episodeー5

 珍しく予約と予約の間が五時間も空いていた沖野は、次の予約まで少し出てくると真尋おかあさんに伝言を残して、たまには喫茶店で飯でも食うかと通りにある喫茶店へ入り、買ったばかりの常陸に教えて貰った小説をペラペラと捲る。

 作者は星野明ほしのあかりと言うらしいが、活字を読めば三行で寝落ちする沖野が知る筈もない。

 勿論買った小説も答え合わせするだけで、読むつもりはない。

 

「答えが出るのはラストよりちょい前、この辺りか……?」


 辺りを付けながらそれらしき文面を探して行く。


   それでもこのまま絡め取って羽ばたけない蝶は、誰の為の蝶か。

   愛する人をこの手で生きながらにして屍にしてしまう私は蜘蛛。

   恋しくて、ここにいてと蹂躙し捕えてしまう前に私は逝く。

   優しい君が追い掛けて来ない様に、嘘を残して。

   嘘なら簡単に吐ける。愛しているなんて言葉よりは余程簡単に――。


「この辺りが暗号なら、答えはもっと先か」


   死にきれなかった私に、かの人はこう言った。

   かつての恋人を殺人犯にするつもりかと。

   全部君のせいにして、終わらせようとした私を抱き締める手がある。

   絶対なんて残酷はこの世界にはない。

   私達は理不尽と不完全の森で愛や夢と言う幻を探し続ける虫の様。

   蝕み続けてあの嘘を、本当にする為に私は生きてみる。


「……何で、こんな答えになんだよ?」


 思わず沖野は呟いた。

 大神はこの暗号を部下から貰って、解けば分かると言われたと言っていた。

 なのに、その出て来た答えは予想の斜め上を行く。


「これじゃまるで……」


 軽く食事を済ませた沖野は、居心地が悪くなって早々に席を立った。

 自分がどんな顔をしているか不安になる程動揺して、人目のある所を避けて狭い個室にでも閉じ籠りたい衝動に駆られたのだ。

 足早に店に戻って来た沖野は裏口からスタッフルームに入り、スタッフ用のトイレに鍵をかけ閉じ籠った。

 便座の蓋の上に腰掛けて、大きく溜息を吐く。


 答えが分かればなんて安易に思っていた沖野は、その明白になった答えを大神に告げるのは少なからず彼を傷つけると感じた。

 ずっと分からない振りをするしかない。

 解けないままなら自分が彼を傷つける事はないわけで、どっかで彼がこの答えに辿り着いた時、傷を癒してあげられるのが自分なら、その方が良い。


「もしもーし、腹でも壊しましたぁ? テンチョー」

「壊してたら帰っても良いか?」

「バカ言わないで下さいよ。これから夕方のラッシュだってのに、腹痛くらいで帰れると思ってんですか?」


 トイレの扉の外から声を掛けて来たのは真尋まひろだった。

 多分裏口の扉の音に気付いたのだろう。

 相変わらずお母さんが板についている。


「本当に、キツいんすか? だ、大丈夫?」

「別に。大丈夫だ。すぐ戻る」

「……後で、薬買って来ます。もう暫くは大丈夫なんで予約の時間まではゆっくりしてて下さい」


 たかが暗号解読。遊びだ。

 しかも別に恋人でも、まして友達と言える様な仲でもない大神が傷つくかもしれないと思っただけで、こんなに揺さ振られるのは何故なのか。

 彼は決して見た目が柔らかい訳でも、繊細そうでもない。

 スタッフがオオカミさんと揶揄って呼ぶくらい、彼の顔は無愛想だ。

 でもこの暗号の答えを知ってから沖野は一つだけ確実に感じた感情がある。

 それは大神に対して濃厚なまでの庇護欲だ。

 見た目が怖い割には純朴で素直で、そんな彼を自分の知らない所で誰かに傷つけられるのは我慢がならないと感じたのだ。


「何だ、これ……俺、大丈夫か?」


 自問自答する程戸惑って、急ぎ足で喫茶店から戻って店のトイレに閉じ籠る。

 そんな子供っぽい行動を取っている理由にさえ、まだ戸惑っていた。

 三十三年生きて来て、こんな風に誰かの事に揺さぶられた事はない。

 あの暗号を渡した部下ってのは、女なんだろうか……。

 まぁ、普通に考えたら女だよな。

 でも、自分の知らない所でこの答えに気付いて大神が傷つくくらいなら自分がその役をかって出て、その場で慰める方が良いんじゃないのか?

 黙ってたって大神はいずれこの小説に辿り着く事になるだろう。

 沖野はそう思い直すが、自分が彼を傷つけると言う事に抵抗が無くなったわけじゃない。

 でもまだ、傷付くと決まったわけじゃない。

 もし、大神自身がこの答えを見て「良かった」と思えるならそれは結果オーライになる筈だ。

 沖野は買って来た文庫本をジーンズのポケットに入れてトイレから出る。

 ついでにスマホを確認すると、知らないアドレスからメールが一件来ていた。


 >大神です。

 電話番号登録したらラインが上がって来たんですけど、そっちでも良いですか?


 律儀なメールに沖野はフッと笑いが零れた。

 メールもラインもそう変わらないのに、そう言う不器用な所と言うか、ジワジワと様子を伺いながら近づいてくる彼を可愛いと思ってしまう。

 まるで懐かない猫に毎日餌をやって餌付けしている様な気分だった。


「大分、重症ですかね? 腹じゃ無くて頭壊れました? スマホ見ながら一人で笑ってるとか……」


 スタッフルームの扉に寄り掛かる様にしてこっちを見ている真尋は、呆れた顔して沖野を見る。

 メールに返事を返すのが勿体なくて、沖野はそのままスマホをポケットに突っ込んだ。


「ハートが熱中症だよ」

「うわっ! 相手が可哀相」

「お前、酷いね」

「発展場の常連でやり捨て専門のあんたに好かれたら、誰でも可哀想ってもんです」

「たまには愛しちゃうかもしんねぇだろ」

「……本気、なんすか?」

「さぁてね。まだ、わかんねぇよ」


 守りたいと言う気持ちが好きに相当するのかどうか、沖野にはそんな葛藤が湧いていた。

 年齢を重ねれば重ねた分だけ恋愛が上手くなる訳じゃない。

 十二年も同じ男と暮らしていた沖野は、それ以降特定の恋人を作らなかった分、恋愛をして来たとは言えなかった。

 その分だけ臆病になる。

 絶対なんて残酷はこの世界には無いらしいから。

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