第二章「死と太陽は直視できない」 第八節
世の中が動き出した頃。
喧騒たるとは言えないものの、徐々に交通量が増しつつある大通りから一つ横道に逸れたところに、一軒の店があった。その前に、二人の人物が舞い降りた。
「なっ、なんでここ……?」
二人のうちの一人である麗子は、その店の外観を前にして戸惑った。
それもそのはず。
麗子が凝視する、扉の上に掲げられた看板には、《宿り木》という文字が描かれている。
「麗子さん、お馴染みさんですよね? なので、ここを選びました」
隣で、同じように見上げている命は言った。
「……え、いやいや、答えになってないんだけど」
「ふふっ、まぁまぁ。その疑問については追々説明しますから。――あ、通行人の方がいらっしゃいましたから、気をつけて」
注意を受けた麗子は、避けるために店に近づく。彼女が横切る通行人に注意しているとき、命は窓ガラスの前に立ち、明かりが付いている店内を覗き込んで、軽く手を振った。何をしているのかと、彼女も店内をうかがったところ、カウンターに立つマスターの姿が見えた。彼も、こちらを見ていた。
「えっ」
一瞬、目が合った気がした。サングラスをかけているので不確かだが、そんな気がした。
マスターはすぐにそっぽを向き、カウンターを出て、奥に消えてしまった。
「麗子さん、こっちに来てください」
命の声がしたので隣を見たが、彼の姿は無かった。見回したところ、隣のビルとの間の路地から顔を覗かせて、手招きしている。呼ばれるままについていったところ、彼は、店の裏口と思われる、窓の無いスチール製の扉の前に移動していた。
「ねぇ、どういうことなのか、そろそろ説明してくれない?」
「もうちょっとお待ちを。ここではなんですから。それに、もうすぐです」
「もうすぐ? なにがもうすぐ?」
まもなく、裏口のノブがひとりでに回り、開いて、マスターが顔を覗かせた。
「えっ!?」
ふいだったので、麗子は驚いてしまった。
マスターは扉を全開にすると、すぐに顔を引っ込めた。
「お邪魔します」
命は、開いた扉をくぐり抜けて店内に入った。
茫然とし、一人その場に取り残されている麗子も、思い出したように後を追った。
扉の向こうには、コンクリートに覆われた六畳ほどの部屋があった。
机があり、パソコンがあり、棚があり、部屋の隅にはダンボール箱が積まれてあるなど、どう見ても事務室だ。
馴染みの店とはいえ、事務室に入ったのは初めてだから、麗子はついキョロキョロしてしまう。それで気づいたが、背後の、裏口のすぐ隣にマスターがいて、扉を閉めた。
「麗子さん、こっちです」
命が呼んでいる。視線を逸らしたところ、右奥の、積まれたダンボール箱のそばにある扉の前に彼はいた。
事務室には他にも扉が二つある。どれも左手の奥にあって、一つは見覚えのある材質とデザインだ。位置から考えて、店内に通じているものと思われる。そばにあるもう一つの扉も、材質やデザインこそ同じだが、《トイレ》《従業員専用》と書かれた二枚のプレートが入ってあった。
命のそばにある扉はその二つとは異なり、真っ白なものだった。材質は石膏のようだ。
変わった扉だと思いつつ、近づいたところ、命はその扉を押して入っていった。麗子も後に続こうとするが、扉を前にしてはたと気づいた。どうして開けられるのか、と。
「これは、ボクたちにしか開けられないんですよ」
麗子が疑問を抱いたことに気づいたのか、はたまた最初から説明するつもりでいたのか、命はすぐに振り返り、言った。
麗子はとりあえず納得し、あらためて扉をくぐろうとするのだが、そばにいるマスターのことが気になって一歩を踏み出せない。
「……あ、あのう、もしかして、私の姿、見えてます?」
麗子はチラリとうかがい、恐る恐る、たずねてみた。すると、マスターは、「うん」と相槌を打った。そうかと思えば、サングラスを外してその目を見せた。
真っ黒いレンズの下から現れたのは、金色の瞳だった。
その瞳で麗子をまっすぐに見つめ、マスターは穏やかな笑みを浮かべた。彼女が愕然としたのは言うまでもないだろう。
「死神になるの?」
マスターはたずねた。
「……あっ、は、はい! そのつもりです!」
麗子は、茫然としていたので返事に遅れ、やや慌てた。
「そう。じゃあ、いつでも来ていいよ。歓迎する」
そう言うと、マスターはまたサングラスをかけて、眼を隠した。まもなく奥の扉へ向かい、店内へ消えた。
その場に取り残された麗子は、口をあんぐりさせて、ポカーンとしている。
「――麗子さん、そろそろいらっしゃって欲しいのですが」
奥の部屋から声が聞こえてきた。
「あ、ゴメン!」
麗子は我に返り、すぐに振り返って、開いたままの扉をくぐり抜けた。
扉の向こうには、店内と同じような内装の部屋があった。つまり、木に満ちた空間だ。事務室と同じ六畳ほどだが、中央にテーブルと椅子があり、どうやら個室。
命は、部屋の奥にある、黒い扉の前に立っていた。
手前の白い扉とは異なり、ノブが無い。
「この扉の先には、“冥府”という別の世界が存在します。なお、この扉も、開けられるのはボクたち死神だけです」
命は手を伸ばし、真っ黒な扉に触れた。すると、一瞬だけ淡い光に包まれ、ひとりでに開かれた。押して開けたようにだ。
