第一章「死と風はふいに訪れる」 第七節
玄関から洗面所にかけて、衣服や下着が抜け殻のように散らばっている。それを辿った先にはバスルームがあり、シャワーの音が絶え間なく聞こえていた。
曇りガラスの向こうに人影が見える。それは素っ裸の麗子だった。
タイル張りの床に座り込んで、熱いぐらいのシャワーを頭からかぶっている。濡れた黒髪はまるで海藻のようで、丸くなった背中や、肩から胸にかけてぺたりと張りついていた。
その目は虚ろで、渦ができている排水溝のあたりを見つめるばかりだった。
どれぐらいそうしているのか、手足はすっかりふやけてしまっていた。けれど、そんなことは気にもせず、そもそも気づかず、魂を失ってしまった亡き骸のように、ただそこにいる。――もとい、ただそこにあるだけだった。
しかし、あるとき、その失った魂を取り戻して人に帰った。
バスルームの外から聞こえてきた電話の着信音に気づき、我に返ったのだ。
「………………電話? 誰? ……あ、そうだ、愛莉との約束が……別にいいや。もう、めんどくさい……」
うわ言をつぶやいているようだが、ともあれ現実に戻れた麗子は、シャワーを浴び続けているいまのこの状況にも飽き、めんどくさく思えたので、いい加減やめることにした。
床や壁に手をついてのっそりと身体を起こし、立ち上がる。出しっ放しのシャワーを止めるべく、前かがみになって手を伸ばした。
そのとき、正面の壁に備えつけられた鏡に映る自分を見た。泣き続けたこととシャワーで目は充血し、厚ぼったい。その上、メイクをしたままなのでグシャグシャだ。
我ながらひどい顔だと思い、鼻で笑った。
メイクを落とそうと思った。まずはシャワーを止めて、ノズルに手を伸ばし、低い位置に移そうとしたのだが、その際に例の指輪が目に入り、つい注目した。
小さなルビーが一粒だけ埋め込まれた、シルバーリング。
それは、24歳の誕生日に、誠斗からプレゼントされたものだった。
誠斗との思い出が、まるで走馬灯のように頭の中を駆け巡った。望んでもいないのに。
それは突然込み上げた。凄まじいまでの憎しみ。それが怒りを生んだ。憤怒だ。まさに堪忍袋の緒が切れたように、逆鱗に触れられたように、瞬間的に頭に血がのぼり、自分を制御できなくなった。
気づけばノズルを掴み、無様な姿をしている自分を叩き割っていた。
「フゥー……! フゥー……!」
あまりの興奮で呼吸が荒くなる。一時的に全身の筋肉を硬直させたので震え、脱力し、その手にしていたノズルを落とした。それは床に散らばっている鏡の破片に落ちて砕き、より小さなものに変えた。
その音に気づいたように足元をうかがい、自分を映す無数の鏡を覗き込んだ。
飛び散った破片で切ってしまったのだろうが、麗子の肌はところどころが傷ついていた。頬や、二の腕や、太もも。皮膚が裂けて、ごくわずかだが出血している。身体が濡れているので流れ落ちるのが早く、散らばっている破片の中には赤く染まっているものもあった。
興奮が抑制しているのか、痛みはほとんど感じていない。
息を整えた麗子は、指輪を外してその場に捨てた。落ちた指輪は破片の一つに当たって小さく跳ねて回転し、そして動かなくなったのだが、埋め込まれているルビーが、その色合いから、まるで一滴の血のように見えた。
その光景を目にした麗子は、奇妙な感覚にとらわれた。耳元で、誰かに何かを囁かれたようだった。途端に身体の感覚が薄れ、意識もどこかぼんやり。視界も狭まった。貧血を起こしたときの感覚に近く、頭の奥がチリチリする。それでいて、ある欲求が心を満たし、それを成し遂げようとする意志だけが残り、他の自我を奪われた。ためらいや、迷いといった自制心も同時に消失した。
前かがみになって右手を伸ばす。捨てた指輪を拾うのかと思いきや、取り上げたのは、その下にあった大きな破片だった。ナイフのような形をしたそれを握り締めると、上体を起こし、左手を上げ、割れたことで鋭利になった破片をその左の手首に押しつけて、血で、真一文字を描いた。
鮮血があふれだし、床に散らばっている破片を赤く塗りつぶした。
その光景を眺めていた麗子は、ほくそ笑んだ。
不思議と高揚感が込み上げて、からっぽだった心が満たされた気がした。
死のうだとか、そんなことは毛頭無かった。ナイフのような破片と、血に見えた指輪から、単にいまの状況を連想したに過ぎない。
それと、無能の烙印を押された無様な自分に対して、罰を与えてやりたかった。無性に自分を傷つけてやりたかった。
裏切られたことへの腹いせだった。こんな愚かなことをしたと知ったら、どんな顔をするのだろうかと思った。困らせてやりたかった。事を大きくしてやりたかった。後悔させてやりたかった。
自殺をはかったら、誰かが心配してくれるんじゃないか。哀れんでくれるんじゃないか。もしかしたら、結果が変わるかもしれない。そうなって欲しい。――ただ、それだけのことだったのだ。
麗子はいま、無心だ。純真なまでに何も考えず、流れ落ちる血だけを眺めており、考えることを放棄していた。この先にどんな結末が待っているかなんて、そんなことは気にもせず、自分の血を使って点描をえがくことを楽しんでいる。
そのとき、先ほど聞こえた電話の着信音が、再び聞こえてきた。
(……電話?)
