第一章「死と風はふいに訪れる」 第一節

 それは、数時間前のことである。


「……?」

 目を覚ましたばかりの麗子は、難しい顔をして小首をかしげた。

 妙に気分が清々しいくせに、漠然とした違和感があるので、戸惑っているのだ。

 こんなにスッキリした起床は久しぶりだった。自然と目が覚めたようで、いつも悩まされる気怠さがほとんど無い。

 でも、何故なのか?

 どうにも腑に落ちない麗子は、うつ伏せになって身体を起こし、四つん這いになった。薄暗いので目を凝らし、枕元にある目覚まし時計をうかがい、現在の時刻を確認した。

 デジタル時計なのだが、その液晶画面には何も表示されてない。

「………………あっ」

 それを見たところで、ようやく気づいた。

 目覚まし時計のけたたましいアラームが鳴っていない。

 叩き起こされず、自然に目が覚めたからこそ気分がいいのだ。

「え……ちょっ、ちょっと! 何時よ、いま!?」

 残りわずかな眠気が吹っ飛び、一気に目が覚めた。

 麗子は寝室を飛び出し、リビングの壁掛け時計を確認した。そちらはアナログなので、午前か午後か一目ではわからないが、閉め切ったカーテンの隙間からかすかに漏れている陽射しや、聞こえてくる小鳥のさえずりから、直感的に朝だと思った。

 肝心な時刻だが、短針は8に近いところを指し、長針は9に近いところを指していた。

 つまり、7時44分だった。

 それを視認した麗子は、唖然とした。

「嘘でしょ!? 遅刻が、やばい!」

 おかしな日本語を叫んだ麗子は、すぐさまリビングを飛び出し、洗面所に走った。途中、肘や足の小指を壁にぶつけたが、もはや痛がっている余裕は無く、怒っているヒマも無い。とにかく大急ぎで、パジャマ代わりにしている古着のTシャツと短パンを脱ぎ捨てて給湯器の電源を入れ、バスルールに飛び込んだ。

「――冷たぁっ!」

 まもなくシャワーの音がして、直後に悲鳴が上がった。


 カジュアルなスーツを身にまとい、パンプスをバッグに押し込んでスニーカーを履き、自宅マンションを飛び出したのが、8時ジャスト。

 出勤のための支度に要する時間の最短記録を更新した。

 シャワーを浴びて着替えるだけで精いっぱいで、メイクは諦めた。髪は束ねただけだ。スニーカーを履いたのは、中高と陸上で鍛えた足に頼り、駅まで全力疾走するため。

 自宅から駅までは徒歩で10分かかるのだが、その距離を3、4分にまで縮めてやろうと思った。その自信は充分あった――のだが、結果は散々だった。

 信号にことごとく引っかかった。ガムを踏んづけた。改札が閉まって通れなくなった。階段を駆け上がろうとしたら一段目で足を滑らせ、スネを強打した。痛みを堪えながらも階段を上りきったところで電車の扉が閉まり、無慈悲にも走り去った……。

「運に、見放された……」

 左手首の腕時計を確認し、会社までに要する時間を計算した結果、どんなにがんばったところで、もはや遅刻はまぬがれないと知り、麗子はがっくりと項垂れた。

 遅刻したことへの申し訳なさ。これからお叱りを受けることになるだろう不安。足の裏にへばりつくガムの不快に悩まされながら次の電車を待つのは、非常にみじめだった。

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