アンドロイディング ワイフ
妻が病にかかった。謎のウイルスが原因らしく、ウイルスに蝕まれた部分は次第に腐り落ちていくというものらしい。治療法はまだ確立されていなく、当然薬の方も有効なものが存在しない。幸い一企業の社長として、財は十分にあるため、いくらかかろうとも、どんな手を使ってでも長年連れ添った最愛の妻を救って欲しいと医者に懇願した。しかし、いくら大枚を叩いても、前例のない症状に治療を依頼した医者全てに断られてしまう。絶望しかけていた私の前に、一人の研究者が声を掛けてきた。
彼は生体機械学という肉体と機械の融合をテーマに、元の部位の代わりとして用いる人工人体の製作・研究をしていた。一般的にも馴染みのある義手や義足は勿論、体の内外問わずあらゆる人体パーツを取り揃えていた。妻が病に冒されているのは右肺。穴が開く前に手術で人工肺に替える必要があると、研究者は緊急性を唱えた。手術のリスクについて、彼は医療のスペシャリストも組織に在籍しているとして、100%の成功を保証してくれた。私も妻も内心不安であったが、他に方法はなく、彼の言葉に勇気付けられたこともあり、手術を受けることにした。
結果として、手術は成功した。ウイルスに蝕まれ腐り始めていた肺を機械でできた人工肺と取り替えたのだ。研究者は良い研究データの一つとなったからと、お礼という名目で定期的な人工肺のメンテナンスを無償でやってくれると言ってくれた。お礼がしたいのはこちらも同じだったため、私は彼の研究の手助けをするために、資金援助を申し出た。妻は私と研究者の手を握り、笑顔で「ありがとう!」と喜んでくれた。
病は転移する。有名なところではガンに転移の懸念があるとはよく聞くが、このウイルスもまた、その悪知恵を持ち合わせていた。何も躓くものもない幅の広い階段で妻が転倒した。体に何箇所かの打撲のおまけを貰い、気を失っているところを家政婦が見つけて救急車を呼んだのだ。仕事先から慌てて戻ってきた私は、すぐに妻が搬送された病院に向かった。医者に話を聞くと、足の筋肉と骨の一部が謎の腐敗を起こしていると首を傾げていた。私は切り捨てたはずのあいつが往生際悪く生き残っていたのだと悟った。医者に前回の肺の病のことを話し、すぐに研究者に連絡を入れた。医療班を伴ってやってきた彼は、病院側と患者の引渡し手続きを行い、研究施設に妻を搬送。意識を戻した妻の同意も得て、すぐに足の機械化が行なわれた。今回の手術も無事成功し、機械とは思えない人肌のコーティングに包まれた義足に妻も満足しているようだった。打撲の治療もしてもらい、ひと月ほどで妻は元気を取り戻した。
神がこの世に存在するのならば、何故妻ばかりにこうも酷い仕打ちをするのか、問い詰めてやりたい気分だ。あれから、私たちを嘲笑うかのように悪魔の空間移動は繰り返し続いた。手、腕、指、脚、胃、肝臓、腎臓、小腸、大腸、心臓、喉、背中、顔、耳、目、口…。そしてとうとう、唯一生身であった脳までもウイルスに蝕まれてしまった。脳の喪失、それは即ち妻の精神的な死を意味する。妻自身は度重なる代替手術で感覚が麻痺してしまったように、今回の手術も快諾して受ける気満々であるが、今回ばかりは私も頷けずにいた。私の懸念を払拭しようと研究者は脳代替の安心・安全性を話してくれた。彼の研究では、既に人の記憶や意識をデータに変換してコンピューターに保存できる手法を確立しているという。つまり、彼女の脳に含まれる「彼女の本体」をデータ化して、人工脳にそのデータを移し替えることで彼女が彼女としてこれからも生きられるというわけだ。それを聞いても少しばかり心の靄が残っていたが、妻の「大丈夫!」の一言にそれも晴れてしまった。
手術は無事に成功した。定期的なメンテナンスという時間を縛る枷ができてしまったが、妻を蝕んだ小さな化け物に二度と会わずに済むのだから安すぎる代償だ。妻は私と研究者の手を握り、しゃがれた声で「ありがとう。」と喜びの表情を象った。研究者は素直に彼女の感謝を受け取っていたが、私は再び心に雲がかかった。
彼女の言動、それは本来の彼女自身が行なったものなのか、はたまた、彼女のデータを元に機械に組み込まれているであろうAIが再現したものなのか、私にはもう妻の、彼女の姿をした機械人形の心は分からなかった。
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