第二章「死と太陽は直視できない」 第七節

 5時間後、漆黒だった空が紺色に変わり始めた。暗く、深い青である。それが今度は、より鮮やかな群青に変わる。

 西の空が夜の色を強める一方、東の空は明るさを取り戻し、青を赤く染め上げた。その赤もほんの一時の間に過ぎず、太陽がその顔を現すと共に黄金色に染まった。

 太陽の力強い輝きに押されて、夜の闇が西の空に追いやられる。

「その昔、人は太陽を神として崇めていたそうです。その信仰はいまでも一部に残っているそうですが、あの神々しさを目の当たりにすれば、それも納得できますよね」

 日の出を眺めながら、命は言った。

「うん、わかる気がする。……いや、やっぱりわからないかも。だって、なんにも感じないんだもん。こんなすごいところで見ているのに、これっぽっちも感動できない。まぶしくもないから直視だってできる。……そっか、これが死ぬってことなんだ。いま、ようやくわかった気がする」

 まばゆいばかりの太陽に照らされている麗子や、隣にいる命の背後には影が存在しない。つまり、彼女たちはこの世界に存在していないことになる。

「……キミは、こんな思いを何度もしてきたんだね」

 麗子は、命に目をやった。

「そうですねぇ、数えていないのでわかりませんが、何度も繰り返してきたでしょうね。いつしか慣れてしまって、あるときから何も考えなくなった気がします。今日は、麗子さんの言葉のおかげであらためて考えさせられましたが」

 命は淋しげに笑った。

「死神になるって、その苦しみも覚悟の上なんだね。……虚しくない?」

「どうでしょうねぇ。苦しい、虚しいと思うかは人それぞれですから。ちなみに、ボクは、そうは思いません。確かに、中にはそれを覚悟の上で、承知の上で現世に留まっている方もいらっしゃるでしょう」

「キミは?」

「ボクは、何も感じられなくても、こうしてまた新しい朝を迎えられることが嬉しいです。そして、麗子さんのような方に出逢えるのを楽しみにしています。すでに死んでいますが、それが生きがいなんですよ」

 命は、愛らしい笑顔を浮かべた。

「そっか……それが、キミの理由なんだね。……私は、いまはまだ、そう思えないなぁ」

 麗子は、憂鬱な顔をして溜め息をついた。

「……」

 麗子が黙り込んでしまったので、会話が途絶えた。

 二人は言葉を介さず、ゆっくりと昇る朝日を見つめた。


 太陽がその全貌を現したとき、命がようやく口を開いた。

「麗子さん、そろそろ、どうされるのか教えていただきたいのですが?」

「……うん、そうだね」

「心は定まりましたか?」

「んー、多分……」

「では、聞きましょう」

 命は横を向き、麗子を真正面に見つめた。彼女も、彼の瞳をまっすぐに見つめ返した。

「なりたい、死神に。でも、キミみたいに立派な理由じゃないの。いまのままじゃ、ダメだから……死んでも死にきれないから、だから死神になる。地獄に落ちたくないし、消えたくもないし、もっとこの世界にいたいから、だから死神になりたい。……これって、不純かな?」

 不安そうにする麗子。一方の命は、何故か嬉しそうだった。

「いいえ、不純だなんてそんな。麗子さんのその想いは立派な理由ですよ。人間は足掻いてこそです。目の前に道があるのに、進むことを恐れて、諦めて、素直に地獄へ落ちるような方は、ボクは嫌いです。麗子さんみたいな人間らしい方は大好きです」

 命は満面の笑みを浮かべた。

「あ……ありがとう……」

 面と向かって大好きだと言われたので、麗子は照れてしまった。

「麗子さんの決意、確かに承りました」

 命は大きく頷いた。そして立ち上がり、左手を前に伸ばした。

「死神としての権限により、立花 麗子の罪を一時凍結。その願いを受理し、死神になることを推薦すると共に、我らが神、死と冥府の王であるハデス神の御前に立つことを許可する」

 いつかのように黒い本を取り出し、表紙の黄金色の天秤に手を置いて、そう宣言した。すると、淡い光を放ち、彼の手の甲の上に、立体画像のような天秤を浮かび上がらせた。それは以前のままで、先端には青い火が灯っており、二色の火が灯った秤は、黒い火のほうがわずかだがより深く傾いている。

 まもなく、黒い本から何本もの細い鎖が現れて、天秤に絡みつき、縛り、その状態を保つべく固定した。その後、天秤もろとも光の粒子となって本に消えた。

「これで、ひとまずは完了です。48時間の制限も一時的にですが凍結していますので、死出のお世話は一旦保留とします。ここからは、死神としてのもう一つの仕事に取りかかりますね。わかりやすく言うとスカウトマンです」

