mission0-15 契約交渉
その夜、シアンは一人村長の家に呼ばれていた。
「彼はまだ君の家に滞在しているのかね?」
執務机の上のランプの他に明かりのない薄暗い部屋の中、村長が質問する。なぜこんなに暗くしているのだろう。シアンは
「ノワールのことでしょ? まだしばらくはいると思うけど」
村長には幼い頃から世話になっている。今までジョーヌがココット村を活動拠点にできていたのは、村長が黙認してくれていたからだ。彼は遠い首都の政治よりも、村でどれだけ魚が獲れたかの方が関心の高い男。
シアンは、そう思っていた。
「そうかそうか。……なら、良かった」
いつもとは違う、上ずった村長の声。様子がおかしい。
シアンは机の向こう側に座る村長の姿を捉えようと目を凝らす。その時、村長の背後の影が揺らめくのを感じ、シアンは反射的に身構えた。村長の他に誰かいる。
「そう警戒しないでくださいよ。君がココット村のボディガード、シアンですね?」
「あ、あんたは……!」
人影が村長の机の前まで出てきて、ようやく何者なのかが分かった。鉤鼻で切れ長の目をした、どこか人を寄せ付けない相貌の男。直接会うのは初めてだが、その顔は新聞や掲示物で何度も見たことがある。
「宰相リゲル……! どうしてここに」
シアンはちらりと村長のことを横目で見る。気まずいのか、村長は俯いて目をそらしてしまった。
それまでシアンが何をしていようと関心のなさそうだった村長が、数か月くらい前から「ノワールはまだ村に戻ってこないのか?」と頻繁に聞いてくるようになった。おそらくその頃からすでに、裏でリゲルと繋がっていたということなのだろう。
昼間クレイジーに言われたことを思い出し、シアンはギリと奥歯を噛む。
(リゲルに知られたってことは……もうここはダメだ、今すぐ逃げないと……!)
シアンが村長の部屋を出ようとすると、ガッと腕を掴まれた。海軍上がりの宰相の腕力は、彼女が想像していたよりも強い。シアンの力では振りほどくことができず、以前ガルダストリアのスラム街で男に羽交い締めにされた記憶が蘇り、一瞬身体がすくむ。
暗闇の奥で、リゲルがクックと笑う音が聞こえてきた。
「逃げなくてもいいじゃないですか。私は交渉をしにここへ来たんです。君の方から私の部下に言ったのでしょう? 『私をどうにかしたかったら武器よりも大金持ってくるんだね』と」
リゲルがシアンの腕を離す。そして、村長の机に大きな皮袋を置いた。どさっという音と、金属同士がぶつかり合うきらびやかな音が響く。シアンよりも先に皮袋の中身を見た村長は、思わず感嘆の声をあげた。
「これは……! こんなにたくさんのソル金貨、見たことがない……!」
側で見ずとも照明に照らされた黄金の輝きが目に入ってくる。おそらく、ガルダストリア首都で一生をかけて勤勉に働いたとしても稼げない数の金貨。
シアンは唾を飲み込む。
両親を早くに亡くしてから、彼女にはとにかく金が必要だった。
他に身寄りがなく、自分の生活を支えていかなければならなくなった、ただそれだけではない。本来ならば売りに出されるはずだった道場を引き取った。今や道場に通う者など一人もいないのだが、彼女にとっては家族との思い出が詰まった大切な家でもあったのだ。
道場と引き換えに、シアンは土地代の支払いに道場の維持費といった、子どもには重すぎる借金を抱えることになった。だからこそ彼女は、多少危険でも払いの良い仕事にこだわってきたのだ。
目の前に置かれている大量の金貨をもう一度じっくりと眺める。これだけあれば借金は全て返済できるどころか、しばらくは働かずに遊んで暮らすことも不可能ではない。
リゲルはこの大金で自分を雇おうとしている。
ガルダストリアの首都を歩き倒しても見つけられなかった、これ以上にない好条件の契約。二つ返事で承諾していたはずだった……少なくとも一年前までは。
だが、今は不思議と心が動かない。
むしろ、金貨に目を奪われている村長のことが滑稽にさえ見えた。
(私が欲しかったもの……こんなに空しいものだったの?)
