mission0-5 ジョーヌのミッション



 それから、およそ半年が経った。


 ガルダストリア領南端の小さな漁村・ココット村。


 ジョーヌによってノワールと名付けられた少年は、麻紐で束ねた黒髪を潮風になびかせながら桟橋の上に立っていた。


 シャチたちとの生活で自然と鍛えられた身体には、ジョーヌが村で買いそろえた質素な衣を着て、外見は村に住む普通の少年と何ら変わりのない状態だ。


 言葉に関しても日常会話なら難なくこなせるようになった。元々一歳になるまでは普通に人間社会の中で過ごしていたので、全く素養がないわけでもなかったのだ。


 それでも、ノワールにとってシャチたちと過ごした日々のことはそう簡単に忘れられるものではない。そのうち、この桟橋に立っては深い青をたたえた沖の方に向かって口笛を吹くのが日課になっていた。そうしていれば、いつか波の中からシャチたちの黒いヒレが現れるのではないかと期待していたのだ。


 だが、月日が経っても彼らがノワールを迎えに来る様子はない。


 ココット村の漁師たちに尋ねてみると、最近はシャチを見かけることがめっきりなくなったと言う。ノワールが群れからはぐれる前はこの辺りの海もナワバリの一つだったはずであるが、シャチたちは人間と争うわけでもなく自ら去ってしまったようなのだ。


(トリトン、みんな……一体今どこにいるんだろう。どうして俺を迎えに来てくれないんだ……)


 もちろん、海を泳いで探し回ってみることもした。だがシャチの群れの移動速度は船でも追いつけないほどに速い。今彼らがどこにいるのか分からないのでは、自力で探そうにも徒労に終わってしまう。


「あーっ、またここにいたのね!」


 背後からシアンの声がしてノワールは振り返る。


 ココット村はシアンの生まれ故郷だ。かつて彼女の家族が道場を営んでいた家があり、ジョーヌもノワールも今はそこに居候いそうろうしている。


「もういい加減諦めたら? シャチと一緒に住んでたなんて、きっと夢か何かなのよ。迎えに来ないのはきっとそういうこと。毎日毎日そうウジウジされたらたまったもんじゃない」


「けど……」


 夢なんかじゃない、ノワールはそう否定しようとしたが、彼が口を開く前にシアンは畳み掛けるように言った。


「それに! 今日はちょっと遠出するって伝えてあったでしょ。もうそろそろ出発しなきゃいけないんだから、さっさと支度して!」


「えーっと……どこへ行くんだっけ?」


 おそるおそる尋ねるノワールに、シアンはフンと鼻を鳴らす。年齢的にはノワールの方が二つ年上だが、短気なシアンは人間社会のことをあまり知らずどんくさいノワールに対して苛立つことが多かった。


「ガルダストリア首都! 昨日言ったでしょ? ド田舎のこの村とは違って、ガルダストリア首都はジョーヌを狙ってくる奴らがたくさんいるの。ちゃんと準備していかないと命取りなんだから」


 そう言ってくるりと向きを変えるシアンに、ノワールは慌ててついていく。


 ノワールにはまだジョーヌやシアンが一体どんな人物なのか深くは理解できていなかったが、ジョーヌが追われる身であり、シアンはそのボディガードとして雇われているのだということは理解するようになっていた。


 ジョーヌたちがガルダストリア領の南端に位置するこの村を拠点にしているのは、王城や軍本部のある首都から離れているからだ。追手がやってくることは滅多になく、普段は安心して過ごせている。


 だが、一方でジョーヌの「仕事」をこなせる環境でもないらしい。


 そのため、時折ジョーヌとシアンは二人でどこかに出かけて、その間ノワールはココット村で留守番をすることが多かったのだが、明日の外出にはノワールも連れて行かれることになった。


 そうなった理由は、先日ジョーヌたちがノワールの銛さばきを見たからだ。ノワールは単に村の漁師の手伝いのために海に潜っただけだったのだが、彼が銛を槍のようにして扱う器用さを見て、ジョーヌは「ノワールにもボディガードの素質があるかもしれない」と言い出したのだ。


「ったく、だからっていきなり首都に連れて行くなんて無茶よ! あそこは他の地域に比べて警備の目が張り巡らされてるから、今まで一度も行ったことないのに」


 ノワールを連れて行くことが決まった昨晩から、シアンはずっとブツブツと文句を言い続けている。


 ただでさえ普段の生活でもノワールの世話に手を焼いているのに、さらにボディガードとしての立ち回りを教えなければいけないからだ。それもジョーヌの身を守りながら、である。大人の武人であっても簡単にこなせるようなことではない。


 彼女はストレスが溜まるとクマのぬいぐるみのショルダーバッグをサンドバッグのようにして殴る癖があり、昨日よりもぬいぐるみからはみ出ている綿の量が増えているのが彼女の苛立ちっぷりを証明しているかのようだった。


「ジョーヌは首都で一体何をやるんだい? ジョーヌの『仕事』って、何?」


 早足で歩くシアンの背に向かってノワールは尋ねる。シアンは振り返らないまま「あんたにはまだ理解できないかもしれないけど」と前置きした上で答えた。


「ジョーヌは政治家なの。ルーフェイとの戦争に向かって突き進む王様と宰相リゲルに反対したら、首都を追われることになったんだって。それでもジョーヌは諦めてない。各地を回って署名を集めてるのよ。……戦争をさせないためにね」


 後ろからではシアンの表情はほとんど見えなかった。それに、ノワールにはやはりシアンの言っている意味が半分も理解できなかった。


 だが、一つだけ……彼女の声のトーンが、いつもより寂しげに響いていたことだけは理解した。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る