episodeー2

「ちょっと! そこのテンチョッ! 働いて下さいよ!!」

「あーい」


 沖野はやる気のない返事を返して暗号を書いた紙をポケットに入れてスタッフルームから出る。

 去年チーフに昇格させた佐渡真尋さわたりまひろは沖野の姿が見えないとすぐ探しに来る習性があり、店長である自分よりスタッフに厳しい仕事の鬼だ。


「ちょっと目離すとすぐサボるんだから……」

「真尋、お前愛しの樹尚しげなおさんと上手く行ってるからってちょっと張り切り過ぎなんだよ。ちょい前まで嫌われただのなんだの言ってメソメソしてた癖によ」

「それはどっかのテンチョがガンガン押せとか言うから、ちょっと攻め方間違ったんでしょうが。俺のせいじゃないっす」

「俺は押し倒せとは一言も言ってねぇよ、この単細胞が」


 佐渡は沖野が独立して店を持った時からいる古株で、やる気、本気、根気だけで生きている様なアホだが、プロ意識の高い良いスタイリストに育った。

 元々楽観的なのも手伝って客当たりも良いし、見た目も悪くない。

 今となっては沖野の右腕、フロアマネージャーとしても不可欠な存在だ。


「俺だっていつかこの店出て独立するんですから、しっかりして下さいよ!」

「はいはい。出て行くまでにお前の代わり育てろよ。じゃなきゃ裏切りと見なす」

「裏切りって……自分で育てたらいいでしょうがっ。あんたの店なんだから!」

「教育ってのはやらんと覚えんもんですからね。店長の暖かい愛ですよ、真尋君。手取り足取り俺から教わった事を、後輩に教えてあげないと」

「ちょ、妙な言い方しないで下さいよ! 結局は自分が楽したいだけでしょ。ほら、もうすぐ次のお客来る時間ですよ」

「はーい。お母さん」

「誰がお母さんじゃ! このサボり魔!」


 そんな軽口を叩いている間に、次に予約が入っていた瀬良常陸せらひたちが店のガラス戸を押し開けて怠そうに入って来る。

 この瀬良と言う男は沖野の弟の同級生で、昔から知っていた。

 だが、何の因果かゲイバーで鉢合わせした事によってお互いがゲイであると言う事を知る羽目になった男だ。


「おう、時間ピッタリだな、常陸」

「あぁ、うん」

「相変わらず覇気がないねぇ」

「通常運転だよ」

「見りゃ分かるよ。こっち座って」


 常陸は、最近十年越しの本命と復縁した。

 口には出さないが、周りの空気が柔らかくなっているのは分かる。

 元々寡黙で大人しい割に、見る奴が見たら色気が駄々漏れてる常陸の事を沖野は密かに気を揉んでいた。

 それは友達としてと言うよりは、目の離せない弟の様な感じでもあり、貞操観念が硬そうな見た目を裏切る奔放な所は常に沖野の心配の種でもあった。


「最近どうよ? 仲良くやってんの?」

「……まぁ、そこそこ」

「何だよ、ちょっとくらいなら惚気も聞いてやんのに」

「間に合ってますよ。それより博愛ひろい、シゲの事ありがとうね」

「あぁ……真尋も舞い上がっちゃって、秋だってのに桜でも咲きそうな勢いだよ」

「まぁ、良い事じゃない。博愛はどうなの? 誰か……」

「いる様に見えるか? 俺は特定の相手は作らんっていつも言ってるだろ」

「いい歳なのにそれで良いの?」

「余計なお世話だ」


 もう、あんな想いするくらいなら一人で気ままに生きていた方が良い。

 沖野は三年前からそう決めて、特定の恋人を作る事はしなかった。


 二十八の時に独立した沖野には高校の時から付き合っていた同級生がいた。

 相手が大学に進学し一人暮らしを始めるタイミングで、美容専門学校へと進学した沖野は彼と同棲を始めたが、親友にセックスがくっついた様な付き合いだった。

 高校時代にじゃれ合いの延長からき合いして、キスをして、一緒に居る時間が長くなり、同棲を始めてからはどっちがネコをやるかで散々揉めて、結局沖野よりほんの僅か大人だった彼が折れて事なきを得、好きだとか言葉にする事は無かったが沖野は、専門学校を卒業する頃には彼が居なければ生きて行けないと本気で思っていた。

 

 十二年、一緒に暮らした彼が唐突に姿を消して三年になる。


利秋としあき君、どこ行っちゃったんだろうね……」

「その名前、出すなっつってんだろ。俺はもう、あいつの事はどうとも思ってねぇ」


 絹糸の様な細い常陸の髪を掬い上げて、シザーを入れる手が震えた気がした。

 上智利秋じょうちとしあき

 頭も良く女みたいに綺麗な顔で、喧嘩がめっぽう強いかつての沖野の恋人の名だ。

 一緒に暮らし始めて十年目で独立した沖野は、店を構える為に抱えた借金を返す為に仕事に奔走していた。

 店が軌道にさえ乗れば、利秋と一緒に暮らしていても社会的な居場所を保てると思っていた。何もかも利秋中心に沖野の世界が廻っていたある日、不幸な事故が利秋に降りかかる。


 一命は取り留めたが、車が大破する程の事故に巻き込まれた利秋の足は神経を痛めたが為に、リハビリを余儀なくされた。

 動く様になっても僅かに引き摺る様な歩き方は元に戻る事はなく、自宅に戻って来てからは何かと沖野への遠慮がちな態度が目立つ様になった。


「俺は頭が良いから、右足一本不具合が出た所で何の問題も無い」


 そんな科白を吐く割に、部屋に籠りがちになった。

 卑屈になる様な殊勝なタイプではないと言うのに、いつもはやらなかった家事をやってみたり、利秋からベッドに誘う事もなくなり、やっと店が軌道に乗り出した三年目、謀った様に忽然と利秋は姿を消したのだ。


 いつもの様に疲れ果てた身体を引き摺り鍵を開けて薄暗い玄関に足を踏み入れる。

 いつも帰るのは十二時を過ぎていて、利秋は自室で寝ている筈だった。

 ドアポストから投げ込まれた鍵を踏んだ、あの耳障りな金属とセメントの擦れる音は今も沖野の鼓膜に傷をつけたままだ。

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