そう感じてしまう理由を、シアンは薄々自分で勘づいていた。だが、認めてしまえばこれまでやってきたことを否定することになる。シアンはあえて思考回路を閉ざし、一呼吸置いてからリゲルに尋ねた。
「……私を雇って何をさせるつもり?」
「おお、興味を持ってくれましたか」
「まず契約条件を確認するだけよ」
「カハハ、慎重なのはよろしい。この村には今、アンフィトリテの生き残りの少年がいるのでしょう? 彼の身を引き渡してほしいのです。
「それって……ノワールを戦場に連れ出すってこと?」
シアンの質問にリゲルは首を横に振った。
「いいえ、そういうわけではありません。私がほしいのは神石とそれを覚醒させるのに必要なアンフィトリテの生き血一滴、ただそれだけ。おとなしく協力してもらえれば、彼の身に危険が及ぶようなことはありませんよ」
リゲルは気味が悪いくらい穏やかな口調で言った。まるで幼い子どもを諭そうとするかのように。
彼の言うことは本当だろうか。いや。信用できない。なんせ相手はノワールの故郷に突然侵略し、彼の大切な人々の命を奪った人間。
「そんな話、乗るわけ……」
シアンは断ろうとしたが、村長が途中で口を挟んだ。
「待ちなさい、シアン! 君がこの話を受けてくれれば、ココット村の開発も約束してくださるそうだ。君一人じゃない、村の者全員が恩恵を受けられるのだよ」
「でも……!」
「ああ、君が村のことにあまり興味がないのは知っている。だがね、君が個人の感情で彼らを匿うのを選ぶことで何が起きるのかはよく考えてほしい。ココット村は裏切り者を匿った土地として目をつけられてしまうのだぞ。君が親御さんから受け継いで大切にしてきた道場にだって泥を塗ることになる」
「それは……」
苦い表情を浮かべるシアンとは裏腹に、リゲルはその顔にニヤニヤと余裕げな笑みをたたえていた。
(ああなるほど、これは最初っから「交渉」なんかじゃないんだ)
シアンはようやく理解する。これはあくまで一方的な、人質を使った脅しだと。ノワールとココット村、両方を天秤にかけられて選択を迫られているのだ。
(そんなの……選べるわけないじゃない……!)
爪が手のひらに食い込むほど、拳を強く握りしめた。
生まれ育った故郷と共に生きる道を選ぶか、それとも故郷を裏切りノワールたちの逃亡を手助けする道を選ぶか。
「なぁ頼む、シアン、冷静に考えてくれ! 君が匿おうとしている奴らは王政への謀反人に、素性の知れない少年だろう? いつどこで君を置いて消えるかわからない奴らだ。だが、この村は違う。たとえ君が何をしようと、どこへ行こうと、故郷としてずっと君の帰りを待ち続けるものだ。決して君を孤独にはしない」
「私は……」
孤独、だったのだろうか。
村長の言うことは正しい。ジョーヌもノワールもこれから追われ続ける身。今回逃げおおせたとしても、また次どこで狙われるか分からない。一年前のように、身を隠すために別れを選ばなければいけない時もあるだろう。
(あれは……つらかったな)
岩礁の上でノワールに別れを告げられた時のことを思い出して、シアンは苦笑いを浮かべた。
あんな思いは二度としたくない。
そのために選ぶべき道は一つ。
「……分かりました。その仕事、引き受けます。ただし、力づくではノワールに抵抗される可能性があるので、明日の朝、村長に呼ばれていると言って連れてきます。それでどうでしょうか?」
シアンがそう言うと、リゲルは満足げに口角を吊り上げた。
「期待していますよ。もしそれが嘘であれば……どうなるか分かっていますね?」
シアンは頷く。
「ええ、もちろん。覚悟はできています」
村長の家を出るなり、シアンは自分の家に向かって全速力で駆け出した。
夜が更け、村人たちは寝静まり、港に打ちつける波の音と潮風が愛おしい。のどかなココット村。シアンにとって、確かにここは生まれ育った故郷だ。嫌な思い出もいい思い出も、その両方が詰まっている。特に自分の家はなおさらだ。両親が亡くなった時、無理をしてでも道場を引き取ったことは今でも間違っていなかったと思う。
何も知らずに眠っているはずのノワールたちのことを考えて、胸が痛んだ。
(ごめん、ジョーヌ。ごめん、ノワール。私のせいで……私のせいで……!)
走りながら溢れてくる涙を、だぼついた男物のチュニックの袖で拭い、シアンは大きく息を吸う。
(でも、私もう決めたから……本当に守りたいものが何か、分かったから……!)
道場にたどり着き、勢いよく玄関の扉を開け放ち、ノワールたちが眠っている部屋の扉を開けた。慌ただしい音に目を覚ますノワールたち。シアンは彼らに向かって叫ぶ。
「今すぐここを逃げ出すわよ! さっさと準備して!」
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