episodeー4
元々、沖野が
美容師なんて仕事を選んだばっかりに、仮面の様に笑顔を張り付けてなければならない沖野の表情筋はもう、感情とは別の所で動く事を覚え始めていた。
その無愛想な客は、読みがトシアキと言う同じ名前だけでそれはもう思い出したくない事を散々思い出させてくれるありがた迷惑な存在だったのだが、沖野はある日ふと気付く。
このダサくて喋らない大神には変に愛想良くする事もしなくて良い。
下手な自慢話や、興味の無い家族や恋人の話を引き出さなくても雑誌さえ与えておけば黙って施術させてくれる。
無表情で無愛想な彼が、施術間に見せる気持ち良さそうな寝顔だったり、雑誌を見ながら地味に目を輝かせていたりするのを見付けてからは観察する楽しみが増えた。
部屋着同然で来る割にはオーダーは先のシーズンのトレンドを抑えて来る。
ダサい学生や萎れたスーツを着たサラリーマンでもオーダーの細かいクライアントは珍しくないが、大神の場合はただ流行の髪型にしてくれと言うのではなく、ちゃんと自分のビジュアルを加味してそれを活かしてくれと言われている様なオーダーで、沖野はそのギャップに惹かれてずっと喋ってみたい衝動が燻っていた。
「それで? ヒントってどんな?」
客用のインスタントコーヒーを淹れて、大神が座ったソファの前のローテーブルに置いた。
「あ、すいません。ありがとうございます」
「いいえぇ。俺、いつも閉店してからここで珈琲飲むの。お客さん用のだからちょっと良いヤツ。スタッフには内緒でね」
「いただきます」
大神は笑いはしない。でも、彼は礼儀正しい。
「あの暗号を教えてくれた部下が、ヒントは蜘蛛だって言ってました」
「蜘蛛……」
さっき常陸から聞いた小説のタイトルは【蜘蛛と蝶】だった。
その話をしようかどうしようか、迷って沖野は口を噤んだ。
常陸が言っていた様に、小説を読めば答えが出るのなら明日にでも小説を買いに行って、答えを見れば良い。
そうすれば大神より先に答えを知れて、教えてあげられる。
「ねぇ、大神さん」
「はい?」
「賭けをしない?」
「賭け、ですか?」
「うん、この暗号解けなかった方がお願い事を一つ叶えるってのどう?」
「お願い事を一つ……」
「大神さんが先に解いたら俺が大神さんの願い事を一つ叶える」
「でも俺……沖野さんのお願い事叶えてあげられるか分からないですよ?」
「そんな難しいお願い事しないから、大丈夫だよ。せいぜい、大神さんのお仕事何してるか教えて、とかそんな感じ」
「あ、アパレルです」
「答えちゃったし……」
「あ……」
気まずそうに顔を逸らした大神に、沖野はまた密かに萌えた。
卑怯なデキレースだと分かっていても、大神と喋れるだけで沖野は少し浮かれている。
三十三歳、特定の恋人は作らない主義。
でも、大神とのやり取りは沖野にとって癒しだ。
もう性的欲求だけで男を漁る様な年齢でも無い。
心が潤う方が何倍も気持ち良くなれる。
欲求が枯れた訳ではないけれど、心がそれに着いて行かないんじゃセックスはただのスポーツでしかなく、沖野にとって仕事で疲労困憊の上に好きでも無い男を抱くのは過剰労働の一環だ。
大神とはただ喋っているだけで心が跳ねる。
この数年感じていなかったそのくすぐったい様な心の動きが、妙に恋しかった。
「でも納得。それで、そんなお洒落なんだ? 別人みたいでビックリしたけど」
「あぁ……休みの日は電池切れるって言うか、元がこんな性格なんで現場で笑顔貼り付けてると消耗が激しいと言うか……」
「あぁ、分かる分かる。その内、振り返ったら勝手に笑顔出るよね」
「条件反射で笑ってる感じですね。たまに自分が気持ち悪い」
「ぷっ、気持ち悪いって。でも、俺は笑ってる大神さん見てみたいな。そろそろ新しい秋物欲しいし、お店行っても迷惑じゃない?」
「あ、え? 来てくれるんですか?」
「そんな大して売上に貢献出来るかは分からないけど、大神さんにコーディネートして貰おうかな。自分で選んでばかりだとパターン決まって来ちゃうし」
「めっちゃ嬉しいです。沖野さん身長高いし、手足も長いから、一度フィッティングして欲しかったんです」
「そんな褒めても何も出ないよ?」
めっちゃ嬉しい。
彼の口癖の様な科白だが、その割に笑わないのだからそれも彼らしい。
「お店、どの辺?」
「駅ビルの三階です。休みって月曜日ですか?」
「うん」
「じゃあ、次の月曜でも良いですか? 俺、結構出張も多くてその次の月曜は店に居ないんですよ」
「分かった。どうせ予定もないし、善は急げって言うしね」
珈琲を飲んでただ喋る。
ここがもしゲイバーで、相手がその気にならば持って帰るかも知れない。
気分が乗らなければ早々に席を立って帰るところだ。
でも今は帰したくないし、帰りたくない。
沖野は大神を抱きたいと思うかと聞かれたら抱きたいと答えるかもしれないが、抱けなくても多分興味を削がれる事はない様な気がしていた。
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