桜の誘い


 春休みに入ってすぐのことだ。


 その日、俺は友人と遊ぶ約束をしていたので、待ち合わせ場所である駅前に向かっていた。

 途中、通学路でもある桜の並木道まで来ると、ふと自転車を止めて空を仰いだ。

 見上げた先には、たわわに咲いた桜と、雲ひとつない澄んだ青空が広がっている。

 今年は暖かい日が続いたためか、すでに桜は入学式を待たずしてゆっくりと花を散らしていた。

 ゆるやかな風に乗って花弁がくるくると舞い降り、道路をうす桃色に染めている。

 穏やかな春の昼下がり。絶好の花見日和だ。

 待ち合わせの時間までけっこう余裕があったので、俺はその光景をしばらくぼんやりと眺めていた。

 すると、一本の桜の木が目に留まった。枝のところで何か黒いものが動いている。

 よく目を凝らしてみると、それは子供だった。小学校低学年くらいの女の子だ。

 樹幹と枝の間から顔を出したり、引っ込んだりを繰り返している。


――すごいところで遊んでるなぁ。


 枝から地面まではそんなに高さはないが、足を滑らせたり枝が折れたりしたらとても危ない。落ちて怪我でもしたら大変だ。

 俺は自転車を停めると、その場で女の子に声をかけた。


 「おーい、そんなところで遊んでたら危ねーぞ」


 女の子は俺に気づくと、フフフ、と笑ってすぐに木の陰に隠れてしまった。

  俺は、もしかして降りられなくなったんじゃないかと思い、女の子のところへ行こうと一歩足を踏み出した。


 その時だ。


 「なにしてるの」

 「うひゃ!?」


 突然背後から話しかけられ、口から心臓が飛び出しそうになった。

 振り返ると、そこには狐面をつけた自分と同じくらいの背格好の人物が立っていた。一瞬たじろいだが、俺はそいつが誰なのかすぐにわかった。


 「…び、っくりしたぁあ。なんだ伏見かよ。気配を消すな、気配を!」


 そいつは同級生の伏見ふしみ万葉かずはだった。

 去年の四月―高校に入ってから知り合った友人で、とある事情により、ほぼ毎日のように狐面をかぶっている。

 俺が捲し立てると、伏見は不思議そうに小首を傾げ、抑揚のない声で一言「ごめん」といった。


 「それで、何してたの?」

 「ああ。いや、子供が木の上で遊んでたからさ。あぶねぇから注意しようと思って」


 そう言って俺は木の裏や周辺を探してみたが、女の子どころか人ひとり見当たらない。

 いつの間にか降りて帰ってしまったのだろうか。


 「いないみたいだね」


 伏見は狐面を後頭部にずらして桜の木を見上げている。


 「んーまあ、無事に降りれたんならいいけどよ」


 すると、伏見はいつもの淡々とした口調で「だったらいいけど」といって狐面を かぶり直すと、踵を返してそのまま学校方面に歩き出す。

 俺は慌てて自転車のスタンドを蹴り上げると伏見の後を追った。


 「つーか、なんでこっちいんの? おまえんち、逆方向じゃん」


 聞くと、伏見は「図書館の帰りだよ」と言って肩にかけていたトートバックに顔を向けた。

 俺は「ふぅん」と鼻で相槌をうつ。

 やっぱり図書館に行くときも狐面はつけたままなんだなと妙に感心して伏見の顔―狐面をまじまじと見つめた。


 まあ、どこであろうとのだから仕方ないんだろうけど。


 俺の視線に気づいたのか、伏見は「なに?」と前を向いたまま言った。


 「別に。てかずっとお面着けてて暑くねぇの?」


 その何気ない質問に、伏見は「別に」と返すと、


 「そういう神田くんはどこに行くつもりだったの?」


 そう聞かれて、俺は「あっ」と声をあげた。


 「やべ、榎本と約束してたの忘れてた! じゃあな伏見。また連絡するわ。春休み中に一回くらい遊ぼーぜ」


 俺は自転車と共に身を翻して伏見に背を向けた。そうしてそのまま自転車をこぎ出そうとしたら、伏見は「待って」といって俺の腕を少し強く掴んで制止した。

 俺は慌てて地面に足を着く。


 「な、なんだよ」

 「神田くんはここ、しばらく通らない方がいいよ」

 「は? なんで?」


 突然の忠告に俺は訝しげな声を出すが、伏見は感情の読めない声で「なんででも」と言って結局理由は教えてくれなかった。

 ともあれ、かれこれ一年の付き合いだ。彼がこう言うのだから何かあるんだろうと、伏見の言うことを聞いて帰りは迂回して帰路についた。


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