桜の誘い(2)
数日後。
母親に頼まれて少し遠いスーパーにひとっ走り行く羽目になった。
醤油が切れいたことをすっかり忘れていたので買ってきてほしいという。
近所でいいだろと言うと、「あっちの方が安いから」という理由で一蹴された。でも、あっちのスーパーに行くには桜並木を通らなければいけない。
かなり迂回すれば行けなくはないが、「もう作り始めちゃってるから早くね」と笑顔で言われてしまった。
これは「遅くなったらころす」の意味を含んでいる。
まあ、自転車を飛ばして行けば大丈夫だろうと勝手に納得して、俺は家を出た。
行きは特に問題なかった。
無事に頼まれたものを買い、帰途についた。
――伏見はああ言っていたけど、そんなに重要視するような事でもなかったのかも。
「あまり気にするのもよくないよな」と自分に言い聞かせながら自転車を走らせた。
そうして桜並木にさしかかった時だ。街灯の冷たい明かりの中、ざわりと桜が揺れた。
俺は立ち止まり、おもむろに一本の桜の根方に目をやった。
黒髪を腰くらいまで垂らした女の子が、木の後ろから顔だけ出してこちらを見ている。
俺はすぐにあの時の子だと思った。
時刻は午後七時を過ぎている。辺りはすでに真っ暗だ。子供がひとりで遊んでいていい時間じゃない。
「そんなとこで何してんだ?」
だが女の子は答えない。その代わり口元に笑みを浮かべ、大きな目で俺を見据えて「こっち」と手招きをする。
俺は自転車を停めて近づいた。すると、女の子はすぐに木の陰に隠れてしまった。かと思ったら、今度は上から声がする。
見上げると樹幹と枝の間から顔を出してこちらをじっと見ている。
俺はだんだん腹が立ってきた。
「おい、ちょっとそこで待っとけ!」
子供相手に大人げない気もしたが、こういう時こそちゃんと叱らないと駄目だ、 なんて意気込んで手前にある台に上り女の子の正面に立つ。
女の子の顔が目の前にくる。が、その表情を見て俺は凍りついた。
その瞬間、俺の身体はガクンと大きく揺れ、首に全体重がかかる。
「ぐっ!ぅ……ッ」
――息が出来ない。
単に「圧迫」という言葉だけでは言い表せない。今にも血管どころか頭が破裂しそうな感覚。
足をばたつかせるが、足下にあったはずの台がいつの間にか無くなっていた。
頭が真っ白になり、死の恐怖だけが身体全部を覆い尽くした。
このままだと確実に死ぬ。
そう思い、丁度意識が切れそうになった時、俺の身体は下からぐんっと持ちあげられ、そのまま転倒した。
どさりと大きな音を立てて地面に落ちる。
「……ヒッう、 げほっ、ゲホゲホッ!!」
俺は喉を押さえてうずくまり、大げさに咳き込んだ。
必死に酸素を求めて息を吸う。ここで初めて助かったと思った。
だんだん落ち着いてきて、やっと現状を把握する余裕が出てきた。
――なんだか地面が柔らかくて温かい……?
起きあがって目を開ける。すると、そこには見知った顔があった。
「……伏見?」
何故か俺は伏見を下敷きにして倒れていた。
俺は慌てて彼の上から退く。
「わ、悪い! 大丈夫か?」
伏見はむくりと上半身だけ起こすと、後頭部を摩りながら「こんなところで何してるの」と言った。
「お、お前こそなんでここにいんだよ」
逆に俺が聞くと、伏見は立ち上がって服についた砂や花弁を払いながら呟く。
「塾の帰りだよ。たまたま僕が通ったからよかったけど、運が悪かったら死んでたね」
口調はいつもと変わらないが、なんとなく感情が見て取れる。狐面をつけていないからだろうか。
「なんだよ、怒ってんの?」
俺は少したじろいだ。
伏見は横目でちらりと俺を見ると「少し」と言って、そのまま桜の木を見上げた。
俺も釣られて顔を上げる。
そこには静かに花弁を散らす桜が佇んでいるだけだった。
女の子も、縄も、台もない。
すべて幻覚だったのだろうかと、俺はおもむろに手を首にやる。
今も鮮明に思い出す死への恐怖。残っている縄の感触。
幻覚じゃない。あれは、実際に俺が体験したことだ。
さっきの出来事を思い出し、俺は改めて「助かって良かった」と心の底から安堵し、同時にぶるりと身体を震わせた。
「あれって結局なんだったんだろ」
「あれって?」
「あの女の子だよ。お前も見たんだろ?」
伏見は転がっている狐面を拾い上げると、砂を払いながら答える。
「見たけど、何なのかは分からないよ。身代わりか、仲間が欲しくて現れたのかもしれないけど。でも、神田くんを連れていこうとしてたのだけは分ったから」
「だからあの時止めたのに」と言って、伏見は浅く溜息を吐いた。
俺は「ぐっ」と押し黙る。二の句も継げない。
というか、そもそもなんで忠告を受けていたはずなのに、俺は自転車を停めてしまったんだろう。
伏見曰く、俺は「霊に鈍感」なのに「呼び込みやすい」らしいので、今思えばやはり「呼ばれて」いたのだろうか。
”身代わりか、仲間を”
まっ正面から女の子の顔を見た時、その子はとても嬉しそうだった。目を見開き、口の端をめいっぱい吊り上げて笑っていた。
あんなにも笑顔が恐ろしく感じたことは今までなかった。
「夢に出そうだな」なんて思っていると、後ろから俺を呼ぶ伏見の声がした。
振り向くと、伏見は転げている自分の自転車を起こしてまたがるところだった。
さすがに自転車に乗るときは狐面は外しているらしく、首に掛けている。
こんな時間に狐面をつけた奴が徘徊してたら、それこそ不審者扱いだ、なんてのんきに考えていたら、何かに気づいた伏見が口を開いた。
「神田くんは、おつかいの帰り?」
見ると、伏見の視線は俺の自転車の前かごに注がれている。
そこではっとした。顔からみるみる血の気が引いていく。
恐る恐る腕時計を見やり、ぎょっとする。家を出てかれこれ一時間経過していた。
俺は絶叫した。
「こ、殺される……!」
その後、伏見に付き添ってもらって帰宅し、適当に良い感じの言い訳をしてなんとか許してもらった。
何故かうちの母親は伏見のことをえらく気に入ったようで、「今日はもう晩いからあれだけど、今度遊びに来た時は是非晩ご飯食べていってね~」なんて言っていた。
伏見が帰った後も特にお咎めはなかったのだが、その日の晩ごはんは少し薄口だった。
―了―
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