第一章「死と風はふいに訪れる」 第二節
遅刻をすれば叱られるのは当然で、反省こそすれ、それを不服に思ったり、不満を漏らしたりするのはおかしな話だ。しかし、単に寝坊したわけではなく、目覚まし時計の電池が切れてしまったというハプニングだったからこそ、麗子はどうにも納得できなかった。
とはいえ、こまめに電池を変える。万が一を考えて予備を用意しておく。いまのご時世、携帯電話にもアラーム機能がついており、いくらでも対策のしようはあるわけで、そんなことは言い訳にもならない。
それがわかっているからこそ、午前中は悶々としながら仕事をしていた。
昼休み。
麗子は、その悶々を心に抱えたまま、社員食堂を訪れた。
本日のAセット、豚肉の香草焼きをメインとした、ボリュームのある定食を注文。
プラスチック製の安いトレイを抱えて、空席を探して見渡していたところ、一人の女性が自分に向かって手を振っていることに気づき、そちらへ足を進めた。
「もう、最悪!」
麗子は、その女性の向かいにトレイを置き、少々乱暴に座った。
女性だが、彼女と同じようなスーツを着た、年も近いOLである。髪の色はダークブラウンで、ほんのりとだが染めている。胸はやや大きい。
名前は、香田 愛莉。
「なんだなんだ、いきなり。ご飯が不味くなるでしょうが」
愛莉は鬱陶しそうにし、箸を止めた。その前には本日のBセット、白身魚のムニエルをメインとする、ヘルシーな定食がある。
「今日、遅刻したの! 目覚まし時計の電池が切れてた!」
「おっと、それはそれはご愁傷様で」
「大急ぎで支度して、駅まで走ったんだけど、どの信号も赤だし、ガムは踏むし、改札は閉まるし、階段でスネぶつけるし、電車に間に合わないし、結局遅刻して怒られるし……」
「聞いているだけでも悲惨ね」
「その上、仕事は忙しい! しかも、私のじゃなくて、新人がするはずの仕事! なんで私があのバカの尻拭いをしなきゃいけないの!?」
麗子は箸を掴み、メインディッシュの豚肉にグサリと突き立てた。
「本当に運が悪いわね……。今日の朝の占い、ひどかったんじゃない?」
「見てないもん……」
突き刺した箸が振っても落ちず、両手で箸を持って、一本ずつ抜き取った。
「ねぇ、そのバカな新人って、顔はそこそこで、胸だけはでかいヤツじゃない?」
「え、なんで知ってんの?」
「さっきトイレで遭遇したのよ。うちの新人とアレコレくっちゃべってたわ。主に不満が多かったね。うるさいし、鏡の前を占領してるから邪魔でしょうがない。そっちの新人はともかく、うちのほうのバカには蹴り入れてやったわ」
「さっすが。うちのバカにも入れてくれてよかったのに。……それにしても、くっちゃべってなに? どこの方言?」
「さぁ、知らない。そんなことより、そっちの新人、ありゃかなりのバカだね。喋り方でわかるよ。とてもじゃないけど、仕事ができるとは思えない。ハズレを掴まされたねぇ。だいたい、あれ、仕事する気無いよ。男を捕まえるために入ったみたいよ、うちに」
「マジで?」
「マジで。自分で言ってたもん。さっさと寿退社したいって」
「そんな奴のために、私は貴重な時間と労力を……。ああ、殺してやりたい……」
麗子はまた、豚肉に箸を突き立てた。もう一度両手に持ち替えて左右に引き裂いた。
「手伝おうか? それか、うちの新人も含めて交換殺人にするとか」
「ハハッ、いいねぇ、それ。……ハァーア」
麗子は、我ながらバカなことを言っていると悟り、自分で処理すべく溜め息をついた。
「まぁ、あれだ。野良犬にでも咬まれたと思って忘れなさいな」
愛莉も箸を持ち、食事を再開する。まずは付け合せのアスパラガスを取り、口に運んだ。
「あれは言葉が通じるから、野良犬よりもタチが悪いよ……」
麗子は頬杖をつきながら、小さく切り分けた豚肉を食べようとした。だが、行儀が悪いと愛莉に注意されたので、すぐに姿勢を正した。
「もう、鬱陶しいから話題変えるわよ。――アンタ、例の恋人とはどうなってんの?」
「ちょっ、なんでそっちに話題を振るのよ!」
「気になってるからよ。で、あれから会ったの? 電話はあった? メールした?」
「……無い、どっちも」
麗子はしょんぼりとし、箸を置いた。
「まったくもう。待ってないで、こっちからメールするなり、電話かけるなりしなさいよ。もう一ヶ月でしょ?」
