第117話作戦会議13

 緑に施されている筋彫りの進捗が折り返し地点を過ぎる頃には、陽はだいぶ傾き始めていた。氏家と密会していた美奈も、俺の気づかない内に帰宅していたみたいで、ヨシヒロと共にアヤカシの面倒を見てくれていた。彼らの手前、悶着を起こせないあんずとイナリは、ちゃんと大人しくしている様で、俺は刺青の痛みに耐える事だけに集中できた。でも本当は、何か別の事に気を取られたい所だったけど。だってマジで痛いんだもん。

 頭に近い背中の上部から彫り始められた筋彫りは、いよいよ臀部に差し掛かろうとしていた。


「拓也、こっからはちょっと気合入れろよ。痛みが数段階上がっからよッ!」


 え?コレ以上…??と、思う俺の意思よりも早く、俺のお尻ちゃんが捉えた痛みは、物凄い勢いで神経を駆け巡り、脳まで到達した。緑のヤツも、忠告すんならもっと早くしてくれよッ!ビックリしてうんち漏れちゃいそうだったじゃねーかッ!!粗相して布団汚したら、また弁償させられるのは俺なんだぞッ!!

 さらに増していく痛みに悶絶しながら、俺の両手は布団を握り絞めていた。中の綿が寄ろうが千切れようが、知ったこっちゃない。できる事なら絶叫して転げ回りたかったが、表にいるあんずを心配させたくないのと、そんな姿を見られたくないという思いから、寸での所で我慢する事ができた。ちょこっとだけおしっこが出ちゃったのは内緒。


「瓜原さん。まだ終わらないの??そろそろ夕飯にしたいんだけど…」


「あぁ、まだかかるから先に食べててくれ。でも私らの分は残しといてね」


 中断するいいきっかけを、美奈が持ってきてくれたと思ったが、緑はその言葉を突き返していた。気づけば社中にご飯の炊ける匂いが漂っていた。しかし、それにあり付けるのはこの筋彫りが終わってからだ。しかもそれは、まだ先の事らしい。果たしてこの地獄は終演を迎えられるのだろうか。

 終わりの見えない苦痛に気が遠くなっていると、桃子と一緒にいるひーとんからのコールが入った。俺がこんなにも辛い思いをしていると言うのに、あのトチキチは浮かれポンチな声を響かせていた。


《もっしーッ!今ちゃん?俺、今日はももたん家に泊まるからさぁッ、美奈に晩メシはいらねーって言っといてッ!》


「そ…、それはええんだけどさぁ…。ひーとん、アンタ嘘つきやがったなぁ…ッ!!何が『覚えてねぇ』だてぇッ!刺青クッソ痛いがやぁッ!!どーなっとんだてぇッッ!!!」


《え?なに、今ちゃん。みどりんに彫ってもらってんの??大丈夫だってッ。筋彫りだけ乗り切ればあとは楽勝だからよッ!

 あ、そうそう。ももたんもLSD刺青入れてほしーってさッ。その事みどりんに伝えといてッ!じゃーねーッ!》ピッ


 あんにゃろう…ッ!俺の怒りなんか、微塵も汲み取っちゃいねぇ…ッ!どうせ桃子の家に泊まれる嬉しさしか頭にねぇんだろう。盛大にフラれちまえッ!こんチキショーッッ!!

 美奈がひーとんの分までメシを用意していたかは知らないが、心配しなくてもアンタの分は俺が食ってやるよ。そんくらいしか怒りのぶつけ所がねーからな。あぁ…、早く終わんねぇかな…、筋彫り。


「よしッ!拓也、最後の休憩いれよーぜッ!もうちょっとで終わっから、あと少しガンバれッ!!

 で、ひーとんは何だって??」


「うぅ…ッ。やっとゴールが見えてきたぁ…ッ。グスッ…。

 あ、ひーとんのヤツ、今日は桃子ん家に泊まるってさ。あと、桃子もLSDの刺青やって欲しいってさ」


 それを聞くと、緑は桃子の身を案じていた。ひーとんを泊めさせる事に、多少の不安を感じている様だ。それもそうだよな。都で見境なく女を買う程の性欲の持ち主だ。恋心よりも下心を優先させる可能性が非常に高い。いざとなったら、桃子の所まであんずを派遣させるか?あんずには桃子に対して『何かあったら無条件で助けてやれ』と言い付けてあるし、今の俺の心境としては、ひーとんの恋路を邪魔したい気持ちで一杯だ。

 そうならない様に、ひーとんが紳士でいてくれる事を願うしかない俺と緑は、最後の休憩を切り上げ、筋彫りの完成までラストスパートをかけた。漸くこの地獄から解放されるのだ。その後はメシ食いまくって、カナビス吸いまくって、あんずとイチャコラしながらひーとんが桃子にフラれる夢見てやるからなッ!覚悟しとけよッ、トチキチ野郎ッッ!!

 痛みのせいで何だかよく分からない事になっている俺の怒りは、何故かひーとんに向けられた。


「はい…。筋彫りはこれで終わり…ッ。お疲れ様でしたッ!」


「うぅ……ッ。あ、ありがとうございました……ッ」


 やっとの思いで完成した筋彫りだったが、終わった喜びよりも、痛みに耐え続けた自分への感動が上回った。本当によく頑張ったな、俺。よく我慢したな、俺。エライぞッ、俺ッ!!

 自画自賛する事で精神衛生を保っている俺に、一番の功労者である緑が、下描きを見せてきた時と同じ様に、合わせ鏡で彫り終えた筋彫りを見せてくれた。

 彫りたてホヤホヤの墨は、針が刺さった所が血で滲み、ミミズ腫れの様になっていたが、そんな事よりも間違いなく俺の背中に刻まれた『鬼』の姿に惚れ惚れしてしまった。なんてカッコイイのだろう…。まだ色を差していない筋彫りではあるが、それでも力強さを放つ鬼を見た途端、それまで感じていた痛みが遠い記憶の様に思えた。『覚えてねぇ』と言ったひーとんの言葉は、嘘なんかじゃなかったのだ。

 一仕事終えた緑は、美奈に向かって大声で夕飯の催促をした。


「あ~ッ、腹へった~ッ!!おーいッ、美奈ーッ。メシ持ってきてくれーッ!」


「やっと終わったのね。だいぶ冷めちゃったけど、たくさん用意したからいっぱい食べてね」


「おい、美奈。お前自分のあだ名忘れてまったんかてぇ。『電子レンジ』だがや。今すぐ温めてこい」


 筋彫りの苦痛から解き放たれた事で有頂天になっていた俺は、美奈に対して舐めた口を聞いてしまった。俺の言葉に顔色一つ変えなかった彼女は、刺青を彫り終えたばかりの俺の背中に、強烈な張り手を食らわせた。ただでさえ効く背中への張り手は、『パアァァァン…ッ!』という炸裂音と共に、さっきまでの針に匹敵する痛みを俺に与えた。この日何度目かの悶絶を余儀なくされている俺を、蔑む目で睨み付けた美奈は、捨て台詞を吐いて俺たちの前から消えていった。


「ソレ食ったらさっさと寝ろ…。このクズが……ッ」


「拓也ってバカなの??」


 多分、バカなんじゃないでしょうか。

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