第一章「死と風はふいに訪れる」 第五節
「美味しかったぁ……」
なにも乗ってない皿と、底が見えるカップを前にし、麗子は一息ついた。
心の中で渦巻いていた嫌な気持ちが、無くなりはしないものの軽くなり、その表情も、訪れたときに比べるとずっと晴れやかなものになっている。
「あっ」
そのとき、麗子は何かに気づいて声を漏らした。
蜂が飛んでいるときのような音が隣から聞こえてくる。
視線の先にはバッグがある。
それが携帯電話のバイブレーションだとすぐに察した麗子は、素早く取り出し、誰からの着信、もしくはメールなのかを確認した。
すると、それはなんと、恋人である誠斗からの着信だった。
「え……あ、えっ!?」
麗子は、突然のことに戸惑ってしまった。
まずぎこちない会話になるだろうから、電話に出るのをためらってしまう。
何を話せばいいのかわからない。これ以上こじれたらどうしよう。不安はそれだけじゃない。いまのこのタイミングというのが怖かった。今日は不運が続いている。この電話もその一つかもしれない。それを思うと恐ろしくて、通話ボタンを押すことができない。
(……でも、話したい)
それでも、誠斗の声が聞きたかった。
本心では恋い焦がれている麗子。悩んだ末に通話ボタンを押した。
すぐに、スピーカーの部分を耳に近づける。
「………………どっ、どうしたの?」
気まずくて、すぐには喋れなかった。
『……あっ、あのさ、いま、いいかな? 仕事、忙しい?』
それは相手も同じらしい。スピーカーから聞こえてきた若い男の声もまた、どこかたどたどしい。
「仕事? ……あ、ううん、大丈夫。いまはヒマ……」
嘘と真実を織り交ぜて、麗子は答えた。少し、心が締め付けられた気がした。
『じゃあ、いま、話せるか?』
「うん、大丈夫だよ。話せる。もう話してるけど」
『そうか。……実はさ、ちょっと話があるんだよ。大事な話で、できれば電話じゃないほうがいいんだけど』
「大事な話……?」
『うん。できれば、会って話がしたい。今日の夜、時間取れないか?』
「今日の夜? あ、夜は、ちょっと……」
『無理か?』
「うん、先約があるから……あっ、でも、いまならいいけど? いまじゃ無理……?」
『あ、いまならいけるか?』
「うん、大丈夫。いける」
『じゃあ、どこかで待ち合わせしよう。どこがいい?』
「実はいま、いつものところにいるの。宿り木、喫茶店の」
『ああ、そうなのか。じゃあ、すぐに行くから、待っててくれよ』
「うん、いいよ。待ってる」
『ゴメン、ありがとう………………』
それで、誠斗との電話は切れた。
途絶えた後の、『ツー、ツー、ツー』という音を聞いた途端、麗子は疲れた顔をした。
「緊張した……」
心の声が出てしまった。
(でも、久しぶりに声が聞けた……)
携帯電話を耳から遠ざけ、折りたたみ、宝物のように両手で包み込んだ。
目を潤ませて、頬を淡く染め、安堵の溜め息をついた。
喜びに満ちた表情を浮かべている麗子だが、すぐに不安によってかき消されてしまった。
(大事な話ってなんだろう……? また悪いことなのかなぁ……。別れを切り出すとか? 可能性としては高いよなぁ。認めたくないけど、ありうるよ)
これから起こるかもしれない不幸を想像し、落ち込んでしまった。
(……いや! 違うかも! まだそうだって決まってないし! そうじゃないかもしれないし! 悪いことじゃなくて、良いことかも!)
髪が乱れることも構わずかぶりを振り、ネガティブな想像を頭から追い出すと、ポジティブなことを必死に考えた。
(……あっ、まさか、プロポーズとか? ……え、でも……いや、可能性としては、無いことも無い。しばらく会えない日が続いて、それでギクシャクして、でも、それが逆に功を奏して、好きな気持ちがより強くなって、気づいて、将来のことを考えるようになって、それで………………うん! 充分ありうるよ!)
ポジティブなことを考えようと必死になるあまり、妄想が暴走した。
自分の前に跪き、指輪を差し出す誠斗の姿が思い浮かんでしまい、麗子は驚いて戸惑って喜んで、赤面までしてしまった。
(大学のときからだから、もう7年……。時期としてはちょうどいい。私は28で、彼が29。有るか無いかで言うと、有る! うわぁっ、どうしよう!? もし本当にそうだったら、リストラが寿退社になっちゃうじゃん! 不幸のどん底だったのに、一気に幸せの絶頂に!?)
暴走した妄想は止まることを知らず、脳内ではすでにウェディングドレスを身にまとい、外国の、海のそばの教会の聖堂の、十字架の前に立っていた。目の前には白いタキシード姿の誠斗がいて、いままさに指輪の交換が行われようとしている。
麗子は妄想にうっとりしながら、自分の左手に目をやった。脳内では指輪をしているが、実際はしていない。それを見て少し現実に戻されるも、まもなくあることを思いついた。
右手の薬指にしていた指輪を取り、左手の薬指に移し替えた。
そして、あらためて左手を見つめた。
「……主婦か」
麗子は、また思ったことを口に出した。
そのとき、マスターは、食器を片し終えたのでキッチン回りの掃除をしていた。そこに聞こえていた、麗子のつぶやき。脈絡もないその一言が気になり、チラリと彼女をうかがったところ、満面の笑みを浮かべながら、自分の左手を眺めている。
「……?」
マスターが反応に困ったことは、言うまでもない。しかし、いつも以上に幸せそうにしているので、とりあえず良いことだと思い、見守ることにした。
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