第一章「死と風はふいに訪れる」 第六節

 午後3時35分。

 電話から20分ほど経過したとき、出入り口の扉が開いた。

 ベルの音が鳴ったので、店内の二人はほぼ同時にそちらを見やった。

 扉の前には一人の男が立っていた。スーツ姿の若い男で、年は、麗子と同じぐらいの、20代後半から30代前半。背は高めで、細身だが華奢には見えない。一見、真面目で、仕事ができそうなタイプである。

「誠斗……」

 彼を見て、麗子は小声でその名をつぶやいた。

「あの、入っても構いませんよね?」

 誠斗は――葛木 誠斗は、扉にかかっている《CLOSE》の札を指差し、カウンターにいるマスターにたずねた。

「どうぞ」

 マスターは、麗子がいる一番奥のテーブルを勧めた。

「すみません。……あ、エスプレッソを」

 誠斗は、麗子の元へ向かおうとするも、思い出して注文をした。

 マスターは頷くと、後ろの棚にあるエスプレッソ用の小さなカップに手を伸ばした。

「ゴメン、待ったか?」

 誠斗は、麗子の向かいに座った。

「ううん、そんなことない……」

 麗子は、俯き加減で小さく首を振った。久しぶりに会ったから、気まずくて、顔を見ることができない。それは誠斗も同じらしい。お互い変に意識しているようで、妙な空気が流れている。沈黙が生み出す静寂が重い。

 マスターがエスプレッソの抽出に取りかかったので、一時的だが静寂は破られた。


 マスターがトレイを手にやってきた。ミネラルウォーターが入ったグラスと、エスプレッソ、伝票の三つを誠斗の前に置いた。マスターも二人のことが気になるが、自分が口出しできることじゃないし、許されないから、すぐにその場を離れた。

 カウンターに戻るとき、例の札が気になったが、いまは二人きりにしてあげようと思い、そのままにしておいた。そして、自分がいると邪魔だろうし、居た堪れないので、トレイをカウンターに置くと、すぐに奥の事務室に引っ込んだ。

 再び静寂が訪れた。BGMの、森の音が流れているだけだ。

「……マスター、気を遣ってくれたみたいだな」

 先に沈黙に堪えられなくなったのは誠斗だった。そうつぶやくと、エスプレッソに手を伸ばした。

「ハァ……。この店のはやっぱり美味いな。苦いけど、不思議と優しい」

「……うん。私も、そう思う」

 二人は、ようやく顔を見合わせた。

「ここんとこ、会えてなかったけど、元気か?」

「んー、そうでもない、かな」

「そっか。俺は普通かな」

「そう。……あ、髪、切った?」

「え? あ、うん。一週間前だけど」

 誠斗は、眉毛にかかりそうな前髪をそっとつまんだ。

「仕事、まだ忙しいの?」

「うん、まぁな。でも、少しはマシになってきたかも。麗子のほうは?」

「私は……忙しかった、かな」

 麗子は意味ありげなことを言い、笑って誤魔化した。

「?」

「余裕ができたってこと」

「ああ……」

 事情を知らない誠斗は、間違った意味で納得した。

 見栄を張ったわけではないが、いまはリストラされることを打ち明けたくなかった。

「……ところで、大事な話ってなに?」

 麗子は、仕事から話題を逸らすためにも本題を切り出した。

 すると、一瞬だが、その場の空気が張り詰めた気がした。

 誠斗は返事に詰まり、それを誤魔化すようにエスプレッソを一口。

(緊張するなぁ……。嫌な感じ。なんか、似てる……)

 麗子は、昼過ぎにも覚えた緊張感に苛まれた。

「………………あの、話だけどさ、実はな、その、俺、麗子に謝らなきゃいけないことがあるんだ」

 誠斗は、カップをソーサーの上に戻すと、暑くもないのにかいた額の汗を拭った。

「ゴメン……実は、俺、浮気してたんだ……」

 動揺を見せていた誠斗は、その言葉を喉の奥から絞り出した。

「え? ……え……」

「ゴメン! 本当にゴメン! 麗子のこと、裏切った……」

 誠斗は、テーブルに両手をついて頭を下げた。

「最初は、課の皆で飲みに行ったときに酔った勢いで、つい……」

 下げた頭をさらに下げてテーブルに押しつけたため、ゴツンという音がした。

 誠斗の姿を――頭頂部を見つめて押し黙っている麗子だが、その目の焦点が定まっておらず、小刻みに揺れている。

(そっか……浮気、してたんだ。だから……そうだったんだ)

 そのまま、しばらく呆けていた麗子だが、ようやく状況を理解したようで、目の焦点も定まった。けれど、頭の中はほぼ真っ白で、心ここに非ず。

(浮気か……そう、浮気だったんだ。じゃあ、違うんだ、そっか……あっ!)

 プロポーズじゃないかと期待した自分も含めて落胆した麗子は、あることに気づいてハッとした。

 テーブルの下でずっと両手を組んでいたのだが、指輪を左手の薬指にしたままであることにいま気づいたのだ。途端に恥ずかしさがこみ上げ、顔が真っ赤になった。誠斗はまだ頭を下げているので、赤面に気づいていない。彼が来てから左手は一度も出していないので、そちらも気づかれていないだろう。それを知って心からホッとすると、急いで、指輪をいつもしている右手の薬指に移した。

(私、なにしてるんだろう……)

 事無きを得てホッとした麗子だが、いまの自分の姿に気づき、情けなくて堪らなくなった。我ながらかわいそうに思えた。それでいて、女らしい夢を見てしまったことが、女子らしくて可愛くも思えた。

