mission0-4 ノワール



「……っ!?」


 少年は目を覚ましてすぐ、首にくくりつけてある石の所在の確認した。


 ちゃんと、変わらずそこにある。


 そのことにまず安堵して、ふと起き上がって周囲を見回してみた。海ではない。ここは陸地だ。シャチたちとの暮らしの中で陸にはほとんど上がらなかった少年にとって、この場所がどこであるかなど検討もつかない。


 彼は自身を落ち着けるために、ここで目を覚ますまでのできごとを頭の中で振り返る。確か仲間と狩りをしている最中に軍艦が現れて、逃げそびれているうちに大砲を撃ちこまれて、息継ぎができずに溺れかけて——


(あの後……俺は助かったのか?)


 少年がいる場所は波打ち際から離れた砂浜で、水平線を見やると太陽が顔を出し空の上へと昇ろうとしている。


(あれから一晩は経っている……! すぐに群れに戻らないと)


 少年はその場から立ち上がり、海の方へと向かおうとした。だが、違和感がしてふと自分の下半身の方を見る。身に覚えのない布が腰から下に巻かれていた。


「お、目が覚めたか。気分はどうだい? ああ、その腰布は応急処置だよ。全裸だと私の連れが騒ぐんでね」


 少年は声がした方を振り返る。焦げ茶色の髪をした初老の男が立ってこちらを見ていた。その後ろ、少年が横になっていた場所より流木を隔てて向こう側には同じ年頃くらいの少女が眠っている。


 シャチではない、自分と同じ「人間」がそこにいる。


「…………」


 少年はシャチたちとコミュニケーションをとるときのような高音を発してみる。だが男には通じていないようだった。


 質問に答えない少年に対して男は気分を害するわけでもなく、親しげな笑みを浮かべて手を差し出した。


「まぁ、さすがに一晩じゃ調子が出ないかい? 無理もない、君は昨晩この浜で倒れていたんだから。こうして出会ったのも何かの縁だ。体調が戻るまで頼ってくれればいい。ああそう、名乗るのが遅れたな。私はジョーヌ。ガルダストリアの各地を転々としている活動家だ。君の名前は?」


「…………」


 少年は首を横に振った。彼には男の言葉の意味が分からなかったのだ。ジョーヌもそこでようやく、少年が答えないのは体調が優れないからではないということに気づく。


「もしかして君……言葉を話せないのか?」


「…………」


 少年は何かを訴えるかのように高音を発するだけだった。


「どことなく野性的な風貌だとは思っていたが……一体今までどうしていたんだ? 親はいるのか? ああそうか、これも君には通じていないんだよな、きっと」


 ジョーヌが頭を抱えていると、シアンがあくびをしながらもぞもぞと起きだした。ジョーヌはそんな彼女を見てふと思いつく。


「おはようシアンちゃん。ちょっと聞きたいんだが、君の名前の由来ってなんだったっけ?」


「へ……? 何よ急に……『シアン』は私の髪の色が由来だけど……」


 するとジョーヌはにっこりと満面の笑みで、自分よりやや身長の高い少年の肩を叩いた。


「よし、じゃあ君は髪の毛が黒いから『ノワール』と呼ぶことにしよう!」


「はぁ!? ちょっと、何勝手に名前つけてんのよ! しかも私の名前の由来と一緒にするなんて信じられないんですけど……!」


 キーキーと抗議するシアンを無視して、ジョーヌはしゃがみこみ砂浜に指で文字を書く。ノワールの名前の綴りを教えてやるためだ。少年は興味深そうにそれを覗き込み、ジョーヌが書いた隣にそれを真似た字を書く。書き順はめちゃくちゃではあるが、『ノワール』の字が二つ砂浜に並ぶ。


「そう、上出来だ。君を家に送り届けるにも、言葉が通じないと難しいからな。君の名前はノワール。自分でも言えるか?」


 ジョーヌに促され、少年は「うーうー」と色んな高さの音を出してみていた。やがてその音の出所が鼻の奥からだと気付いたジョーヌは、少年の喉を指差す。喉から声を出す、少年にはその習慣すらなかったらしい。少年はようやくジョーヌがどのように音を発しているのか理解したようで、本来の彼の地声でつぶやく。


「ナアーウ……ヌアーウ……」


「『ノワール』だよ。それが今日からの君の呼び名だ」


「ノアール……ノワール……ノワール!」


 少年はようやくジョーヌと同じように名前を言えるようになると、瞳をきらきらと輝かせて何度も叫んだ。


「ジョーヌ……ねぇ、まさかこの人のこと連れて行く気?」


 おそるおそる尋ねるシアンに、ジョーヌは大きく縦に頷いた。


「もちろん。どんな人でも困っていたら助けるというのが私のモットーだからね」


「呆れた……昨日『仮にも追われる身』とかなんとか言っていたのはどっちだったっけ? 言葉すら通じない人を同行させるなんて、リスクにしかならないわよ」


 シアンはうんざりしたように言ったが、ジョーヌはふざけてなどいなかった。むしろ彼は滅多に見せない真剣な表情をしていた。そしてその鋭い眼差しを砂浜に自分の名前を書くのに夢中になっているノワールの首元に向けながら、低い声で言った。


「分かっている。だが……それでも私は一つの可能性に賭けるよ。彼は私の目的のための鍵になるかもしれないからね」







“ああ、よかった……あいつ無事だったんだなぁ”


 砂浜から離れた沖の方で、三人の人間を見つめているシャチが二頭いた。一頭は昨日少年と同じ狩り当番だった若いシャチで、もう一頭は彼よりもさらにもうふた回りほど体長の大きい、片目に抉られたような傷のあるシャチだ。


“族長、早く迎えに行ってやりましょうよ。あいつきっと心細い思いを……”


 若いシャチは浅瀬に向かって泳ぎ出そうとしたが、一方シャチたちの族長であり少年の父親代わりであるトリトンはくるりと沖の方に向きを変えてしまった。


“ちょっと、まさか置いていくつもりですか!? そりゃ確かにあいつは人間ですよ。俺たちとは種族が違う。けど、そんな壁乗り越えてもう十六年も群れの中で一緒に過ごしてきたんだ! 立派な仲間じゃないですか。なのになんで今さら……”


 トリトンは若いシャチに尾を向けたまま答える。


“あの人間たちに害意は感じない。あいつにとって、人間社会で生きていくためにはこれ以上にないチャンスなんだ。この機会を逃したら次はいつになるか分からない。俺たちはここで身を引くべきなんだ”


 そう言って、トリトンは沖の方へと泳ぎ始めていく。


“待ってくださいよ! 族長は本当にそれでいいんですか? あいつ、何も知らないんでしょう? アンフィトリテのことも、それに族長の——“


 キュイ! トリトンは威嚇するように短く鳴き、若いシャチの言葉を遮る。若いシャチは族長を怒らせたのだと思い震え上がっていたが、トリトンは彼の方を振り返らずぼそりと呟いた。


“……知らない方が幸せなことだってある。あいつにはまだ、運命に囚われずに生きる選択肢が残されているんだ。俺たちにそれを奪う権利はない……”



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