第二章「死と太陽は直視できない」 第六節
落胆した麗子を前にし、命は怪訝な顔を浮かべた。
「……麗子さん、もしかして、地獄に落ちるかもしれないとお思いでしたか?」
「え? ……うん、まぁね」
麗子は苦笑した。
「そうですか……。正直、かなり意外ですね。てっきり、麗子さんは善人だと思っていましたので。……何があったんです?」
命は小首をかしげた。
「知らないの? 死神なのに?」
「すみません。ボクが麗子さんの担当になったのは、お亡くなりになる数時間前のことでしたので。……その左手首の傷が原因ですか?」
命は、麗子の左手首の傷を指差した。彼女はハッとし、右手で隠した。
「言いたくない……もういいよ、めんどくさい。地獄に落とすなら、さっさとして……」
麗子はそっぽを向いた。
「むっ、気に食わないですね、その自暴自棄になった態度。先ほどまでのあなたはどこへ行かれてしまったんです?」
命は眉間にしわを刻んだ。
「そんなこと、言われても……」
麗子は不貞腐れた顔をした。
「ボク、死神の中でもかなりの古株なんですよ。だから、人を見る目はあると自負しています。その人が善人なのか悪人なのか、たいてい見ただけでわかります。なので、それを見誤ったのが悔しい。そして、麗子さんのような方がどうして悪人なのか、疑問で仕方がありません」
命は、差し出したままの黒い本を引き、麗子の手から離した。すると、黄金色の天秤が崩れて光の粒子に戻り、表紙の天秤に吸い込まれた。
「多分、お願いしても無駄でしょうから、勝手に調べさせていただきます」
本の間には金のしおりが一枚挟まっているのだが、命はそこから左右に開いて、左手で支えつつ、紙面に右手を置いた。開かれたページが淡い光を放った。
「好きにすれば……」
麗子は投げやりに言った。
そのとき、命は遠い目をしていた。その赤い瞳で、何かを見つめている。
「………………ああ、なるほど。不運が続いたことで、まさに自暴自棄になってしまったんですね」
命は、同情するようなつぶやきをすると、本を閉じ、すぐに手放して腕輪に戻した。
「……とはいえ、自殺は自殺です。血迷ったなどいかなる理由があろうとも、自らを殺すのは大罪です。生命として誕生した存在が、決して犯してはならないタブーですよ。たとえ未遂に終わったとしても、その咎は重い」
命は、その赤い瞳で、麗子の目をじっと見つめた。
つぶらなその眼の中心に浮かぶ瞳孔は、夜の闇よりもなお黒く、見つめていると吸い込まれるような錯覚にとらわれてしまう。それでいて、底の見えないほどの何かがあるように感じられた。怒り、憎しみ、恨み、嫌悪、悲しみなどといった、“負の感情”と呼ばれるものが渦巻いている気がしてならず、麗子は得体の知れぬ不安や恐怖を覚えた。
「残念なことに、人間はすべてが善人ではありません。悪人もいます。たいていの方が、その時々で、善と悪の境目を行ったり来たりするものなんですよ」
命は手を垂直に立てて左右に交互に傾け、その“行ったり来たり”を表した。
「人間は、天使と悪魔、二つの顔を持って生まれた生物だ、という言葉もあります。誰の言葉かは忘れましたが、もっともだと思いますね。麗子さんの場合、当初はやや善に傾きつつある状態でしたが、自殺未遂という罪を犯してしまった結果、悪に大きく傾いてしまった。その後は改心し、また善に近づきつつありましたが、善が悪を凌駕するには時間が足りませんでした。その前に命を落としてしまった。残念ですよ、非常に残念です……」
「なによ、同情する気?」
「ええ、同情しています。ボクは、悪人には同情しない、というのをポリシーにしているのですが、麗子さんの場合は別です。運にさえ見放されなければ善人として死ねたはずなんですから。このまま地獄に落としてしまうのは惜しいです」
「そんなこと言われたって……もう、地獄に落ちるしか道は無いんでしょ?」
「いいえ、地獄に落ちないで済む方法が一つだけありますよ」
命は、右手の人差し指一本だけを立ててみせた。
「えっ、あるの!?」
