万物

烏兎都

万物

世界の上半分は海。いま、この瞬間の話だ。水族館のトンネル水槽の真ん中にいる。分厚いアクリルの板越しに海がある。魚たちが、上へと向かっていく。空へと昇って行くように見えたが、より深いところへと潜っているのだ。上が深い。今は上に海がある。

それなら、世界の下半分が空になる。ここから先は言葉遊びだ。水槽に向けていた目をふっと閉じてみる。魚も海も視界から消えたが、青と黒の印象が、まぶたの裏に焼きついている。まだ、海の下に立っている感覚がある。魚のひれや、エイの大きな翼が、水をかく音が聞こえるようだ……そして、床も消えて、世界の下半分は空になる。

陸が消える。上に海があって、下に空がある。わたしは無間の空へと落ちていく。形のない水塊にしがみついて、だが海はわたしの腕をすり抜けて、わたしは永遠の落下を続ける。重力があるから、いつだって下にあるほうが近しい。上にあるものには届かない。

脈絡がなくなってきた。涙も溢れてきたので、目を開けた。ばかみたいだ。水槽のガラスに、不細工な顔が映っている。もとから残念な顔が無惨に歪められて、さすがにかわいそうだ、自分のことながら。顔をうつむかせて、帽子を直したり、髪を整えるふりをして、顔を隠す。

これははずかしい話だ。わたしは初めてできた彼氏にふられたのでこんなにセンチメンタルになっているのだ。何度も言うが、はずかしい。一生懸命おしゃれしてきた。わたしは今までかわいかったことは一度もないが、人生の中では、今日がたぶん、いちばんかわいいと思う。これ以上は何も言えない、何もかもがはずかしい。

エイの裏側にある顔が目の前にきた。かわいいけど、それどころじゃない。でも、エイの顔が大好きな女の子のふりをして、周りをごまかす。

エイの動きを追いながら、ずっと彼のことを考えている。大学に入って初めて彼氏ができた。高校の時は部活に打ち込んでいたから、彼氏のことなんて考えていなかった。わたしは運動部員で、がさつで、かわいくもなかったから、ほしがったところでできなかっただろう。

部活を引退して、受験勉強が終わって、地元を離れて、突然、新たな世界に投げ出された。それまで、わたしの関心は四方に散らばっていて、どこを見ても何かすべきこと、考えるべきことがあって、忙しかった。学校の友達がそれぞれしている活動のすべてに興味があったし、自分の部活動に興味があったし、未来に興味があったし、映画や、ドラマや、まんがや、小説に興味があった。最後の大会と受験勉強でそれらがいったんニュートラルになって、そして、もう戻ってこないまま、わたしは大学生になった。

そして、彼に出会った。気がついたら、世界のすべてが彼になってしまっていた。万物はあまねく天地に散りばめられていたのに、彼だけになってしまった。言葉を交わして、笑顔を交わして、それから今まで自分に訪れると思っていなかった幸せな生活が訪れたのに、たったさっき、それが壊れた。わたしは海底に置き去りにされた。

 魚群が銀の鱗をきらめかせて通り過ぎる。彼は彼なりにちゃんと考えて、心の準備をして、わたしに別れ話をしてきたのだ。それはよくわかっている。伝わっていた。海底の一番綺麗な場所でお別れをすることにしたのも、彼なりの配慮なのだ。なんとなく、わかる。周りに人もいるし、落ち着いた場所だ。それに幻想的で、今までのことがすべて夢だったかのように錯覚できる。

 でも、その選択の結果がこれだ。わたしの世界は逆転する。わたしは終わりのない空に向かって、永遠の落下をする。大げさすぎると、笑うなら笑ってほしい。初恋が人生のすべてみたいに話すのは、まだわたしが子供だからなのかもしれない。それでも、世界のすべては海の泡になって消えてしまった。わたしの現実はそういう風になっている。こらえていた涙がついに頬を伝って落ちた。魚たちは終わりのない回遊を続けている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

万物 烏兎都 @utmyk

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