「まだ二週間と五日だもん……」
「半月は越えてるんだから、もう一ヶ月みたいなもんよ。それに、その繰り返しでしょ? そうやってズルズル、ズルズル。お互い仕事が忙しいからって、遠距離恋愛でもないのに、それだけ会ってないし連絡も取ってないって、もう恋人として成立しないでしょ。いくら大学のときからの付き合いだからって、さすがに無理がある」
「やっぱり、そう思う……?」
「いい加減、アンタから連絡してみたら? ギクシャクして恐いのはわかるけど、このままだと自然消滅みたいになって、うやむやに別れることになるかもよ。別れるにしたって、ちゃんと話し合いで決めな。じゃないと、後悔するよ」
「うん……」
「ちなみにだけど、アンタはまだ好きなのよね? 彼のこと」
「うん……」
「できれば別れたくはないし、やり直したいのよね?」
「うん……」
「じゃあ、そう言えば?」
麗子が同じことしか言わないので、愛莉はイラッとして語気を強めた。
「わかってるよぉ、そんなこと! でも、なんか怖くて……」
麗子は項垂れてしまった。
「ハァ……。アンタって子は、ほんと、色恋沙汰になると途端に小心者になるんだから」
「面目ない……」
「とにかく、一度連絡しなさい。それで一度会って、これからのことをちゃんと話し合う。やり直すも、終わらせるも、そのときに決めなさい。じゃないとお互いのためにならん!」
愛莉は、最後のために残しておいたメインディッシュを口に入れた。
「……私のときみたいに喧嘩別れしたわけでもないのに、ややこしい。気になって箸が進まないわよ、ったくぅ」
愛莉は箸を置き、手を合わせた。
「完食してるじゃん」
「今日のBセットはなかなかだったわ」
「え、そうなの? 私もそっちにすればよかったなぁ。こっちはイマイチ。豚肉が固い」
「本当に運が悪いわね。……じゃあ、私はもう行くけど、今日はどうするの?」
愛莉は軽く椅子を引いた。
「できれば付き合って欲しい。酔いたい気分」
「いっつもじゃん。じゃあ、いつものとこね。遅いほうがボトルを入れる」
愛莉は席を立ち、両手でトレイを持ち上げた。
「えー、今日ぐらいおごってよぉ」
「だまらっしゃい! こっちは受験戦争真っ只中の弟を養っとるんじゃ。人に酒を奢れるほど、心にもおサイフにも余裕はありません。嫌なら、一人淋しく飲みなさい」
愛莉はそっぽを向き、その場から立ち去ろうとする。
「あぁん、割り勘でいいから付き合ってぇ! 付き合ってください!」
麗子は、すぐ横を通り過ぎようとした愛莉の腰に抱き着いた。
「うわっ、ちょっ、危ないでしょうが! まったくもう、その積極さをどうして恋人にも見せられないのよ……。それじゃあ、夜ね」
愛莉は、トレイを左手だけで持ち、右手で麗子の鼻をつまんだ。
「ふがっ」
麗子はおかしな声を漏らし、愛莉を解放した。愛莉はその隙に立ち去り、トレイを回収口に戻した後、足早に食堂を後にした。
それを見送った麗子は、途端に寂しそうにした。溜め息交じりに正面を向き、食べかけの料理を見つめると、箸を取ろうと右手を伸ばすのだが、薬指にしている指輪が目に入った途端に固まってしまった。
小さなルビーが一粒だけ埋め込まれた、シルバーのリング。
それを見つめる麗子の表情が曇る。
そのまましばらく動かなかったが、ふいにその右手を隣の席へ伸ばし、持参していたポーチを取り上げた。中には、サイフなどの貴重品が入っていて、携帯電話もあった。
二つ折りにするタイプで、カラーはワインレッド。少し前の機種である。
それを取り出して開き、操作して、着信履歴を確認した。
二週間と五日前の、誠斗という人物からかかってきたものを表示した。
麗子は、画面に映し出されているその名前と、その下の電話番号をじっと見つめた。
そのまま、またしばらく。
顔を強張らせたと思いきや、携帯電話を持つ右手の親指を、通話ボタンの上に置いた。しかし押さず、また動かない。
散々悩んだあげくに断念し、切ボタンを押して待ち受け画面に戻してしまった。
携帯電話をポーチに戻すと、麗子はまた大きな溜め息をついた。
そして、ぽつり。
「もうやだ……。もう、めんどくさい……」
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