「はい、あります」
「本当に!? 嘘じゃなくて!?」
「ええ、本当ですよ。嘘なんか言いません。……ですが、条件があります」
「条件? なに?」
麗子は、命に近づき、食い入るようにたずねた。
「通常、お亡くなりになられた方――“死者”の方には、二つの道が用意されています。天国と地獄です。ですが、実は、それ以外にもう一つ道があります。それは悪人となり、地獄に落ちなければいけない方にのみ許された選択肢です」
「だから、それはなによ!? もったいぶらないで教えて!」
「それは、死神として生きる道ですよ。このボクのように」
命は、自分の胸に手を当てた。
「死神……? えっ、キミのように死神になれば、地獄に落ちずに済むの?」
「はい、免除されます」
「……そんなことでいいの?」
いまの麗子の何気ない発言に対し、命は、目に見えてわかるほど表情を曇らせた。
「あ……ゴメン、失礼だよね、そんな言い方……」
「いえ、構いませんよ。死神という存在について知らないのですから、そう思われたとしても仕方ありません。無知を罪だと責めるつもりはありません」
命は首を横に振った。
「……ねぇ、死神ってどんな仕事なの? 地獄に落ちるのを免除するってことは、やっぱり大変だったりするの?」
「そうですねぇ……では、想像してみてください。今後、半永久的に、強制的に、他人の死を見続け、お世話をする。許されない限り、自由はありません。すでに死んでいるため、お腹は空かず、喉も乾かず、眠たくもならない。欲求を満たすことは何一つできません。いまでもそうですけど、なにも感じず、ただただ毎日他人の死出の世話をし続ける」
「……」
麗子は、言われたとおりに想像し、言葉を失った。
「ちなみに、このボクは、その死神を一千年以上も続けてきました。――どうですか? これでもまだ、そんなことと思えますか?」
麗子は激しくかぶりを振り、長い髪を乱した。
「そうでしょ?」
命は満足げな顔をした。
「死神は、神という字がありますし、神として扱われていますが、実際のところ神ではなく、神の奴隷です。ある特定の神の、仕事の一部を代行する存在に過ぎません。本人が拒否しない限りは続きますが、拒否した場合、元が悪人ですから、たいてい問答無用で地獄に叩き落されます。ボクのように、長い年月を真面目に働けば、生前の罪が軽くなり、恩情で天国に進む権利を与えてもらえるかもしれませんが、一千年働いたところで、その恩情をいただけるかどうか……。どうなるかは罪の重さにもよるでしょうね。だからこそ、半永久的にと言いました」
「神の、奴隷……」
「まぁでも、地獄に落ちるよりはマシでしょう。……と、言いたいところですが、なにぶん、地獄に落ちた経験が無いもので、なんとも言えません。もしかしたら、地獄に落ちたほうがマシかもしれない。それでも、死神として――神の奴隷として働きますか?」
「……」
麗子は押し黙った。すると、命は微笑んだ。
「すぐには答えられないでしょうね。逆に、すぐに答えられてしまうと困りますし、その短絡ぶりに落胆してしまう。時間はまだありますから、よくお考えください。……ただ、もう一つだけ、死神になるかどうかを考えるにおいて、知っておいていただきたいことがあります」
「……なに?」
「先ほども言いましたが、死神になれば他人の死を看なければいけません。でも、その他人はまさに千差万別で、善人がいれば悪人もいます。素直に死を受け入れてくれる方がいれば、逆上して襲いかかってくる方もいます。泣きついてくる方や、逃げてしまわれる方もいる。その死に様も色々で、中には目を覆いたくなるようなひどいものもあります。それを毎日繰り返す。終わりはありません。自分で決めない限りは……」
命の言葉を受け、麗子は再び押し黙った。発言をためらわれたのだ。返事をするにしても、どうすればいいのかわからず、どのようなことを言っても失言になると思われた。
「死神という仕事もまた地獄の一種だと、ボクは考えています。――それでも、死神になりたいですか? どうぞ、よくお考えください」
