第一章「死と風はふいに訪れる」 第四節
いつまで勤務を続ければいいのか。
退職金はいつ支払われるのか。
保険や年金などの手続きはどうすればいいのか。
そういった、今後に関する説明を受けた麗子は、今日はもう仕事ができる気分じゃないという理由で早退の許しをもらい、やりかけの仕事を課長に押しつけて、会社を後にした。
現在、午後2時24分。
愛莉との約束にはずいぶん間があるので、一度帰宅しようと最寄り駅に向かっていたが、道中、ある横道の前で足を止めた。
いま、麗子の心の中では、モヤモヤとした嫌な気持ちが渦巻いていた。朝の比ではない。何もかもが憎たらしくて仕方がない。自分すらも。
いまの状態で家に帰りたくはなかった。気持ちを切り替えたい。癒しが欲しい。ほんのわずかな時間でもいいから幸せを感じたかった。そうでなければ自分を保てそうにない。
だからこそ、麗子は足を止めて進路を変え、行きつけの
――そして、いまに至るわけだ。
「正直、リストラとかって、他人事だと思ってました……」
麗子は、退職勧奨に応じて早退してきたことだけを、マスターに打ち明けた。その際、今日の出来事を思い出してしまい、あらためて傷心していた。
その手にある紙ナプキンはもう使い物にならない。
「仕事は忙しいし、新人が使えなくて、その尻拭いばかりさせられてうんざりしてたけど、でも……それでも、あの会社は嫌いじゃなくて、本当はもっと働いていたかった……。本当は、応じたく、なかった、けど……けどぉ……」
涙があふれ、声がうわずって、言葉が途切れ途切れになる。
麗子は口を噤み、涙を堪えていた。泣いてはいけないと自分に言い聞かせる。みっともない姿を見せている、迷惑をかけてはいけない、とそう思っていた。
「……構わないよ、泣いてもいい」
男らしい、穏やかな声がした。マスターだ。麗子が顔を上げたところ、彼は席を立ち、出入り口のほうへと向かっていたので、後ろ姿が見えた。
マスターは、扉の内側にかけられている、《CLOSE》という文字が描かれた札を裏返して、《OPEN》にした。つまり、外からは《CLOSE》に見える。
いま、店内にいるのは二人だけ。そのことに気づいた麗子は、彼の、泣いてもいい、という言葉の真意を理解した。それゆえ、堪えようとしていた気持ちが緩んでしまい、涙腺のダムを決壊させてしまった。
泣きじゃくる麗子の姿を横目に、マスターはカウンターに入った。
カウンター下の、業務用の冷蔵庫から卵をいくつか取りだし、ステンレス製の小さなボウルを二つ用意して、白身と黄身を分けた。ハンドミキサーを使い、まるでメレンゲを作るように白身だけを泡立てた。その後、溶いた状態の黄身と、牛乳、業務用のホットケーキミックスを加えて、さっくりと混ぜた。仕上げに、バニラエッセンスを一滴。
使い古されたフライパンを火にかけて、バターを溶かし、まんべんなく行き渡らせたら、生地を流し入れる。
バニラの甘い香りが店内を包んだ。
それからしばらくして、マスターがカウンターから出てきた。麗子の元へ戻った彼の手にはトレイがあった。涙はまだ止まらないが、興奮は治まりつつあった彼女の目の前に、一枚の皿と、ガラス製の小瓶を置いた。
丸い大皿の上に乗っていたのは、きつね色に焼き上がったホットケーキだ。たっぷりのホイップクリームが乗っていて、イチゴやブルーベリー、オレンジ、バナナなどのフルーツが散りばめられ、ミントの葉っぱも飾りとして乗っている。生地はとてもふっくらしており、一枚なのに、二枚三枚と重なっているような厚みがある。小瓶の中に入っているのは琥珀色をした液体で、メープルシロップだ。
「………………マスター、これ?」
麗子は、新しい紙ナプキンを取って涙を拭うと、目の前のホットケーキと、マスターの顔を交互に見つめてたずねた。すると、彼は穏やかに笑った。
「サービス。元気を出して」
マスターはその言葉だけを残し、カウンターに戻った。
麗子がその優しさに心を打たれて感激し、理由は違うものの、また泣いてしまったのは言うまでもないだろう。
泣きながらメープルシロップをかけて、フォークとナイフに手を伸ばす。食べやすい大きさに切り取り、ホイップクリームとイチゴを乗せて口に運んだ。
「んんん~っ!」
麗子は身震いし、悲鳴を堪えているときのような声を上げた。
「美味しいよぉ! マスター、美味しい! すっごく、美味しい!」
カウンターで、食器の片づけを始めているマスターを見つめ、麗子は声を大にして感激を伝えた。すると彼は、泡にまみれていたその手を掲げ、ぐっと親指を立ててみせた。
「会社を辞めたらなかなか来られなくなると思っていたけど、これからも通う! 絶対に通うよ!」
麗子はまた、ホットケーキを食べやすい大きさに切り取り、ホイップクリームとフルーツを乗せてぱくりと頬張り、その美味さに震えた。そして、コーヒーを一口。その香りや、心地よい苦み、深いコク、かすかな甘みに酔い痴れた。そうかと思えばまた泣きだして、忙しい限りだ。
まるで百面相のように、麗子の表情はコロコロと変わる。
それを横目にうかがっていたマスターは、ホッと胸を撫で下ろしていた。
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