第3話
「気分はどうだ?」
男の短いモーニングコール(もっとも朝ではないが)を聞いて恭介は目を覚ました。
――まずは先んじて状況把握を――
そう思った恭介は辺りを見渡す。ボロボロに風化して破れたトタンの屋根と壁。オイルを注されなくなって錆びついた工作機械。
成程成程、典型的な廃工場である。
手足が動かせないのは何故だろうか。恭介は疑問に思い首を横に倒す。
「――ッ!??」
やっと気づいたか、と男が目を恭介の方へ見やる。
「右掌に1本。左掌に1本。右足に1本。もう一つおまけに左足に1本。メスの釘だ」
恭介の手足には、それぞれ医療用のナイフ――メスが深々と突き立てられていた。
「苦悶に喘ぐ人間の顔は最高の甘美――あぁ、もうお前は人間じゃなかったか」
男は口元を歪めて笑った。この男特有のいびつな笑い。
「吸血鬼は心臓を破壊されたら死ぬ。安心して死んで、俺の糧になれ」
(死にたくない死にたくない死にたくない――ッ!!)
恭介は動かない手足に動け動けと指令を下すも、無情にもそれは叶わない。
「吸血鬼の心臓なんて久しぶ――」
刹那、恭介の胸に伸ばされた男の手が、掌から弾けて肉塊と化した。
「まったく、使えん眷属よなぁ」
恭介の背後に立っていた、その元凶は麗しい金髪をなびかせ、冷徹な紅い眼差しを男に向けていた。
「――お前、どこから来た!尾けてきたならとっくに気づくはずだが……!」
男が苦痛に顔を歪めながら、視線の先の少女――フェルストに問うた。
「なに、簡単なことよ。眷属の――恭介の影に潜んでいただけの事」
「っ……!なら早く出てきてくれよ……!」
あまりに単純な尾行対策に、恭介も男も唖然としたが、恭介の台詞は至極ごもっともである。
「すまんな、昼時ゆえ寝ておった。昼寝よ昼寝」
あまりの理由に恭介は思わず嘆息した。
とにかく、とフェルストは恭介の四肢に刺さったメスを引き抜きながら男に言う。
「余の眷属を無断で連れ出し殺しかけた――そなた、覚悟は出来ておろうな?悲しき霧の暗殺者よ」
その言葉に男の眉間が揺らいだ。
「その言……お前俺の正体に気がついているのか?」
「そうとも。100年前くらいまではイギリスにいたのでな。貴様の事も十分存じておる。かつて霧の街・ロンドンを震撼させた猟奇殺人鬼――
「ほ、本当なのか……!?」
恭介は戦慄した。恭介すら、映画やアニメ等で一度は耳にした事がある、英国の有名な殺人鬼が吸血鬼化した存在――それがこの男だという。
「フフフ……ハハハ!!槍女!この俺の正体を見破るとは、スコットランドヤードの捜査を超えたぞ!」
まぁ、と男――切り裂きジャックは続ける。
「俺の正体を見抜こうが、お前達がここで死ぬ運命は依然変わりない」
その言葉とともに、ジャックの姿は霧散した。
「ほう、これがそなたの権能か」
「権能?」
「真祖のみが持つ、特殊能力みたいなものよ。……おっと、どんなに苦労しても眷属たる恭介には永遠に手に入らんぞ?」
軽口を叩きながら、フェルストは冷静に場を観察する。潜伏が権能というなら、奇襲のヒットアンドアウェイ戦法が基本形と推測できる。
「フェルスト!『下』!!」
恭介の叫びに対応する暇もなく、ジャックの小刀がフェルストの脚を襲う。
ドレスの裾を切り裂かれ、その中の――白い肌にも傷が及んだ。
「ぐぅ……!」
「まずは一刀目」
ジャックは小刀を両手に構えながら不気味に笑う。
「生前は娼婦共の腹を裂き、子宮を引きずり出してバラバラにしたな――懐かしい!」
ジャックの目が妖しく光る。
小刀を持ち替えた彼は、立て続けにフェルストに刺す。
槍で辛うじて捌くも、流石に振るスピードの違いで押されつつある。
二双の剣戟の前に、防戦一方となったフェルストは、半ばヤケで朱槍を横一文字に薙いだ。
「どうしたどうした槍女!守ってばかりでは俺を殺す事など出来ないぞ!」
再びジャックの体は霧散した。次で決めにかかるのだろう。
フェルストは槍の構えを解いた。そしてただただ感覚を研ぎ澄ませる。
風を切る音。
最後の一閃が、フェルストの胸に向けられる。
「獲った!――?」
二つの斬撃をフェルストは――敢えて槍を離して手で受ける。
「――なんだとォ!?」
「切り裂きジャックよ。そなたの相手は人間になら通用しよう」
フェルストはジャックの腹部に鋭い蹴りを浴びせ、彼の顔――眉間を槍で突き穿つ。
「うがぁああああああ!???」
地の底より這い出るかのような断末魔が廃工場に鳴り響く。
「しかしいささか――真祖である余の回復力を舐めていたのではあるまいな?」
ジャック自身、穿たれた手の傷がすぐに治るくらい回復は早かった。真祖とは本来それくらいの治癒力があるのが普通なのである。吸血鬼ならではの、人外の戦法。
もはや、形勢逆転。ジャックの敗北は濃厚である。
ジャックは床を這いずり、怨嗟に目を充血させて戦線離脱を試みた。
「そうはさせ――ん?」
追い打ちを仕掛けようとしたフェルストは、目を丸くする。ジャックの姿が見当たらないのだ。
「権能を使われたか。厄介な権能よの」
大丈夫か、眷属――とフェルストは恭介に目をやる。
するとそこには、一人の絶望に押し潰された少年が横たわっていた。
「眷属――恭介!!」
フェルストは恭介に思わず駆け寄った。彼の顔面は蒼白――血の気がほとんどないくらいに真っ白だった。
実のところ、恭介はまともに見るのは始めての吸血鬼同士の『殺し合い』に途方もない恐怖を抱いていた。強者たる真祖の吸血鬼が、血をぶちまけ、己の能力をぶつけ合う血生臭い戦に。
「ん、フェルスト……大丈夫、学校に戻るよ」
恭介はおぼつかない足取りで、廃工場を後にする。四肢の傷は治ったはずだが、やはり心身に相当来るものがあるようである。
「……そうか、戻るか。体調が悪かったとでも言えばよかろう、今のそなたはちょうどそんな風に見える」
フェルストはそうアドバイスして、再び闇の中へ消えた。再び影に潜んだのだろうか。
そうする、と短く答えて恭介は再び学校へと戻った。
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