命はきびすを返してその場を離れ、また断崖絶壁に移動し、ちょこんと座った。足を投げ出し、彼が背負っているような三日月だけが煌々と輝く夜空を見上げたり、すべての星が落ちてしまったような夜景を見下ろす。
その後ろ姿を見つめていた麗子はおもむろに立ち上がり、恐る恐る、命の元へ歩み寄る。
「……ねぇ、隣、座ってもいい?」
「どうぞどうぞ」
命は笑顔を見せて、隣を勧めた。麗子は、スローモーションのようにゆっくりその場にしゃがみ、這うようにして断崖絶壁に近づいて、やっとのことで腰を下ろした。落ちるかもしれないという恐怖がそうさせている。
「ほ、ほんと、高いね……。昼間だったら、より怖いわ」
麗子は、ビクビクしながら夜景をうかがう。
「昼間でしたら、景色の美しさに見惚れて、そんなこと気にならないですよ、きっと」
「そうは思えないけど……。それにしても、ほんと、星の見えない空ね」
麗子は、漆黒でしかない空を見上げた。
「その代わり、大地には満天の星が広がっていますよ」
「確かにね。きれいだとは思うわ」
「人工的に生み出された星々です。本当の星空を代償にして生み出されている光景ですよ。これもまた一種の絶景であると、ボクは思います。すごいですよね、あれだけの数の命が生きているんですから」
「……キミは、あれだね、見た目と違って重たいことを言うよね」
「見た目は12歳ですが、中身は千歳以上ですからね。これで軽いことしか言えなかったら、なんのために死神をやっているのかわかりませんし、文句を言われちゃいますよ」
命は苦笑した。
「……キミは、どうして死神をしているの?」
「それは、ボクも悪人だからです。地獄に落ちるのが怖くて、それで死神になった」
「それで、もう一千年以上も……?」
「ええ、気づけば」
「そうなんだ……。それってさぁ、やりがいのある仕事ってこと?」
「もちろん! と、答えておきましょう」
「ふーん……」
麗子は思いつめた顔をし、また夜景に目をやる。
決断に迫られて、大いに迷っている。彼女の顔はそう物語っていた。それを横目にうかがっていた命は、言った。
「本当は言うべきじゃないんですけど……死神になれば、この世界――現世に留まり続けることができます。つまり、死後、この世界がどうなってゆくのか、それを見届けられるんです。家族や友人のその後を見守ることもできます。見守ることしかできませんが、見守ることはできる。ボクは、それもあって死神になりました。死後、ボクという存在がいなくなった世界がどうなってゆくのか、それが知りたくて……」
「……どうして、言うべきじゃないの?」
「安易に決断してほしくないからですよ。死神は、人の死を扱う、非常に大切な仕事ですから、それを穢されたくありません」
「どうして、私には言ったの?」
「なんとなくですが、麗子さんなら、安易に決断しないと思いました。そして、あなたは、穢すような真似はしない」
命は、麗子の目を見つめた。彼女は俯いてしまう。
「そんな……わからないよ、そんなこと……」
「ふふっ。その謙虚さが、麗子さんの美徳ですね」
「びっ、美徳って、恥ずかしいこと言わないでよ……」
俯いたままの麗子だが、いまは照れているだけだ。その姿を横から見ている命は、どこか嬉しそうだった。それでいて意地悪そうでもある。
「とっ、とにかく、もう少し考えさせて」
「どうぞどうぞ。なんでしたら、五、六時間ぐらい待ちますよ」
「なんで、五、六時間?」
「日の出ですよ。ここから見える朝日はなかなかのもので、せっかくだから見たい」
命は、いまはたた闇があるだけの東の空を指差した。
「……それまでは答えるなって、言われた気がするんだけど?」
「えー、なんのことですか? 誰もそんなこと言ってませんよぉ」
命はニヤニヤし、わざとらしくとぼけてみせた。それを横目に見ていた麗子は、つられたように笑ってしまった。
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