第155話囚われの姫2

「そ…、それでは、わっちはお風呂に入ってきんすね」


「風呂なんかいいッ、いいッ!そんな事より早くこっちきて、イチャラブしよッ♡」


 サピエンスの臭いから1秒でも、1cmでも遠ざかりたかった三谷の思惑は、たった一言で打ち破られてしまった。本来なら、客を相手にする前に身体をキレイにするのが鉄則だが、客がそれを断るのであれば、その意向に従うしかない。三谷は言われた通りに羽根田に寄り添う様に、彼の隣を陣取った。


「しおりちゃんもヤル?スパイス」


「申し訳ございんせん…。わっちはスパイスがどうも苦手で…」


「そっかそっか。じゃあ仕方ないねッ」


 そう言いながら、羽根田は三谷の襟元に手を突っ込み、乳房を弄った。それと同時に、首回りの匂いを執拗に嗅ぎながら、舌を這わせていた。彼の唾液にはサピエンスの臭いが染み着いていて、舐められた跡からは不快な悪臭が漂ってくる。三谷はどうしようもない嫌悪感を感じながら、それでも一人前の遊女として、彼の相手をした。

 次第に気分が乗って来た羽根田は、三谷の着物を豪快に肌蹴させ、彼女の上半身を露わにした。俺ですら見た事のない三谷の身体は、その身長にそぐわない大き目の胸がたわわに実っていた。その豊満な胸に齧り付く勢いで顔を埋めた羽根田は、興奮が一気に高まった。


「もう全部脱いじゃおっか」


 やなぎ家の遊女は、着物の下に何も身に付けてはいけない。帯を解き、着物と襦袢を剥ぎ取られた三谷は、一糸纏わぬ姿にさせられた。客前で裸になるのは、遊女としては仕事の一環だ。その事について、今更何も思わない彼女は、引き続きこの状況をどう切り抜けるかを、必死に考えていた。

 羽根田が全身リップに現を抜かしている間、打開策を打ち立てている三谷には、気掛かりな事が二つあり、それが結論への導線の妨げになっていた。一つは、おかみさんに釘を刺された事。もう一つは、俺たちの存在が明るみになる可能性だ。

 本当なら、三谷は今すぐこの場から逃げ出したかった。そして、いち早く羽根田の事を俺たちに知らせたかった。しかし、そんな事をすれば、おかみさんや俺たちに迷惑がかかる。どうすればいいのか、答えを捜し倦ねいていた三谷に、羽根田の唇が襲いかかった。


「んんッ…。ん…ッ」


 羽根田の性癖なのか、強引に重ね合わせた唇からは、大量の唾が送られてきた。直前までサピエンスをバカスカ吸っていた彼の唾液には、スパイスの麻薬成分が多く含有されていて、それを吐き出す様な無礼ができない三谷は、甘んじてその唾を飲み込むしかなかった。しかし、それは良くない結果を生む事になった。

 スパイスの成分は、煙を吸うより経口摂取の方が遥かに効果を発揮する。羽根田の唾を飲まされた瞬間から、三谷は正常な判断が困難になった。

 どの道、時間が来れば羽根田とはおさらばできるし、俺たちへの報告はそれからでも十分間に合う。その結論に至った三谷は、このまま羽根田の相手を続ける事にした。だが、それは間違った選択だ。

 彼女が取るべき行動は、おかみさんからの言い付けを破ってでも、俺たちに多大な迷惑をかけてでも、今すぐこの場から逃げ出し、『'98』に駆け込む事だった。しかし、スパイスで頭がパーになっていなかったとしても、彼女は正解に辿り着かなかっただろう。そう、三谷はこういう局面で、必ずと言っていいほど選択を誤る。それは彼女がバカだからではない。自己犠牲の上に成り立った、他人への優しさから来るものだったのだ。でも、人様に迷惑をかけないようにと取った行動が、結果的に人様に迷惑かけるんだから、もうこれ分かんねーな。


「しおりちゃん、顔トロトロになってきたねぇッ。こうすればスパイスも楽しめるでしょ??いっぱいツバ飲ませてあげるからね♡」


「あ……、アハ……ッ」


 既に三谷は、とてもシラフとは言えない状態になっていた。判断力も自制心も著しく低下し、ほぼ羽根田のマリオネットに成りつつあった彼女は、今なにがどうなっているのかも分からなくなっていた。それこそが、羽根田の思惑だったのだ。


「ねぇねぇ、しおりちゃん。さっきまで上の空だったけど、なに考えてたの?」


「え~っと…、え~っと…。どうやってここから逃げ出すか考えておりんした…」


「なんでそんな事考えてたの??」


「それは……――――」


 結局三谷は、羽根田からの質問に全て答えてしまった。そもそも羽根田が三谷に近づいたのは、コレが目的だった。そう、俺たちは既に羽根田からマークされていたのだ。

 俺たちは、都の情報網を舐めていた。マチコを取り込めば、情報戦で勝てると高を括っていた。しかし、それは甘い考えだった。思えば、マチコの様な情報屋が存在できるのは、監視の目や耳が都中に張り巡らされているからだ。それらがマチコだけに情報を渡すなんてあり得るワケがない。三谷があんずを連れて『'98』に入る所も、ひーとんたちがもくもく亭の小間使いを拉致ったのも、桃子が薬屋に買い物に行った事も、全ては筒抜けだった。

 しかも、羽根田が標的に三谷を選んだ事までもが、俺の意表を突いていた。彼女は、俺たちのオペレーションには加担していない。あくまでも、あんずを都に入れる為の協力者だ。だから三谷に危険が及ぶ事はない、と思い込んでいたのだ。


「しおりちゃんは俺に仇なすワルい子なんだねぇ。これはおしおきが必要かな?ちょっと場所変えよっか」


「はい…。おっしゃるままに……」


 羽根田は、三谷に着物一枚だけを羽織らせ、宿の裏口から彼女を連れ出した。本来、遊女と客が共に宿を出る事は御法度だが、この宿自体、羽根田の息がかかっていたのだ。


 異変に気づいたのは、三谷を迎えにきた車の車夫だった。時間になっても一向に現れない彼女を不審に思い、宿に尋ねた所、『既に宿を出た』との答えが返ってきた。それはおかしい。三谷ほどの売れっ子は、車でやなぎ家まで帰る決まりになっている。個人の都合で車を断る事もできなくはないが、その場合、事前に連絡をしておくか、車夫に直接伝えなければならない。無断で歩いて帰るなど、あってはならないのだ。

 ただならぬ事態だと直感した車夫は、空の車を引きながら全速力でやなぎ家を目指した。

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