「麗子……?」

 名前を呼ばれ、現実に意識を戻した麗子。見ると、誠斗が顔を上げている。

「……別に、いいよ。許せないし、怒ってもいるけど、してもおかしくない状況だったし。それに、ちゃんと謝ってくれたから、もう、それで充分……」

 麗子は、誠斗の目をあえてまっすぐに見つめて言った。

(これ以上揉めたって仕方ないし……めんどくさい)

「それで? どうするの? 別れる?」

 さっさと話を終わらせてしまおうと思い、急かす。

「あ、ああ……。そのほうがいいと思う。お互いのためにも」

「うん、そうだね。じゃあ、別れましょ」

(やり直すのは無理。気まずいし、気持ち悪い……)

 麗子は、誠斗に対して抱いていた愛情が見る見る削(そ)がれ、嫌悪に変わるのを自覚した。

「ゴメン……」

「うん」

 麗子は小さく頷くと、脱力したように椅子にその身を預け、目を閉じた。目の前にいる誠斗の姿をこれ以上見たくないのだ。いわば現実逃避だった。これ以上嫌いになりたくないし、幻滅したくない。無理な話だが、見なければまだマシだと思った。

「――もう一つ、謝らないといけないことがあるんだ」

 すると、閉ざされたまぶたの向こうから、誠斗の声がした。

(えっ、なに、まだあるの……?)

「……なに?」

 麗子は、顔を俯かせて目を閉じているいまのまま、聞き返した。

「その……浮気した俺が全面的に悪い。だから、本当はこんなことを言える立場に無いってわかってる。わかってるけど……実は俺、結婚するんだよ。その、浮気の彼女と……。妊娠したんだよ、彼女が。俺の子なんだ。それで、ちゃんと責任を取らなきゃいけないと思ってる。でも、義務的とかじゃなくて、本気なんだ。本気で父親になる。なりたいんだ。……だから、麗子のこともちゃんと責任を取ろうと思ってる。男として、ちゃんと過去を清算するつもりだ。慰謝料とかも払うつもりでいる」

 誠斗は、スーツのポケットから一枚の名刺を取り出し、テーブルに置いた。

「これ、お世話になっている弁護士の名刺。連絡してくれたら、ちゃんとやってくれるように話を通してあるから」

 誠斗は、その名刺を麗子の近くまで滑らせた。一方の彼女は、同じ体勢のまま押し黙り、なんら反応を示さない。

「ゴメン……本当に、ゴメン。謝ることしかできない。………………とにかく、そういうことだから」

 誠斗は、長い沈黙の後、懐からサイフを取り出し、自分のエスプレッソの代金を伝票の上に置いた。ちょうどの金額だ。

 まもなく椅子を引き、席を立った。

「いままでのケイタイは今日で解約するから。もし、俺と連絡を取らなきゃいけないときは、その名刺の弁護士に連絡してくれ……」

 最後にそう言い残し、その場を後にした。麗子のことが気になるのか、それとも後ろめたいのか、はたまた両方か、店を出ようと扉に手をかけたとき、後ろを振り返り、彼女のことをしばし見つめた。

 扉のベルが、悲しい音色を奏でた。

 その音を聞いた麗子は、ようやく目を開けた。すると、涙があふれ出して、滝のように流れ落ちた。

「………………これは、あんまりだよ」

 にじむ視界。

 胸を濡らす涙。

「いくら、運が、悪い、からって、こんなのって……ひどいよぉ……」

 麗子が嗚咽に苦しんでいるとき、奥の扉が開いて、マスターが顔を覗かせた。

「立花さん……」

 マスターは知っている。覗くような無粋な真似はしてないが、二人の会話は、事務室にいる彼にも聞こえていた。

 重い足取りで店内に現れたマスターは、麗子に歩み寄り、まるで腫れ物にでも触るような手つきで、肩に手を伸ばした。

「ダメッ!」

 その途端、麗子は声を上げた。マスターは驚き、すぐに手を止めた。

「……ごめんなさい。でも、いまはダメ。いま、触られたら……いま、優しくされたら、本当にもうダメだから……これ以上、迷惑かけたくないんです……」

 麗子は、その言葉を喉の奥から絞り出した。マスターは、その手を静かに戻した。

「ありがとう、ございました」

 麗子はお辞儀をすると、バッグからサイフを取り出し、千円札を二枚抜いて、自分のほうの伝票の上に置いた。一杯分のコーヒーの値段しか書かれていない伝票である。その手で例の名刺を取り、サイフもろともバッグに突っ込み、今度はそのバッグを掴んで、席を立った。出入り口に向けて歩き出すも、途中で足を止めて、振り返った。

 潤んだ瞳でマスターを見つめ、麗子はもう一度お辞儀をした。

「コーヒーとホットケーキ、ごちそうさまでした。とても、美味しかったです」

 麗子はきびすを返し、早々と店を後にした。

 窓ガラスの前を横切った麗子は、ひどく泣きじゃくっていた。

「!?」

 そのときだ、マスターは何かに気づいた。慌てて外に飛びだし、サングラスを外した。まばゆさに目を細めながら、遠ざかる麗子の後ろ姿を確認した。しかし、見えるのは彼女の背中ではなく、煙のような、靄のような、黒々とした揺らめくものだった。何かが、彼女の姿を覆い隠している。

「……そんな……」

 マスターは、その表情を悲しみの色に染めて、ぽつりとつぶやいた。

 麗子の姿が見えなくなると、サングラスをかけ直した。

「……さようなら」

 かけがえのないものを失ってしまった。そんな表情を浮かべて、またぽつり。

 店内に戻ると、かけられている札を裏返し、《CLOSE》を《OPEN》に変えた。

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