第一章「死と風はふいに訪れる」 第九節
一週間後、麗子は抜糸のために病院を訪れた。今度は一人で、付き添いはない。
一週間前、前回訪れた日の翌日から、麗子は会社を休んでいる。気まずさもあるのだが、左手首の傷のことがあるので、大事を取ったのだ。ちょうど有給休暇もたまっていた。
課では唯一事情を知る課長に連絡し、精神的なショックを理由にその許しをもらったのだが、その際、せめてもの復讐とばかりに、自分の仕事を例のバカな新人に任せるよう、進言した。課長は渋っていたが、退職に応じた恩義があるので断われず、そのときは要望を聞き入れてくれた。実際にそうなったかは確認していないのでわからないが、それでも、いまの麗子には充分だった。
(今頃、四苦八苦してるでしょうね。ざまあみろ)
麗子は、その思いを武器とし、抜糸の痛みと恐怖を相手に戦っていた。
「目立つかもなぁ」
病院からの帰り道。
麗子は、腕時計を確認するように左手首をうかがい、つぶやいた。
包帯は取られ、いまは白い大きな絆創膏のようなものが貼ってある。
抜糸のときに見えた傷は治りかけということもあり、まさに傷と呼べる生々しいもので、手首という場所もあるので、今後何かの拍子に見えそうで不安だった。
「ほんと、自業自得……」
長い年月を経て、傷が目立たなくなるまでの間、ずっと気にして生きなければいけないだろう。もしかしたら一生かもしれない。だが、それは自分の愚かな行為が招いた結果であり、二度とあんな馬鹿な真似をしないためにも、残しておかなければならない。
「腕時計で隠せるかな……? ベルトの太いのに買い換えたほうがいいかもなぁ」
普段つけている腕時計を手首に巻いたところを想像し、小首をかしげた。
その腕時計は、いまの会社に勤めて初めてもらった給料で買ったもの。可愛らしいが、どこか大人びた印象のあるタイプで、ベルトの部分は太めのチェーンになっていて、ハート形のピンクダイヤがついている。もちろん、イミテーション。
「……無理っぽい」
とてもじゃないが隠せるとは思えず、かえって目立つ気がした。
「今度は退職金で買うことになるなんてねぇ……」
偶然にしては見事な皮肉だと思い、鼻で笑った。
横断歩道を渡ろうとしていた麗子は、歩行者用信号機が点滅しているのに気づいた。
まもなく赤になったので、足を止めた。
大きな十字路の片隅――歩道に佇んでいる麗子の背中には、悲愴感が漂っている。
十字に行き交う車や、立ち止まっていたり歩いていたりする通行人を眺めながら、早く青になれと、それだけを考えていた。左手首の傷を見られるのを恐れてのことだ。
「うおっ」
麗子は驚き、声を漏らした。小声だったので、周囲の人におかしな目で見られることはなかったが、一応気にしつつ、右手でジーパンの後ろのポケットを探り、震えている携帯電話を取り出した。
「お母さんか……」
誰からの着信かを確認した麗子は、めんどくさそうな顔をした。憂鬱にも見える。
「……はいはい、なんでしょうか?」
周囲の人を気にして、小声でマイクに喋りかける。
『レイちゃん? お母さんだけど』
「わかっとるわい。お母さんのケイタイじゃん」
麗子は、いつも注意するけど変わらない母に呆れつつ、安心もした。
『病院にはちゃんと行ったの?』
「うん、ちゃんと行ったよ。ちゃんと抜糸してもらった」
『傷はどうなの? 上手な人に縫合してもらったの?』
「いや、上手かどうかはわからないけど、ちゃんと塞がってるよ」
『そういうことを言ってるんじゃなくて、傷が残らないかどうかってこと。レイちゃんは女の子なのよ? 嫁入り前なのに、そんなみっともない傷を……』
「……」
麗子は息を飲んだ。
(みっともない、か……。そうだけどさぁ、言われるとグサッと来るねぇ……)
「ゴメンね、みっともない真似してさ」
麗子は、反撃とばかりに毒づいた。
『あ……違うのよ! そういうことじゃなくてね、レイちゃんは女の子なんだから、もし傷が残ったりしたら、これからのこともあるし、良くないと思って、それで……』
スピーカーから慌てた声が返ってきた。
(さすがに気づいたか……)
「……別にいいよ。気にしてないし、確かにみっともない。自分でもそう思うよ。大変なことをしたよ、ほんと。お母さんに悪気が無いのはわかってるから。私の将来のことを思って言ってくれたんでしょ? それはちゃんとわかってる。だから、次からは気をつけてね。お願いだから。いまは勘弁して……」
『……ゴメンね……』
スピーカーから落ち込んだ声が聞こえてきた。それを聞いた麗子は、溜め息をこぼした。苛立ったわけじゃない。落ち込ませる原因を作ってしまったことを、あらためて反省し、後悔したのだ。
その間に信号が青に変わり、周囲の人々が一斉に歩き出した。
