How much your help ?
休日の昼時、これから見ようと思っている映画の上映時間までの暇潰しも兼ねて昼食を取ろうと付近で見つけたラーメン屋に入った。暖簾を潜り、入り口のドアを開くと、時間も時間だったので店内に設けられた席はほとんど埋まっていた。テキトーに空いている席を探して歩き、カウンター席の客同士の間にできたスペースを確保することができた。カウンターの店主はこちらを気にせず、イスに座って新聞を読み耽っているがいつものことだ。テーブルに置かれた割り箸の束から一組を抜き取り、手元に置く。財布から硬貨を出して、一つの席に一つずつ置かれているコイン投入口のついた丸いスイッチに一枚投入した。するとスイッチに赤い光が灯り、その目覚めを知らせる。その状態でボタンを押すと、先程まで客席にまるで興味を示していなかった店主が新聞を畳んで、エプロンのしわを正し、愛想のよい笑顔を作ってこちらに寄ってきた。
「いらっしゃいませぇ!ご注文は何でしょう?」
「じゃあ、ネギラーメンと餃子を一皿。」
「ネギラーメンと餃子ですね!かしこまりましたぁ!」
「あっ、それから…」
早速調理を始めようとしていた店主を呼び止め、硬貨を追加投入してスイッチを押す。すると店主は素に戻りかけていた顔を引き締め直して再び声色を戻した。
「はいはい!何でございましょう?」
「お水とお絞り、貰えますか?」
「かしこまりましたぁ!お水とお絞りぃ!!カウンターテーブルのお客様ぁ!!」
店主が大声を上げると、同じようにテーブルの向こう側でイスに座ってスマホをいじっていたエプロン姿の少女が立ち上がり、水道で綺麗に手を洗って、設けられたセルフコーナーに向かい、コップに水を汲んでビニール袋に入ったお絞りをトレイに載せて運んできた。
「お待たせしました!お水とお絞りです!」
ニッコリと可愛らしい笑顔を見せて水とお絞りを丁寧に置き、少女はお辞儀をしてから再び向こう側に戻った。自分の席に着くと、少女はイスに置いたスマホを手に取り、にらめっこを再開した。整った営業用の顔を躊躇いもなく崩し、そこには店員としてあるべき姿はなくなっていた。否、今更ながら「なくなっていた」はおかしい。既にこの世界から無償の善意は消えてしまっていた。
いつからだろうか、何が原因でそうなってしまったのか。考えても思いつくことはないが、確かに世界は狂い始めていた。最初の頃はただ単に人件費削減のために一部をセルフサービス化した、程度のことだったはずだ。そのうち「セルフコーナーを設けた分接客はもっと丁寧にやれ」だ「応対や態度が悪すぎる」だ、接客する側の些細な不手際を見つけて、声を荒げて目を光らせ、時には理不尽なクレームをつけるモンスターカスタマーが増え、SNSなどの力でその不手際を誇張、拡散させ、炎上する案件が多発。これに頭を抱えたサービス業界が恐らく始まりだろう。丁寧な接客、応対にも料金を設定するようになった。これによって入店時や店員とすれ違った際の彼らの明るい掛け声は消え、料理の配膳やレジといった接触の場面では、素の彼らに直面することになった。初期の頃はこの有償化に批判の声が殺到したが、それでも業界は元に戻そうとはせず、そのうちこの異常が日常へと溶け込み、我々の感覚はすっかり麻痺してしまった。やがてこの狂った感覚は人々を蝕み始めた。重い荷物を持つ老人に声を掛け、荷物を運ぶのを手伝うのに100メートル500円。朝、ゴミを出しに来てばったり出くわしたご近所さんに元気に挨拶するのに一声300円。道に迷った人に声を掛け、道案内をするのに1メートル50円。善意から来る行動に料金を設定する人間が現れたのだった。一人が美味いものを食べていると周りもそれを食べたくなるのが人の性。1年も経たないうちに、あちらこちらで同じようなことを行なうものが増えた。最終的に、善意の良心に止めを刺したのは、この文字通りの慈善事業を認める法律の成立であった。小さな親切業という職種が新たに追加され、それを生業に或いは副業として行なうものが増えた。結果として、この国から…感染が拡大した世界中から見返りのいらない真心は絶滅してしまった。ちょっと困って人の手を借りるにも優しさや愛想を求めるのにもお金が必要なのだ。
「ん…。」
気付くと、不貞腐れたようにムスッとした店主がぶっきらぼうにラーメンと餃子を寄越してきた。スイッチにお金を投入していれば、御仏の顔を再び拝めたのだが、その機を逃してしまったようだ。ラーメンのどんぶりを手元に寄せて箸を割り、麺をひと啜りする。味はいいはずだが、出す人間の応対一つでその質がなんだか落ちてしまっているように感じずにはいられなかった。自分で言うのもなんだが、無償の良心を持ち合わせた絶滅危惧種はまだここに残っているのだ。
しばらく味気なさのあるラーメンを啜っていると、隣の男性客が声を掛けてきた。
「あの、醤油取って貰えますか?」
「あっ、いいっすよ。」
男性の席の醤油瓶はすっかりカラッポだった。店主も他の店員たちも別の客に応対していてそれどころではなさそうだ。餃子皿の隣に置いていた醤油瓶を男性の方に移動させる。男性は財布を取り出し、手持ちを確認していた。
「いくらですか?」
尋ねる男性の顔前に手を広げ、俺は不条理な世界の腐敗観にささやかな反抗を試みた。
「あなたの笑顔一つで。」
男性は一度キョトンとしてから、財布を懐にしまい、精一杯の笑顔を払ってくれた。
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