気づき、電話を連想した瞬間、麗子はまた我に返った。自分がいま置かれている状況を理解したその途端、感電でもしたかのような衝撃が全身を駆けめぐり、脳天を突き抜けた。身悶えるほどの激痛に襲われたのだ。失われていた痛覚が戻った。
「なっ、なんで……? なんでこんなこと!?」
苦痛が涙を誘発し、驚き、戸惑い、困惑、後悔と次々に抱かせた。
とんでもないことをしてしまった。あまりのことに気を失いそうだった。
「どうしよう……!? どうしようぉっ!?」
狼狽し、とにかくバスルームを出ようとする。――が、床に散らばる破片のことを失念していて、踏みつけてしまった。
呻き声を漏らし、咄嗟にバスタブに寄りかかった。左手が使えず、右手だけで身体を支えたので、危うかった。
足の裏の痛みから何かが突き刺さったことを察し、ようやく破片の存在を思い出した。注意しながらなんとかバスタブに座り、足の裏を確認すると、やはり破片が突き刺さっていた。幸い小さなものだったので、苦痛を堪えて抜き、くっついている破片も取り除いた。
手を伸ばして扉を開け放ち、床の破片を踏まぬようにして外の洗面所へ出た。
足ふきマットが真紅に染まる。
痛みを恐れ、無事な片足に重心を預けながら、手を伸ばしてタオルを取った。それで手首の傷を押さえて、右手と口を使ってなんとか縛った。もちろん痛むが、常に痛いので、もうわけがわからない。
タオルもまた、見る見るうちに真紅に染まる。
それを目の当たりにした麗子は、いまになってようやく恐怖を覚えた。“死”を意識し、身近に感じた。恐れから膝が震えて、その場に崩れそうになった。
どうしていいかわからない。無力さを思い知り、誰かに助けを求めたかった。
そのとき、三度電話が鳴った。
麗子はハッとし、慌てて洗面所を飛びだした。片足になり、壁に掴まるなどしてなんとかリビングへ、電話の元へと辿り着いた。
「助けて! 愛莉、助けてぇっ!」
そして、受話器を取るや否や、それが誰かもわからず、確認もせぬままに叫んだ。
『えっ、ちょっ、なに!? どうしたの!?』
スピーカーから聞こえてきたのは女性の声で、紛れもなく愛莉だった。
「どうしよう……手首、切っちゃった……血が、止まらなくて……」
愛莉の声を聞いて安心したのか、麗子は力が抜けて、その場にへたり込んだ。
『は……? なっ、なによそれっ!? えっ、えーっと……えーっと……あっ、ベルト! ベルトを探して! あるでしょ!? なるべく太いの! それで、傷より上を強く縛りなさい! あっ、その前に電話をスピーカーホンにして!』
麗子は、言われるままにスピーカーホンに切り替え、受話器を捨てた。クローゼットにベルトがあるのを思い出し、這うようにして寝室へ向かう。
「………………ベルト、あったよ」
『あったの!? もう縛った!? まだなら、まずは輪っかを作ってから通しなさい! そのほうがやりやすいから!』
床に置いたベルトに腕を乗せて、片手だけで締めようとしていた麗子は、その助言に、なるほど、と思った。早速実践し、まずは輪っかを作ってから腕に通す。確かに、そのほうがやりやすいし、なにより早い。
『きつくてもいいから縛って! 時々緩めるとか、いまは考えなくていいから!』
麗子はまた言われるままに行動し、ベルトをぎゅっと締めた。
『締めた!?』
「うん、締めたよ……」
麗子は、床を這うようにして寝室から顔を覗かせた。
『そう……じゃあ聞くけど、出血はどんな感じだった? いまじゃなくて、血が出てるときよ。どんな風に出てたの? 吹き出してる感じ? あふれ出る感じ?』
「えっと……あふれ出る感じ、だったと思う」
『そう、よかった。それじゃあ、動脈は大丈夫ね……よかった!』
スピーカーから溜め息が聞こえてきた。
「愛莉、ゴメン……私、なんでこんなこと……」
