第153話国枝クリニック6

 ヨシヒロがこれから行おうとしている治療は、患者に莫大な苦痛を与える。その苦しみにのた打ち回る様は、見るに堪えないものになるだろう。彼はハクトに指示を出し、回復した軽度中毒者の子たちを隠し部屋から連れ出した。

 患者は重度の子二人だけとなった部屋の中では、ヨシヒロと羽根田がそれぞれ治療の準備を始めた。羽根田は持ってきた薬を、ヨシヒロは点滴の道具を広げていた。実はこの点滴、ヨシヒロが用意した物ではなく、緑の差し金による物だった。緑というジャンキーの方が、医者である彼よりも注射針を必需としていたからだ。

 ヨシヒロは、煮沸消毒した井戸水と塩を混ぜ、0.9%濃度の食塩水を作った。そこへ羽根田が持ってきた薬を粉末にした物を加え、患者へ投与した。薬の濃さは、通常使用量のおよそ10倍だ。

 それだけの精神薬をブチ込まれた患者は、先ず呼吸が徐々に弱まっていく。しかし、意識は途切れない。身体がどんどん酸欠状態に陥っていくと、自由に呼吸ができない事にパニックを引き起こす。このまま死んでしまうかも知れない恐怖に叫び声を上げたくても、既に声すら出せなくなった身体は、ショック状態になり痙攣が始まる。


「国枝くんッ!コレかなりヤバそうなんだけど、大丈夫なのかッッ!?」


「大丈夫ッ。この反応が出てるって事は、まだ絶命には猶予があるんだッ!

 それより羽根田くんッ!この袋にスパイスの煙を溜めてきてッッ!!」


 ヨシヒロは羽根田に薄い革でできた巾着の様な袋を渡した。本来は防水を目的として作られたこの袋は、気密性が高く、羽根田はそこへスパイスの煙を目一杯溜め込んだ。

 袋の口を患者の口に宛がい、袋を押しつぶして人工呼吸の要領で強制的にスパイスを吸わせる。漸く取り入れられた空気がスパイスの煙だなんて、これ以上の地獄は中々ないんじゃないかな。

 ショック状態に拍車がかかった患者は、白目を剥き、泡を吐き、失禁をし、身体が反りくり返る様に激しく痙攣していた。ここまで来れば、秒読み直前だ。


「ハクトッ、クランケから目を離さないでッッ!!もういつ『死神』が来てもおかしくないよッッ!!」


「はいッッ!!」


 今からヨシヒロがやろうとしている裏ワザは、一度俺も体験した事がある。緑のヤツに一杯食わされて、両手が消失した時だ。実はあの時、俺は本当に死ぬかも知れなかったのだ。

 俺は遺体を現世に残さなかった『こっち側(不死)』だ。誰かに殺されても死にはしない。だが、自分はいつでも自分を殺せるのだ。自分が『死ぬ』と思えば、本当に死んでしまう。その時に現れるのが『死神』だ。確かに俺も、ソレを見た。そして、死神さえ現れてしまえば、ヨシヒロの独壇場なのだ。

 彼自身は知らない事だが、国枝家に伝わる死神の撃退方法は、古典落語の『死神』が由来している。その噺の中で、死神は足元にいる時にしか追い払う事はできない。しかし、逆に言えば、足元にさえいてくれれば、患者がどんな状態だろうと助ける事ができる。まぁ、落語ではその理屈を悪用した主人公が死神の怒りを買ってしまうワケだけども…。

 ところが被行者としてこちらの世界に来てしまったヨシヒロは、もう寿命が存在しない。いくら死神の怒りを買おうが、彼の与り知る事ではないのだ。

 しかし、問題も一つある。ヨシヒロは死神を目で見る事ができない。そこが落語の主人公と違う所だ。そんな彼をサポートする存在が、ハクトだ。兎のもののけであるハクトは、あんず以上の聴力が備わっている。彼女は耳からミコトの死期を感知する事が可能であり、ヨシヒロが呪文を詠唱するタイミングを知らせるのだ。


「ヨシくんッッ!来たよッッ!枕元ッッ!!」


 二人の患者の内の一人に死神が現れたが、案の定というか、当たり前の様に枕元からだった。ハクトはヨシヒロに死神の襲来を伝えながら、患者を布団ごと半回転させた。枕があった所に足元が来た事を確認したヨシヒロは、大声で呪文を唱えた。


「アジャラカモクレン、ヤオヨロズッ、テケレッツのパッッ!!!」


 パンッ、パン…ッ


 呪文と共に柏手を二回叩くと、それまで苦痛に顔を歪めながら痙攣していた患者が、水を打った様に静かになった。汗も引き、呼吸も整い、顔色も良くなった様に見える。とりあえずこの子は、峠を無事に越えたみたいだ。

 しかし、まだ油断はできない。死神の魔の手から救ったというだけで、身体の方は何も手当てがされていないのだ。それに、まだ死の淵から帰ってきていない患者が一人いる。

 一向に気に抜けないヨシヒロ、ハクト、羽根田の三人は、引き続き患者の一挙手一投足に目を光らせていた。何が何でもこの二人を助ける。その決意をより一層強固なものにしようとした時、マチコの店と隠し部屋を繋ぐ扉が勢いよく開かれ、店主のマチコはがなり声を上げた。


「国枝くんッ!!大変ッ!!自警団が一人こっちに向かってるみたいッッ!!早く逃げてッ!!」


 最悪だ。治療班の存在が明るみに出てしまったらしい。やっぱり桃子たち、付けられてたんじゃねーか?

 情報の漏れ所も気になるが、今重要なのはいち早くここから立ち去る事だ。桃子や塩見、回復した子たちなら自力で逃げる事ができる。しかし、今まさに治療中の二人を抱えて移動するのは、かなり高いリスクを背負う事になる。

 この危機的状況の中ヨシヒロは冷静な頭で、考え得る最善のプランを組み立てた。


「おいッ!国枝くんッ、どーすんだッ!?」


「……うんッ!

 桃子ちゃんと塩見ちゃんは、回復した四人と一緒にどこか違う場所に隠れてッ!羽根田くんも、バイタルが安定したこの子を連れて逃げてッ!一人なら何とかなるでしょ!?

 こっちの子を今動かすのはムリだ。だから僕とハクトでこのままここで治療を続ける…ッ!!」


「それじゃあ現場を押さえられちまうッ!言い逃れもクソもできなくなっちうぞッッ!!」


 ヨシヒロたちの安否や、治療の妨害を案じた羽根田の言葉に、彼は凛とした笑顔を向けた。ヨシヒロには、このピンチを乗り切るだけの考えや手段があるのだろう。今は彼の言う通りにするしかない。

 ヨシヒロの指示を受けた面々は、散り散りにこの建物から姿を消した。隠し部屋には、重度患者一人とヨシヒロ、ハクトの三人が残り、マチコは通常を装って『'98』の営業を開始した。

 そしていくらも経たない内に、自警団が扉を開ける音が鳴り響いた。

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