り過ぎて赤くなった瞼を洗おうと洗面所へ行き、ついでにコンタクトを外して来たのか戻って来た時には見慣れた黒縁メガネを掛けていた。


「みっともない所見せて、すみません」

「全然」

「あのっ、俺……」

「取りあえず、ここ、座ってくれる?」


 沖野は自分の座っている隣の床を叩いて催促した。

 テーブルを挟んだ向こう側に座られたんじゃ、触れる事が出来ない。


「はい……」

上智じょうちと何処で知り合ったの?」

「……俺、西日本に何店舗か担当してる店があって、上智さんは大阪の店の常連さんなんです」

「大阪か……何で、そんなとこにいんだ? あいつ……」

「沖野さんは、上智さんの知り合い……なんですか?」


 さっき言い渋った沖野を気にしているのか、少し聞き辛そうに大神は顔を逸らす。


「その前に、大神さんは上智に俺の事話した?」

「えっと……それは、その……」


 言い渋る大神を急かさずゆっくりと待っていた沖野を見て、はぁ、と諦めた様に一度溜息を吐いた大神がポツリポツリと喋り出した。


 大阪の店で知り合った上智と出身がこの街だとか、下の名前が一緒だとかで仲良くなり、彼が星野明ほしのあかりと言うペンネームで小説を書いている事は知っていたが、大神は上智が書いた本を読んだ事は無かったと言う。

 大神には好きな人がいて、喋る事さえままならない事を上智に相談していた。

 この街で【リュエール・デ・ゼトワール】と言う美容室の店長をしていて、担当して貰っているが一度も真面に喋れたことが無い、と。

 その大神の話を聞いた上智は、あの暗号を一緒に解く事をキッカケに喋ってみれば? と言ったのだと言う。


「俺は上智さんの事信用してた。だからあの暗号の答え見て、ちょっと動揺してしまって……。ゲイだって事カミングアウトしても引かずに仲良くしてくれたし、だから、その……沖野さんと喋れるようになりたいって相談を……なのに……あんな答えが……」

星野明ほしのあかり……ははっ、なるほど。あいつ、小説とか書いてんのか……」

「お、俺は……他の人となんて思ってないっ……!」

 

 また大神の感情がぎゅっと瞑った瞼の隙間から溢れて来る。

 真直ぐで濁りの無いその想いの雫を沖野は指でなぞって掬い上げた。

 沖野の店の名前はフランス語で【星明り】と言う意味がある。

 その名前を付けたのは、他でも無いその頃一緒に暮らしていた上智利秋だ。


「大神さん」

「……はい」

「俺は、大神さんが好きだよ」

「……え? え? あ、え?」

「大神さんは俺の事が好きで、喋れるようになりたいと思ってくれたの?」

「……あ、はい。気持ち悪がられるかも知れないですけど……どうしても、喋れるようになりたくて……」

「こらこら、人の話聞いてた? 俺、大神さんの事好きだって言ってるでしょ」

「でも……沖野さんはゲイじゃ……え?」

「俺ね、上智利秋と十二年一緒に暮らしてたんだ」


 沖野は自分がゲイである事も、十二年暮らした上智が事故以来ギクシャクして唐突に家を出て行ったことも全て話した。

 一番傍にいて、喧嘩でも冗談でも、向き合っていなければならなかった時期に仕事に没頭して彼との時間を削っていた事も。

 支えたい想いが嘘だったとは言わない。

 ただ、強がる上智が痛ましくて分かりやすく優しく受け止める事が出来なかった。

 足を悪くしても対等であろうとする上智を傷付けない様に接する方法が沖野には分からなくて仕事と言う大義名分を掲げて逃げた。

 話し終えるまで自分が心許なかったのか、大神の握り締められた左手をずっと握っていた。


「もしかしたら、どっかで死んでるんじゃないかって……この三年、ずっとそれが頭にあって……でも、今日生きてるって分かったから。あの暗号は多分、俺を好きになってくれた大神さんに上智が届けさせた俺宛ての暗号だよ」


 ――君以外の人と幸せになる――


 だから、何も心配要らない。君は君で幸せになると良い。


 沖野は上智にそう言われている様で、十二年一緒に暮らしていたのに小説を書いている事さえ知らずにいた自分を恥じた。

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