『まったくよ! アンタがそんな馬鹿なことをする子だとは思ってなかった! ……何があったのか知らないけど、そんなことするぐらい辛いことがあったの?』
「うん……うん……」
麗子は、泣きながら何度も頷いた。
『……麗子、いまそっちに向かってるから。タクシーに乗ってすぐに行く。大丈夫だと思うけど、私がつくまでにめまいがしたり、目がかすむようなことがあったらすぐに言いなさい。救急車を呼ぶから』
「来て、くれるの……?」
『当たり前でしょ! そんなことより、いま、どんな格好してるの? 外に出られる?』
「あ、いま、裸……」
『裸? お風呂に入ってた? 濡れてるの?』
「うん、ビショビショ……」
『じゃあ、服を着なさい。すぐに病院へ行くから。シャツにジャージでいいわよ。あるでしょ? シャツはともかく、ジャージは袖を通さなくていい。あと、下着はつけなくてもいい。恥ずかしいのなら、頑張りなさい。それで、待っている間に髪だけでも乾かして。タオルで拭くだけでいいから』
「うん、わかった……」
麗子は、もう一度這ってクローゼットの前に移動した。なんとか立ち上がり、足の裏が痛むので少し斜めに立ちながら、室内着として使っている着古したシャツを二枚、パンツ、ジョギングのために買ってあったジャージを引っ張り出した。シャツ一枚を手元に残し、あとは、そばにあるベッドへ投げた。
残したシャツをタオル代わりにし、濡れた髪を拭った。
『それと、電話は切らないで。私がつくまで、そのままにしてなさい。お互い、声が聞こえないと不安でしょ?』
リビングから聞こえてきた愛莉の声に、その言葉に、麗子はまたも涙する。
「愛莉……」
『なに?』
「ほんとにゴメンね……ありがとう……」
『……謝罪と感謝は、後であらためて聞くわ。病院に向かうタクシーの中でね。そのとき、もう一度泣かすから。説教でね。覚悟しなさい』
「うっ、うん……」
『なに、怖い? 当たり前でしょ。私ね、いま本気で怒ってるから』
「ごっ、ゴメン……ごめんなさい……」
『……だけど、正直ホッとしてる。嬉しい気持ちも少しだけどある。それがまたむかつくけどね! でも、アンタが死んだって聞かされるよりは、ずっとマシ!』
麗子はべそをかきながらベッドへ行き、パンツとズボンをはいて、もう一枚のシャツを着た。左手を通すときは、おっかなびっくり。着古したものだから、袖口が伸びて広がっていたので、なんとか手もベルトも通せた。手首を動かしたのでもちろん痛かったが、慣れてしまったのか、感覚が麻痺しているのか、さほどでもなかった。
『あ、忘れてた。着替えたら、サイフとか鍵とか、必要なものだけをいつものポーチにでも入れておきなさい。保険証も入れるのよ。あと、診察券もね。確か、アンタのところの近くに総合病院があったよね?』
「うん、あるよ。わかった、ちゃんと用意しとく」
『ハァ……。まったくもう、いますぐにでも酔いたい気分よ……』
「私も……」
『アンタはダメよ! 当分、ダメ! 禁酒だからね! これは罰! あと、次のボトルは絶対にアンタ持ち! いつもより高いヤツだからね!』
「うう……甘んじてその罰を受け入れます」
『あったりまえじゃ!』
叱られてしょんぼりする麗子だが、その表情には微笑みがあった。喜びを感じてしまっているのだ。不謹慎だと自覚はしている。愚かな真似をして、本当ならば笑うことも許されないと、そう思ってもいる。だけど、愛莉とまたこうして会話できるのが嬉しくてたまらなかった。
一方では、もしかしたら、二度とこうして話をすることができなくなっていたかもしれない、という恐怖に怯えていた。
勝手に涙が出て、全身が震えてしまう。吐き気すらももよおした。
麗子はいま、初めて意識した死に苛まれているのだ。
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