第154話囚われの姫1

 お使いを頼まれた桃子を薬屋まで案内した三谷は、自身の勤め先である『やなぎ家』までの道のりを歩いていた。公に娼館として商いをしているやなぎ家には、事務所や遊女たちの待機場所を兼ねた建物を構えていた。出勤した遊女は、まずここでお色直しをしてから客の元へと向かう。

 普段であれば夕方からの出勤で間に合うのだが、やなぎ家は24時間いつでも予約を受け付ける。三谷にはこの日、珍しく昼間からの予約が入ってしまったので、正午にもなっていない時間からのお勤めになった。


「おはよぉさんでありんす。しおり、参りんした」


「あッ、しおりさんッ!おはようさんでございんすッ。おかみさんがお呼びでございんすよッ」


「ありがとう。では、いってきんす」


 出勤した遊女は、その瞬間から花魁言葉を使わなければならないのが、この『やなぎ家』でのルールだ。その姿勢は客の前でも崩してはならない。三谷が俺に、普段の言葉使いをしていたのは、実はルール違反だったのだ。

 都にいくつかある娼館の中でもトップに君臨するやなぎ家は、自ら門を叩く者がいるほど人気の職場で、まだ客前に出られない見習いを多く抱えている。その子らは『かむろ』といい、一人前になるまでは、先輩遊女のお世話が仕事になる。

 ここぞとばかりに先輩風を吹かす遊女の多い中、上下関係にあまり関心のない三谷は、下の子たちからよく慕われていた。


 『おかみさん』に呼び出されていた三谷は、着替えと化粧を済ませ、彼女の元を訪ねた。


「おかみさん、おはようさんでございんす。しおり、参りんした」


「しおり、おはよう。入っておいで」


 その『おかみさん』というのは、もちろんミコトではなく開拓者だ。おそらくは現世でも水商売をしていたであろうその開拓者は、都にいる女の子たちに仕事と居場所を与えながら、メンタル面までもサポートする懐の大きい女性だった。

 娼婦の仕事というのは、男が思っているよりも遥かに過酷で、それでもやなぎ家が多くの女の子を囲っていられるのは、このおかみさんの存在があるからだ。彼女は遊女たちの精神的主柱なのだ。


「あら?しおり、あんた香を付けてる??これは麝香かね?」


「はいッ。お香屋さんのお友達がおりんして、譲ってもらいんしたッ」


 一人一人の遊女をよく観察しているおかみさんは、三谷が香水を付けている事に速攻で気づいた。その香水は俺があげた物だが、特定の男からプレゼントをもらう事も実はご法度だった為、真相を隠しつつ香水の存在を肯定した。

 そんな商材を扱う店なんかあった?と、疑問に思うおかみさんだったが、そんな事よりも三谷に言付けておかなければならない事があった彼女は、その内容を三谷に伝えた。


「しおり、今日のお客さまなんだけどね、ウチをご贔屓にしてくださる太客だ。あんたがお相手するのは初めてだろうけど、失礼のないように頼むよ」


「はい、分かりんした。一生懸命、ご奉仕させてもらいんす」


 おかみさんからの呼び出しもまた珍しい事で、彼女がわざわざ念を押してくるというのは、扱い方を間違えてはいけない客という事だ。

 五本の指に数えられるほどの人気を誇る三谷は、ある程度厄介な客でも上手くいなせられる接客スキルを持っている。持前の人懐っこさと、誰にでも分け隔てなく振りまける愛想が、彼女最大の武器なのだ。ベッドでのスキルはどうか知らんけど。


「しおりさん、お車の用意ができてございんす」


「では、おかみさん。いってきんす」


「あぁ、気を付けていっておいで」


 ――――――――――………


 三谷が本日出向いた宿屋は、平均よりも遥かに値の張る宿だった。ここを借りられるという事は、かなりの富を有している証拠だ。このレベルの金持ちは、売れっ子遊女の彼女でも滅多にお目にかかれるものじゃない。一体どんな商売をすれば、この宿を借りられるのだろう。おかみさんが釘を刺してきた事も合わせて考えると、三谷にイヤな予感が過ぎった。


「お呼びいただき、光栄でございんす。どうぞ、よしなにしてくりゃれ」


 指定された部屋の戸を開け、三つ指を着いていつもの挨拶をした三谷は、一瞬にして身体が強張った。この部屋には、刺激の強い不快な臭いが立ち込めていたのだ。彼女はその正体がスパイスである事を瞬時に見抜いた。それと同時に、先ほど感じたイヤな予感までもが、急にその色を帯びてきた。

 スパイスが受け付けられない三谷の様な子が、臭いに強い不快感を募らせるほど、それは強力なスパイスだという裏付けになる。これだけ嗅ぐに堪えない臭いは、最上級のスパイス、『サピエンス』に間違いない。しかし、だとすると見逃せない違和感が生まれる。

 サピエンスを常用しているという事は、この客は重度の中毒者だ。三谷にも、そうなってしまった友達が二人もいる。その子たちは、働けるどころか、満足に身体を動かせる状態ではない。重度中毒者は、すべからく金欠なのだ。とてもじゃないが、この宿を借りるなど夢物語だ。

 じゃあ、何でこの客はサピエンスを使用していながら、高級な宿を借りたり、高級娼館の常連になれるだけの経済力があるのか。それらの点と点を結ぶと浮かび上がってくる結論は、この男こそがスパイスの生産者だ、という事だ。


「わぁ~ッ!よく来たね、しおりちゃんッ。つい最近、引き回しできみを見かけてね、もう一目できみに惚れちゃったんだ~ッ!」


「恐縮でございんすッ。たくさんいた女の子の中からわっちを選んでくれるなんて…、嬉しッ♡」


 三谷は染み着いた営業スマイルと社交辞令トークでごまかしながら、自身の身の危険を感じていた。おかみさんに釘を刺されてしまった以上、この男を無下に扱う事はできない。しかし、言い成りになるワケにもいかない。スパイスで頭がイッちゃってるであろうこの男が、どんな要求をしてくるか分からないからだ。


「あ、俺は『羽根田浩』っていうんだッ。できれば『コウくん』って呼んでほしいなッ」


「そんな…、初めてお会いする方を名前で呼ぶなんて……、恥ずかしい…ッ」


「あああああぁぁぁぁッッッ!!その恥じらいたまんねぇーッッ!!おしっこでご飯炊きたくなるくらいかわいいねッ、しおりちゃんわぁッッ!!」


 この変態からどう逃げるか、この変態の存在をどう俺たちに知らせるか、この時の三谷の頭はそれで一杯だった。

 笑顔で接客していても、心ここに非ずの彼女の心境を見逃さなかったこの羽根田という男は、次第に要求をエスカレートさせていくのだった。

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