第2話 猟奇的な鬼ごっこ
俺――青柳ツツジは、ふと思い出す。
三年前、この場所で起きた出来事を。
下校中、遊び疲れてトボトボ歩いていると、視界の端に見慣れない姿が映った。
付き添いもなく、たった一人、折れそうな細い腕で車椅子を懸命に漕ぐ少女。
なんとなく気になって後を追うと、行き着いた先は夕日を望む崖だった。
しばらくの間、ただじっと夕焼けに見入る謎の少女。
そんな少女に見入る俺。
――声を掛けよう。
そう思って近づいた時、少女はおもむろに車椅子から身を乗り出した。
まるで、夕日に向かって倒れこむように……。
ゆっくりと、静かに、少女は崖下へと消えていく――。
おいおいおい、自殺かよっ!
俺は急いで駆け寄り、少女の襟首を思い切り引っ張った。
その反動で、互いの位置が入れ替わる。
刹那の浮遊感。
時がぴたりと止まったように感じた俺が最後に目にしたのは、見たことのない可愛らしい少女の、驚愕に見開かれた青く潤んだ瞳だった。
「ぐっ……か…………っは!」
「あぁあぁぁあぁあぁぁぁごめんなさいごめんなさい、せんぱい。痛いですよね? 苦しいですよね? すぐ、すぐに殺しますからっ。上手に心臓えぐり出しますから、じっとしててくださいっ」
鳴り響く鐘のように心臓が脈打つ度、燃えるような激痛が襲いかかる。
声も出せずに悶える俺を見て、ネムは慌ててナイフを握る手に力を込める。
車椅子を邪魔そうに蹴飛ばし、ぎこちない手つきでナイフをぐりぐりぐりぐりと必死に食い込ませるネム。
飛びそうになった意識を何とか保ち、俺は肩を掴んでネムを引き剥がす。
「ああっ、ダメですよせんぱい、我慢してください。もうちょっと……もうちょっとですからぁぁあ」
「ふ…………っざ、けんな!」
痛みに耐えてナイフを奪って抜き取り、崖に放り投げる。
その場にうずくまりたいところだが……確実に殺されてしまう。
ドクドクと血が流れる胸を押さえ、後ずさって距離を取る。
ネムは頬をぷくーっと膨らませ、地団駄を踏んで唸り始めた。
「むぅぅー、今のは惜しかったのに残念ですぅ……。まったくもー、何で大人しく死んでくれないんですかー。いっつもいっつも……」
「お、おまっ……いきなりとか反則だろ! いってぇ……マジで死ぬとこだったっつーの!」
搾り出して叫ぶ俺の苦痛を全く意に介さず、ネムはヘラヘラしながら顔に飛び散った返り血をすくってペロリと舐め、両足の感覚を確かめるようにステップを踏む。
「えー? 鐘が鳴ったら開始じゃないですかー、あははははっ。それにそれに、今の私は清楚で可憐なネムちゃんじゃないんですよぉ。残念でしたー♪」
「っく……!」
軽やかに舞うネムを憎らしげに睨みつけていると……。
ポツポツと、淡い橙色の炎が静かに灯り、胸の傷を包み込む。
熱くはない。
火傷することもない。
ほんのりと揺らめく炎は、流れる血を燃やし、生々しい傷を溶かし、気絶しそうな痛みをスッと消し去った。
「あらら、もう治っちゃいますかぁ。うーん、やっぱり手早く殺っちゃわないとですねー……。じゃあじゃあ、こっちに来て横になってください。膝枕してあげますよー、せーんぱい♡」
「アホかっ!」
この島では毎日、不思議な現象が起こる。
島民にとっては当たり前で、島民以外にとってはあり得ない……怪異、奇跡、ミステリー、あるいは……呪い。
それは夕暮れ時、午後五時から七時までの、わずか二時間。
人、動物、植物、命ある全ての存在が姿を変える。
島に住む子供もお年寄りも、野生動物もペットも家畜も、地を這う無数の虫も空を飛ぶ鳥も、そこら辺に生えている雑草も樹齢数百年の大樹も、何もかも。
ついさっきまでは、夕日をキラキラと眩しく反射する、瑞々しく美しかった草原。
今は枯れた潅木だけが散在する、岩と砂ばかりの乾燥した荒野。
歩いたばかりの、それでいて昨日ぶりの場所を、俺は全速力で走り出した。
「あっはははは、今日こそ食べちゃいますよぉおぉぉーせんぱいの心臓心臓しんぞうしんぞーしーんーぞーーぉぉおぉお♪」
毎日毎日、車椅子を押して二キロ離れた学校まで通っているため、足腰には多少自信がある。
しかし、触れただけで壊れそうな身体のどこにそんな力があるのか、ネムは猟奇的な笑みを浮かべながらピッタリと俺の後を追う。
人間を容易に丸飲みできる大きな嘴、ギラリと光る鋭い鉤爪、四枚の翼を音高く羽ばたかせる三頭の怪鳥の真下を駆け抜け。
象を上回る図体に、禍々しく湾曲した丸太のように太い二本の角を威圧的に振りかざす猛獣のすぐ横を通り過ぎ。
スヤスヤと眠る、倒れた電柱と見間違う巨大な蛇を飛び越え。
所々に地割れがある足場の悪い荒地を、がむしゃらになって逃げ続けた。
が――。
「ぅおわっ!?」
足元を飛び回る小さな妖精を避けた拍子にバランスを崩し、盛大にコケた。
ゴロゴロと転げ、あちこちに負った擦り傷の痛みに顔を歪めて天を仰ぐ。
時間にして十秒も経ってなかっただろう。
不意に目の前が暗くなり、手足が動かなくなった。
嫌な予感がしてそぉっと目を開けると……刃物で裂いたような口から涎を垂らし、紅い目を爛々と輝かせて恍惚の表情で俺を見下ろすネムが馬乗りになっていた。
「あははぁあぁぁあぁ……やぁぁぁっと、つ・か・ま・え・た♡」
やばい。
やばいやばいやばい……!
