第6話ミコトと童子2

「結局あなたも裸になるんだったら、アタシがやっても良かったんじゃ?」


「俺は男だでええんだわ。それに下も履いとるで全裸にはならんしな」


 道中の二人の会話は良く弾んでいた。お喋りを楽しみながら俺の前方でクルクルと踊る様に歩く彼女の横顔を、木々の間をすり抜ける陽の光が照らす度に、胸の鼓動が強く打たれるのを無意識の内に感じていた。その不整脈は少しの不安を孕んでいて、会話が途切れてしまうのを恐れさせたのだが、またもやそれを救うかの様に彼女は切り出した。


「そういえばまだお名前を教えてもらっていませんでしたね」


「あぁ、そうだね。俺は今泉拓也だよ」


「イマイズミタクヤ……?」


「あ、拓也でいい拓也で」


 自分でいうのも何だが、俺はこの苗字が好きじゃなかった。理由は簡単、言いにくいから。電話を取る時なんかの「はい、もしもし。今泉ですが」を何回噛み倒したか。あと某探偵ドラマのせいで否応なくデコを叩かれ続けた事もある。他にも色々あって俺にとって『今泉』は厄の種でしかなかった。


「では何とお呼びしましょう?たくやさま…?」


「何でさま付けなんだよ。普通に拓也でええわ」


「でもミコトの方を呼び捨てにする訳にもいかないですし…」


 別に俺は気にしないんだけど、何かあるんだろうなこの世界の秩序みたいなもんが。恐らくここは『手水政策』の為の場所なんだし、被行者はヒエラルキーの上の方にいるんだろう。頂点だと思わないのは、俺たちをここによこしたり徳の高さを見ている誰かさんが、そこに居座っていると予想できるからだ。その椅子を奪おうとは全く思わないんだけど、好き勝手やらせてもらえるなら…まぁ、そうさせてもらおう。


「じゃあ、たくちゃんって呼んでまおうかな?」


「たくちゃん…。フフッ…なんかかわいーですね、たくちゃん!フフッ…!」


 俺の提案は快く受け入れられたというより、ものすごく歓迎されたみたいだ。冗談半分で言い出した呼び方を『かわいー』と評価した彼女は、小さな口を両の指先で押さえながらそれでも抑えきれない笑みを零していた。その姿にまた不整脈を感じ、それを誤魔化す様に俺は問いかけた。


「んで、君の名前はなんていうの?」


「アタシら童子に名前なんかありませんよ」


 先ほどの延長で笑みを浮かべたまま、当たり前かの様に自分に名が無いという事実を教えてくれた彼女の微笑みに、俺は矛盾を感じてしまった。彼女は今まで誰かに呼ばれる事は無かったのだろうか。名前が無い事で不便を感じた事は無かったのだろうか。名前という概念を知りながら自分にそれが無い事を何とも思わなかったのだろうか。

 自分勝手な感傷に浸りつつ、俺はある事を決めた。丁度その時、彼女の歩みが勢いを増したかと思うと、此方を振り返り大手を振って俺を手招いた。


「たくちゃーん!こっちです!ここがアタシの寝座ですー!!」


 どうやら到着した様だ。彼女が指し示す場所は、大きな木の根っこが土の中にドーム状の空間を二畳程の広さで作り上げていた。中には彼女の日用品なのか、幾つかの壺の様な物と稚拙な作りのゴザが並べられていた。やはり一人で住んでいるみたいだ。穴の脇に運んできた杏子の実を広げ、今まで不本意な働きをしてくれたシャツを一度だけバサッと仰ぎ、袖を通した。


「ここまでしてもらってすみません。助かっちゃいました」


「別にええて、こんくらい。それより俺さぁ…、君の名前考えてみたんだけど…」


 突然の発表に、彼女はキョトンとしている。俺の言葉に理解が追いついてない様だ。そんな事お構いなしに俺は続けた。


「『あんず』ってのはどう?君の好きなもんと同じ名前…」


 彼女はキョトンを維持したまま、無造作に転がった杏子の実を一つ拾い上げ、ジッとそれを見つめながら呟いた。


「あんず…。アタシの名前…。コレと一緒の…?」


「うん、そう。どう?俺はいいんじゃねーかなぁって思ったんだけど…」


 彼女の反応は俺を困らすものだった。握り締めた杏子の実に一つ、二つ雫が零れ落ちた。その涙は、再び俺の提案を歓迎する合図なのだと解釈した。だけど泣かれるとは思っても無かった俺は、どうすればいいのか分からずにいた。

 小さな肩を小刻みに震わせながら、か細い声を振り絞った彼女の言葉は、俺の胸を劈いた。


「こ…こんな素敵なものを頂いてしまったら、アタシはどうやってお返しをすればいいのですか……」


 これまでの彼女の言動を顧みれば、その誠実さは痛いほど伝わる。


『二人掛りで一人を襲うとか、恥ずかしくないんですか?』


『今あなたはアタシに助けられたので、今度はアタシが助けてもらう番ですよ?』


 直向きなまでのその誠実さはこの子自身のものなのか、童子としての性分なのかは分からないが、不誠実な人間にとっては恐ろしいものなのかも知れない。

 ポロポロと涙を零す彼女に対し、照れ隠し半分、後ろめたさ半分といった感じで俺は語りかけた。


「ほれ!名前が無ぇのは俺も困ってまうでさぁッ!!イヤならええよ!別に気にしんといてなッ!」


「いいえ…、ずびばせん…。嬉しくてつい…」


 裏表のねー子だなぁ。可愛いなチクショー…。そんな事を思いながら、大きな涙の粒を手の甲で必死に拭うあんずを見て、大好きだった童話の『泣いた赤鬼』を思い出していた。あの話に出てくる赤鬼も青鬼も、良い奴だったなぁ。どうして人間はこんなにも誠実で素敵な鬼を恐れ、忌み嫌うのだろう。


 沈みかけた夕日が、あんずの鼻から盛大に垂れる鼻水を、キラキラと照らしていた。

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