第一章「死と風はふいに訪れる」 第八節
午後6時。
タクシーで駆けつけた愛莉に連れ出された麗子は、自宅近くの総合病院を訪れた。
外来診療もすでに終わっているので、正面玄関からではなく、裏の救急玄関にまわり、救急外来を利用する。
急を要する患者がいなかったので、そう待たされることはなく、当直医に左手首の傷を縫合してもらった。
傷は、動脈に達するほどの深いものではなかった。そもそも、もし動脈に達していたら、自分の足では病院に来られなかっただろう。
抜糸は一週間後で、その予約を取った。支払いは、持ち合わせが少ないので一部を預け、抜糸後に残りを支払うという形を取った。
二人が病院を後にしたのは、午後7時。来るときはタクシーだったが、距離が近いので徒歩で帰る。
麗子の格好を考慮し、なるべく人通りの多い道は避けて、住宅街を抜ける道を選んだ。
その道中、飲料水の自動販売機を見つけた。
喉が渇いていたのだろう、愛莉は足を止めて、ペットボトルのスポーツドリンクを二本購入した。
「いるよね? ――フタ、開けたよ」
愛莉は、キャップを取った一本を麗子に差し出した。
「ありがとう」
麗子は、一口、二口、三口と飲んで、充分に喉を潤した。
「ハァ……。麗子さぁ、いま、どんな気分?」
愛莉も喉を潤すと、軽く咳き込んでいる麗子を横目にたずねた。
「え? あ、えーっと……幻滅してる、自分に」
「そう。右に同じ。自分にじゃないけどね」
愛莉の言葉には厳しさがあった。
「どうして、こんなことしちゃったんだろう……」
麗子は、自分の左手首をうかがった。包帯が巻かれている。
「……その傷、痕が残るかもね」
愛莉は、ペットボトルを持っている右手で、麗子の左手首を指差した。
「うん……でも、仕方ないよ」
「それは、諦め?」
「ううん、違うよ。そうじゃなくて、この傷は残さないといけないと思って……」
「ふーん、じゃあ、受け入れるってことだ?」
「受け入れなきゃいけないと思う」
「……そっか。いいんじゃない」
愛莉は嬉しそうにし、左手を伸ばして彼女の頭を撫でた。
「子供扱いですか……これも、甘んじて受け入れますよ」
複雑そうにする麗子だが、嫌な顔はせず、素直に撫でられている。
大人の女性が、同じく大人の女性に頭を撫でられているという図は妙なのか、通りすがりの、多分中学生ぐらいの子供にジロジロと見られてしまった。
二人は恥ずかしくなり、そそくさとその場を後にする。
「……そういえばさ、愛莉、妙に詳しかったよね?」
「なんの話?」
「対処が的確だった話」
麗子は、自分の左手首を指差した。
「ああ……」
「もしかして、経験があったりするの?」
「バカ、そんなわけないでしょ。母が看護婦だからよ。私も一時期、看護婦を目指してて、そういう知識だけは人よりも豊富なの」
「えっ、そうなの? 初めて聞いた」
「言ってなかったっけ?」
「うん、聞いてないよ。……どうして、看護婦にはならなかったの?」
「いまは看護師よ」
「あ、そうなんだ――って、看護婦って先に言ったの、愛莉じゃん」
「私が看護師になるのを諦めたのはね、看護師という存在に対する理想が高過ぎたのと、気持ちのコントロールができなかったからよ」
「看護婦のことはスルーですか。――理想はなんとなくわかるけど、気持ちのコントロールってどういうこと?」
「看護師と言ったって色々あるけどさ、ほとんどが他人の生死にかかわるでしょ? 性別とか年齢は関係ない。中には幼い子供もいて、大人になれずに死んじゃったりする」
「う、うん……」
麗子は、“死”という言葉にざわつきを覚えた。無理もないが、敏感になっている。
「昔話だけど、高校のときの同級生でね、癌で死んじゃった子がいたのよ。仲良かった。お互い、将来の夢が看護師。どっちも母親が看護師だったからね。……でも、彼女はその夢を叶えられずに死んじゃった。私は当然泣いたよ、悲しくてね。それで彼女の分まで看護師になろうと思った。だけど、無理だった……」
「どうして……?」
「私にはね、看護師になる覚悟ができなかったの。他人の死をこれからも見続けなければいけないって思ったら、恐くなった……。母にも言われたよ。私は看護師には不向きだと。優し過ぎるし、弱過ぎる。ようはナイーブってこと。そんなんじゃ潰れるって言われた」
「潰れる……?」
「看護師はね、ナイチンゲールじゃ務まらないのよ。患者を第一に思っていても、どこかで一線置いて、ある程度の距離を保たないといけない。ある患者が死んで、それに悲しんだとしても、患者はその一人だけじゃないからすぐに気持ちを切り替えなきゃいけない。いつまでも固執してはいられないの。ようするに、器用じゃなきゃ務まらないのよ。それが看護師って仕事なの。――という言葉を聞いてね、私は諦めた。私には無理だって、なるべきじゃないって思っちゃったのよね。いま思えば、単なる言い訳だったのかもね。彼女の分までならなきゃいけないって思ったけど、それを理由に看護師になったら、もう辞められない。嫌々続けなければいけなくなったら、それこそ失礼でしょ。だから、看護師にはならなかった。怖かったんだろうねぇ……」