必死にもがくが、どうしても抜け出せない。
「今度は、ちゃーんとサクッと取り出しちゃいますねぇぇぇぇえ」
「ちょ、まっ……! 落ち着け、冷静になれ! 心臓なんてクッソ不味いし、考え直さないか? ほら、あれだ、お前の好きなアイス奢ってやるよ。疲れたろ? 今日はそれで手打ちにしよう、うん」
汗をだらだら流して矢継ぎ早に命乞いの言葉を繰り出しながら、どうにかして脱出を試みる。
だが、完全にロックされた手足は砂利をかすかに動かすことしかできない。
ネムは右手を高々と掲げる。
いつの間にか、その手に握られていたのは……骨を削ってできたような、不気味で歪なバールだ。
「だいじょーぶですよぉぉ。私、好きな物ってぜーーんぶ甘く感じるんです。せんぱいの血、チョコレートみたいに甘くってとろけて、くらくらしちゃいましたぁー。それに……こうするのが、せんぱいにとっても私にとっても一番イイんです。そうに違いないんです」
「待て待て待て、話し合おう。お前の気持ちは何百回も聞いたけど、やっぱり間違ってると思うんだ。もっと別の方法があるはず――」
「いいえ、間違ってないです。他にどうしようもないんです。私はせんぱいを愛してます。せんぱいも私を愛してくれてます。だから怖いんです、忘れられちゃったらって……。そんなことになったら、私……私…………」
「……ネム…………」
ネムの瞳からぼろぼろと流れ落ちる暖かい涙が、頬を叩く。
突然の泣き顔に、俺は思わず言葉を失った……のだが、しかしながらネムはころっと表情を変えた。
「だから、いただきます♡」
「って、おいコラ!! くっそ――――!」
満面の笑みで躊躇なく振り下ろされるバール。
死を目前に、恐怖を振り切って集中する。
「ッ!!?」
ボボボッと小さく短い音を立て、俺の背中から無数の炎で形作られた翼が生える。
不意打ちで閃光を受け、目を細めるネム。
その手に持った凶器が胸に突き刺さる直前、俺は無我夢中で炎の羽を撃ち出し、バールをネムごと吹き飛ばした。
「うにゅぅっ!」
ネムは数メートル先の地面に叩きつけられ、そのままぴくりとも動かなくなった。
顔がサーっと青ざめる。
「わ、わりぃ! えっと、その……だ、大丈夫か……?」
すぐさま駆け寄って顔を覗き込むと、ネムはふくれっ面をして涙目でジロリと睨みつけてきた。
「……そんなに、イヤですか? 私のこと……嫌いになっちゃいました……?」
「……まあ、嫌に決まってるけどさ。いや、でも嫌いになるとか、そういう問題じゃなくて……。今のは俺がやりすぎたけど、お前もいい加減諦めて、もっとこう……」
不可抗力の正当防衛とはいえ、傷つけてしまった負い目で狼狽して、しどろもどろに視線をさまよわせてしまう。
とにかく治癒の炎で手当をしていると、ネムは抱きつきながらバールを拾い上げて耳元でささやく。
「あはははは、よかったぁ……。それじゃ、再開しましょーかー」
「おまっ、しつこ……!!」
ダメだこいつ、いつもながら話にならない。
呆れ果て、しがみつくネムを振りほどいて逃げる態勢に入る。
しかし、幸いなことに後方から救いの声がナイスタイミングで俺達を呼んだ。
「おーーい、ツツジー、ネムちゃーん。高井のじいさんとこの牛が遺跡に入り込んじまったらしくってさー。お楽しみのところ悪いけど、手伝ってくれーーっ」
全然全く、これっぽっちも楽しんでねーよ。
というツッコミを口にする気力も尽きた俺は、ホッと息をついて肩を落とす。
ネムはようやく臨戦態勢を解いてくれたようで、「ちぇー」と言って口を尖らせながらも手を振って声に応えていた。
ようやく終わったか……今日は一段とやばかった……。
「残念ですけど、続きはまた明日ですねー。……あ、ちなみにせんぱい」
安心すると同時に疲労がどんどん押し寄せてくる俺に向かって、ネムは清々しい笑みを添えて言い放った。
「車椅子、取りに行く時間ないんで……帰りはお姫様だっこ、お願いしますね♪」
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