「スカウトマン……? 意味はわかるけど、なんか砕け過ぎじゃない?」

「では、奴隷の仲介業者とでも言い直しましょうか?」

「……スカウトマンでいいや」

 麗子はげんなりした。一方の命は、不敵な笑みを浮かべている。

「あ、ところでさぁ」

「はい?」

「さっきハデスって言ってたけど、それって、ギリシャ神話に登場するあのハデス?」

「はい、そのハデス様ですよ。ハデス“様”」

 命は、“様”を強調した。

「あ、はいはい、ハデス様ね。――でもさぁ、ここって日本だよ?」

「日本ですね」

「なのに、なんでギリシャ神話なの? 日本なら、仏教とか神道じゃないの?」

「そうですねぇ、確かにそうだと思います。ですが、仏教や神道、それにキリスト教など、いわゆるメジャーな宗教に身を置かれている方の場合は、死後の手順もそちらのやり方で行われるんです。でも、麗子さんのように、立花の家は一応仏教に入っていても、本人にその自覚が無かったり、こだわりが無い場合、それに無宗教の方などは、ボクたちがお世話をすることになっているんですよ。ちなみに、どうしてギリシャ神話なのかと言いますと、この日本という特殊な国が大きく関係しています。アメリカのように、様々な国や人種、宗教が集まっていながら目立った争いが無く、正月に始まり、節分、お盆、近頃ではハロウィン、それにクリスマスと、異なる宗教のイベントを普通に楽しまれています。考えてみると、おかしな国ですよね」

「あらためて言われると、確かにそうだね。いい加減というか、おおらかというか」

「ギリシャ神話も、この日本では意外と知られています。マンガや小説、アニメ、映画、ゲームと、いわゆるメディアや、日本カルチャーでよくネタとして使われていますよね。つまり、この日本において、ギリシャ神話は知名度がある」

「確かに」

「それでいて、ギリシャ神話にも宗教がありますが、そちらに関しては非常にマイナーで、ほとんど知られていません」

「えっ、ギリシャ神話にも宗教ってあるの?」

「ほらね」

 命は得意げな顔をした。

「なので、受け入れやすくて拒みにくい。それはつまり、面倒事が少ないということでもあります。例えば、仏教の方がキリスト教の天使に死後のお世話をされたら、戸惑っちゃいますよね?」

「それは……びっくりするでしょうね」

「そして、まずクレームを言われるでしょうね」

「クレームって……」

「宗教というのは非常にデリケートなもので、特定の宗教に入られている方は別の宗教を認めず、否定する傾向が強い。だからこそ、時には戦争にまで発展してしまう。なので、特定の宗教に入られている方がお亡くなりになった場合、その死出のお世話は、その宗教のルールに則って行われなければいけません。そうじゃないと、後が怖い」

「……なんとなく、わかる」

 麗子は納得した。

「でも、だとすると、無宗教の方や、特定の宗教に入っているけど本人があまり意識してなかったり、特にこれといったこだわりが無い方の場合はどうすればいいのか。まさか、ランダムに選ぶわけにはいきません。それぞれに予定というものがあります。スケジュールが空いてるから任せる、なんてテキトーなことはできません。死後は、特にデリケートですしね。で、その問題を解決しているのが、ボクたちギリシャ神話の一派なんですよ。宗教はあっても認知度が低いマイナーなので、他の宗教に比べて、クレームがダントツに少ない。それが、先ほどの質問の答えです」

「な、なるほど……」

「自分で言っててなんですが、ほんと、世の中って世知辛いものですよねぇ……」

 命は遠い目をし、太陽を見つめた。

「……あ、ついでに言いますと、死神という存在が独立して活動しているのは、ギリシャ神話だけなんですよ。そもそも、死神という概念が存在しない宗教が多く、神道――日本神話だと“イザナミ”がそれにあたり、仏教では“閻魔大王”です。で、ボクたちのような死神の役目を担っているのは、使役である“鬼”です。キリスト教も死神は存在せず、“悪魔”として認識されており、イスラム教、エジプト神話、北欧神話などと同じで、死を管理しているのは、“神”や“天使”です。ギリシャ神話のように、ハデス神の下、死神として働いているのは稀な存在だと言えますね。ちなみに、ボクたち死神は“最高神に仕える農夫”という異名があります」

「ふ、ふーん……」

「おや、表情が芳しくないですね」

「あ、いや、こっちの世界も色々大変なんだなぁって思ってね。……あと、またえらくマイナーな世界に飛び込むことになったと思って。勤めていた会社も、どちらかといえばマイナーだったし」

 麗子も遠くを見つめた。

「麗子さん、哀愁が漂ってますよ」

「だろうねぇ……」

「でも、マイナーなほうが、社員を大事にするって言うじゃないですか」

「ふっ、リストラされたけどね……」

「あ……えーっと、あっ、でもでも、メジャーな宗教だったら死神にはなれませんでしたから、悔いを残す形になっていたかもしれませんよ!」

「……まぁ、確かに」

 麗子が渋々とはいえ納得したので、命はホッとした。

「他に質問はありますか? ベテランの先輩として、なんでも答えちゃいますよ」

「んー、じゃあ一つ」

「なんでしょう?」

「そのハデス様のところだけど、行かなくていいの?」

「え? ああ、それなんですが、開店時間まではまだ間があるので、もうしばらくここで時間を潰そうかと思いまして」

「開店時間……?」

 麗子は眉をしかめた。

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