「お母さん、私いま、外にいるの。病院からの帰り。用件はなに? もし、ちゃんと病院に行けってことなら、一度切りたいんだけど」
麗子は、一人遅れて横断歩道を渡る。
『あっ、あのね、お父さんとも相談したんだけど、一度こっちに帰って来ない? いまはほら、左手が使いにくいでしょ?』
「え……いや、別に、そんなことないけど……」
横断歩道を渡り切ると、歩道で足を止め、次に渡ってくる人の邪魔にならないように、端へ移動した。
(家に帰ったら、お父さんからの説教が待ってるだろうしなぁ……)
麗子は、角にあるガードレールに腰かけた。
『そんなこと言わないで、一度帰ってきなさい。帰ってきて! ちゃんと顔を見せてちょうだい、お願いだから!』
「お母さん……」
『あと、ちゃんとお父さんに叱られなさい!』
「うう、叱られるのは決定なのね……」
『当たり前です! 叱ってもらえるだけマシと思いなさい!』
「……うん、そうだね」
『とにかく、一度帰ってきて、無事な姿を見せてちょうだい』
「わかった。じゃあ、明日、そっちに帰るから」
『美味しいの、作って待ってるからね』
「うん……」
麗子は、携帯電話を耳から離すと、少し間を置いてから電話を切った。
(28にもなって親に心配かけるなんて、ほんとに情けない……)
腰を浮かせて、携帯電話をジーパンのポケットに押し込んだ。
(帰ろう。……あ、なんか買い物でもしてこうか。おみやげとか)
正面に見えている道と、右手の、さっきまで正面だった道を交互に見やる。
正面の道を進めば駅に行き着く。右手の道は自宅。距離的にはそう変わらない。
(このまま帰りたくないなぁ……おみやげのついでに、腕時計でも見ようかな。……あっ、そうだ、マスターにちゃんと謝っておかなきゃ! あの店に通えなくなるのだけは嫌! 絶対、嫌だ!)
麗子は喫茶店のことを思い出し、駅に向かうべく一歩を踏み出した。――と、その途端、右足の裏に、グニュッ、という嫌な感触がした。
「うっわ……」
その一歩を戻したところ、わずかだが、何かに引っ張られた気がした。
(ああもう、間違いない……)
その感触には覚えがあった。
右足を上げて、後ろを振り返る形で履いているスニーカーの裏を確認したところ、見るからに粘着質なガムがベッタリとくっついていた。
「なんで……?」
麗子はがっくりと項垂れると、またガードレールに腰を下ろした。立っている気力を失ったのだ。
(ハハッ、不運は健在だねぇ、ったくぅ……!)
半ばやけくそになりながら、どうにかしてこのガムを取れないかと思案する。
まずは自分の所持品を思い出して、ティッシュなどを持っていないことを確認した。次に、そのティッシュなどをどこかで手に入れられないかとコンビニを探すも、こんなときに限って、周囲に見当たらなかった。大通りなのに。
どこかの店のチラシを配っている若い女性を見つけたが、後ろの――道路を挟んだ向かいの歩道で、しかも反対車線。さすがに、ガムを取るためだけにあそこまで貰いに行こうとは思えなかった。
麗子は、あらためて自分の不運を呪い、ある意味見事だと感心までした。
どうしたものかと考えを続け、ふと思い出した。テレビでやっていたのだが、靴の裏にガムがついてしまったときは、レシートを使って取ればいいとか。
すぐにサイフの中を確認し、数枚のレシートを発見した。その中でも一番大きくてぶあつそうなのを選んだ。脱いだスニーカーを手に持って裏返し、そのレシートをガムの上に置いて、軽く押さえつけた。その状態でもう一度履き、何度か踏みつけた。そして、もう一度脱いで持ち上げ、裏返し、そのレシートをシールのように剥がしてみた。するとどうだ、ほんのわずかに残ったが、気持ちいいぐらいしっかりと取れた。
「いぃやったぁ……!」
喜びと達成感のあまり、拳を作ってしまった。そして、こんなくだらないことで喜んでしまった自分が途端に情けなくなった。しかも、たまたま信号待ちをしていた中学生ぐらいの少女に横目にチラリと見られたので、恥ずかしくて恥ずかしくて。
急いで残りのガムを取ってこの場から立ち去ろうとしたのだが、突如、全身を震わせてしまうほどの大きな物音が背後で上がった。
反射的に振り返ったところ、大型トラックが、こちらに迫ってきていた。
「え……」
刹那、先頭が急激に右に曲がり、そのまま全体で横倒しになった。後ろに積んでいたコンテナが道路を穿ち、アスファルトを削って火花を散らしながら、目前に迫る。
麗子は、後ろを振り返った体勢のまま、バランスを崩したように倒れて尻餅をついた。見開いたその目で、迫り来るコンテナをただ見つめるばかり。
麗子は、“死”を覚悟した。
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