愛莉は、遠くを見つめた。
「そう、だったんだ……知らなかったよ」
「言ってないんだったら、知らないでしょうねぇ」
愛莉は、苦笑いを浮かべた。
「……まぁでも、おかげで、弟が怪我したときには重宝するし、今回も役に立ったから、目指していて損は無かったわね。……だけどさぁ、あらためて思い知ったわ。やっぱり、私に看護師は無理だね」
愛莉は、すっと肩をすくめた。
「なんで?」
「この手、見てみ」
愛莉は、小刻みに震えている両手を見せた。右手はペットボトルを持っている。
「アンタが手首を切ったって言ったとき……電話の向こうの様子を想像したとき、本当に怖かった。アンタが死ぬんじゃないかと思ったら、手が震え出して、胸の奥がおかしくなった。ほんともう必死だったよ。冷静じゃなかったね。咄嗟に処置の仕方を思い出したからよかったけどさぁ……」
空いている左手だけを、軽く振るった。
「看護師だからって、家族とか、友人にもしものことがあったら気が動転してもおかしくないけど、看護師なんだから助けなきゃいけないって思うし、それでもし助けられなかったら、一生後悔する。一生、自分を責める。そんなこと、私には耐えられない。だからさ、正直ホッとしてる。看護師にならなくてよかったって……」
愛莉は足を止めて、そばにあった民家の外壁に背中を押しつけた。
「愛莉……」
麗子もすぐに足を止めて、彼女の前に立った。
「ねぇ、麗子……お願いだからさ、今回みたいな馬鹿な真似、二度としないでよね。私、もう、親友を失いたくないよ……もう、恐いよぉ……」
愛莉の目が潤み、ほろりと、一粒の涙がこぼれ落ちた。彼女は、しまった、という顔をして、震える手ですぐに拭い、鼻を啜り、溜め息をつくなどして、無理にでも気を逸らし、涙を抑え込んだ。
「くそ、泣いちゃったじゃん」
愛莉は恥ずかしそうにし、誤魔化すように笑った。
「ゴメン……本当に、ごめんなさい。誓う。もう絶対、こんなことしない」
そのとき、麗子もまた涙していた。
「私も恐かった……。死んじゃうんじゃないかって思ったとき、本当に、怖かった……。あんな思い、二度としたくない……」
麗子は、ボロボロと大粒の涙を流した。住宅地を抜ける道で、人通りが少ないとはいえ、時間帯もあって通行人がチラホラ見られる。いまも、自転車に乗った主婦が通り過ぎていったが、訝しんでいた。
愛莉は人目を気にし、なんとか宥めて、泣くのを我慢させようと思うが、麗子の泣き顔を見ていると、それもどうかという気がした。
「……こうして、親友の泣き顔を下から覗くのって、意外といいね」
愛莉はその場にしゃがみ、麗子の泣き顔を覗き込んだ。目が合うと、歯を見せて笑った。
「その涙、親友の私だけに見せてもらいたいねぇ。だからさぁ、家までは我慢してよ」
「ぐすっ。……うん、わかった」
麗子は涙を拭い、鼻を啜った。
「ほら、さっさと帰るよ。お風呂の掃除をしなきゃいかんし、まだ何があったのか聞いてないし」
愛莉は立ち上がり、麗子の頭をくしゃりと撫でた。
「うん……」
二人はまた歩き出した。
「ねぇ、お風呂の掃除を代わりにやってあげるし、愚痴も聞いてあげるし、今日は泊まっていってあげるからさ、宅配でなんでも好きなの頼んでいいよね?」
愛莉は歩みを止めずに後ろを振り返り、またニカッと笑った。
「え……」
「ん? なんだね、その顔は? まさか、よもや、命の恩人でもある親友の頼みが聞けないというのかね……?」
愛莉は目を細め、じとーっとした眼差しで睨んだ。
「わっ、わかりました……頼んでいいです」
麗子は気まずそうにし、小さく頷いた。
「素直でよろしい」
愛莉は満足げな顔をし、また正面を向いた。
「ねぇ、麗子」
「なに?」
「人間ってさぁ、100歳を超えて、色々と鈍くなってるときに、ポックリ逝くのが一番だと思わない?」
「えっ、100歳まで生きろと?」
「うん、そう。これ決定。約束だかんね」
「えー、それはさすがに難しいって」
「じゃあ、99歳」
「ぜんぜん変わらんじゃん。一年だけじゃん」
「えー、じゃあ、88歳で米寿とか?」
「あー、それならなんとか生きれるかも。不摂生は禁物だね」
「せめてもう10年ぐらいがんばんなさいよ」
「無茶言うなぁ。99歳ともなれば運も関係してくるよ。私、運悪いし」
「うん」
「……言うと思った」
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