命が先にくぐり抜けた。麗子も、後を追うべく扉に近づき、そして見た。
焼け焦げたような赤黒い大地が、どこまでも広がっている。
まさに別世界だ。
「さぁ、どうぞ。恐れないで」
命は扉の前に立ち、麗子に手を差し伸べた。彼女は、「うん……」とためらいを含んだ頷きをすると、その手を取り、誘われるように別世界に足を踏み入れた。
すでに見えている赤黒い大地の上に立ち、あらためて別世界を目の当たりにした麗子は、その広大さと凄まじさに、圧倒した。
真っ赤に輝く大河を生み出す、紅蓮の炎をまとった山々が遥か彼方に見える。噴火口からは、暴れ狂う龍のような火柱が次々に立ち昇り、黒煙を吐き出していた。その黒煙が、空をどこまでも覆い尽くしている。
麗子の前にはそんな世界が広がっていた。
冥府という名前を聞いたときから、いまいるここはどんな世界なのだろうかとあれこれ考えてはいた。想像したのは、映画などで見た地獄にも等しい世界だったのだが、ここはまさにそれだった。
生き物が住めない、命の存在しない世界。
まさしく冥府だと、麗子は納得し、そして絶句した。
「ここが冥府です。……いかがでしょうか?」
命は隣に立ち、麗子の顔を覗き込んだ。
「………………まるで、地獄みたいね」
麗子は、長い沈黙の末に答えた。
「でしょうね。だって、地獄をイメージして作られていますから」
命は、ニヤニヤしながら言った。
「……作る?」
麗子は眉をしかめた。景色から目を逸らし、命をうかがう。
「あの景色は、すべてが作り物なんです。大地も、空も、あの火山も、すべて映像に過ぎません。ここは本来、真っ白な世界があるだけなんです」
「……えっ、じゃあ、あれは、なんのために?」
「真っ白なだけの世界だと、淋しくて味気ない。冥府というイメージがありますからね、それを尊重しているんです。あと、ここを訪れた、麗子さんのような死神になりたい方を恐縮させるためです。ほとんどの方が、地獄に落ちるのを拒んだ方々ですからね」
「なっ、なんじゃそりゃ……」
麗子は、唖然。
「ちなみに、本当は単なる映像だということを言っちゃダメなんですよねぇ。畏怖させるための演出なわけですし。でも、麗子さんの場合はその必要が無いと思いまして。本当のことを言うと、いまのその真実を知ったときの顔が見たかった」
命は不敵な笑みを浮かべた。一方の麗子はムスッとしている。
「フフフッ。麗子さんは表情が豊かなので、からかいがいがあります」
「……それ、褒めてるの?」
「はい、褒めてますよ」
麗子はますます不貞腐れた。その姿がまた命を喜ばす。
「でっ!? ハデス様はどこにいるのよ!?」
麗子は不機嫌そうにたずねた。
「あちらです」
命は後ろを振り返り、遥か彼方を指差した。麗子もすぐに振り返り、まずは扉が消えていることを確認した。その後、彼が指差す先に存在するものを凝視する。
「………………ハァ?」
麗子は、長い沈黙の末におかしな声を漏らした。
そんな反応になるのも無理はなかった。何故なら、麗子がいま見ているものは、地獄のようなこの世界にはなんとも不釣り合いなビルだからだ。
まさに天空を貫く、とんでもなく高い“ビル”である。
「……えーっと、あれ、目がおかしくなったかな? 超高層ビルが見えるんだけど……」
麗子は、開けたままの目をぐりぐりと擦った。死者だからこそなせる業である。
「はい、ボクの目にもしっかり見えてますよ、超々高層ビルが」
豆知識だが、1000メートルを超えるビルは超高層ビルではなく、超々高層ビル(ハイパービルディング)と呼ばれる。
「……なんで、こんなところにビルがあるのよ?」
「あれがハデス様の居城なんです」
「あのビルが?」
「はい、あのビルが」
「……」
二人は、ほぼ同時に押し黙った。麗子は、片方の眉と口角をヒクヒクさせており、命は、嬉しそうにニッコニコ。
「なんでよっ!? なんでビルなの!? どこが城!? 場違い! 超々場違い!」
麗子は堪えきれず、弾けたように声を荒げた。命は、待っていたとばかりに拍手をした。が、音はしない。
「ハデス様、新しい物好きなんですよね。それに、かなりの負けず嫌い。ほら、ドバイに世界一のタワーが建ったじゃないですか。ブルジュ・ハリファ。828メートルの。で、俺ならもっと高いのが建てられるって、それで気まぐれに建てちゃったんです」
「大人げない……」
「まったくです。景観を損ねるなんてものじゃない。せっかくの冥府が台無しですよねぇ。たいていの方が、あれを見て呆然とし、同時にガッカリします。ここはやはり、ゲームとかに登場するような魔王の城のようなものがこう、ドーン! とあれば、ハデス様に対する恐怖心などをより煽れると思うのですが……」
「それはそれでちょっとなぁ……。ビルよりはマシだと思うけど」
「ですよねぇ。まぁ、飽き性なので、そのうちまた変わるでしょうけど。いい加減、この冥府の景色も変えたほうがいいと思いますし」
命は、そんなことをぶつぶつ呟きながら、彼方に見えるビルを目指して歩き出した。
「なんだろう、めんどくさいことになる予感がする……」
麗子は、一抹な不安にげんなりしつつ、命の後についていった。
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