mission0-1 アンフィトリテの悲劇



 ミトス創世暦九六七年。


 海上に浮かぶ小さな島が炎に包まれていた。


 黒くごつごつとした岩が並ぶ海岸には、その島の大きさには見合わぬ巨大な国防色の軍艦が二隻。上陸したガルダストリア軍兵士たちは、最新鋭の武器をもって二百人にも満たない島民を着実に追い詰めていく。彼らの先頭に立ち指揮するのは若き参謀長、リゲル・ドレーク。


「さぁ、行きなさい! アンフィトリテの一族どもが隠し持つ『契りの神石ジェム』はこの島のどこかに必ずあるはず! 島中くまなく探すのです! そのためにはどんな手段を使っても構いませんよ……全ては我らがガルダストリア王のためなのですから!」


 兵士たちは返事代わりにときを上げ、散り散りになっていく。島の各所から次々に沸き起こる島民たちの悲鳴。それを聞いて冷徹な参謀長はにやりと口角を吊り上げた。


 この作戦は、彼にとっては人生を賭けた大仕事である。


 ガルダストリアという国は、元は北の大陸の一部に領地を持つ、農産業中心に成り立っていた小国であった。それが今や南の大陸に勢力を広げる呪術大国ルーフェイと張り合うほどに巨大になったのは、ひとえに十年ほど前に起きた産業革命によるものである。とある鉱石を熱することで得られるエネルギーを応用し、瞬く間に工業技術を発展させ、技術力をもってして勢力を拡大してきた。そうして北の大陸のほとんどを制する大国へと成長したのである。


 だが鉱石資源は有限だ。北の大陸だけではいずれ枯渇する。そこでリゲルは考えた。海上を制圧さえすれば、他国への侵略も容易になるし、あるいは国同士の貿易を掌握することができるのではないか、と。


 すなわち彼が欲するのは制海権。


 そしてあらゆる文献を探るうち、ある伝承にたどり着いた。


 それが海王ポセイドンの力を封じ込めた『契りの神石』と呼ばれる宝玉の存在だ。伝承によると、その宝玉と共鳴した者は、潮の流れを自在に操り、海の生き物たちを意のままに動かすことができるのだという。


 そして伝承にはこうも書かれていた。


 神石は〈遊泳する孤島〉に住むアンフィトリテの一族によって固く守られている。そして〈遊泳する孤島〉は絶えず海上を動き続け、決して誰も見つけることのできない地図に載らない島だ、と。


 その伝承以上にポセイドンの神石の存在を証明する文献を見つけることはできなかった。ゆえに、この〈遊泳する孤島〉侵攻作戦を王に進言しても疑われるだけだった。伝承ごときを本気にするなど参謀長らしくないと、心配さえされたものだ。


 それでも彼は諦めなかった。彼の野心は、もはや今まで通りの軍事作戦では満たされないほどに乾ききっていたのだ。


 もっと圧倒的な力が欲しい。


 誰も手を出したことのない力が欲しい。


 そんな彼に対して王を含め周囲の人々が恐れを抱いていることなど気にかけず、数年の時間をかけてあらゆる手を尽くし、ついに今日〈遊泳する孤島〉を見つけ出した。


「カハハハハハ! やはり私は間違ってなどいませんでしたよ……! 王よ、どうかもう少しお待ち下さい……! 必ずや神石を手に入れ、制海権を我らがガルダストリアの手に!」


 彼は狂ったように笑い、自らも腰にさげた剣を引き抜く。逃げ惑う非武装の人々を、女・子どもであろうが次々に刺し殺していく。


 脆い。脆い。脆い。


 アンフィトリテの一族と呼ばれる民の命を奪いながら、リゲルは嘆きにも似た感情を抱いていた。海の王者になりうる力を持っていながら、こうもあっけなく死んでしまうとは。力は使わなければ意味がない。使わないなら、他者に奪われるだけだ。物心ついた時から奪い合いが日常茶飯事のスラムで過ごしてきたリゲルにとって、宝の持ち腐れをする人々の気持ちは理解しがたかった。


「哀れですねぇ……」


 彼はそう呟き、また一人背中から貫いた。どろっとした赤黒い血が刃を彩る。彼はそれを見て歪んだ笑みを浮かべると、島の中心に向かって進んでいった。






「はぁっ、はぁっ……」


 ガルダストリアの軍艦が停められているのとは反対側の海岸に向かって、息を切らして走る女が一人。島中に放たれた炎によって布の服の一部はこげ落ち、漆黒の髪はつやを失ってぼさぼさに広がっているが、彼女は気にせず走り続けた。その胸に、まだ一歳になったばかりの幼子を抱いて。


 幼子はただじっと瞳を潤ませ、必死で走る母の顔を見上げていた。泣きわめくことはできた。だが物心ついていない彼も、本能的に理解していたのだ。ここで泣き声をあげれば、突如侵略してきた人々に気づかれて二人とも殺されてしまう。母親が何をしようとしているかはさっぱり読めなかったが、とにかくすべての恐怖や悲しみを喉の奥に飲み込んでしまおうと、それだけに専念していた。


「いい子ね、坊や……」


 つう、と彼女の瞳の端から涙が一筋こぼれ落ちる。彼女は自らの首の後ろに手を回すと、紐をほどいて服の下に隠していたネックレスを取り出した。淡いグレーの光をたたえた石が先端でゆらゆらと揺れる。


 その時、規則正しく打ち付けている波の音を崩すかのように、ザパンという音がしてしぶきが上がった。一頭のシャチが海から顔を出してこちらを見ている。片目に傷の入った、巨大なシャチだった。


「やっぱりあなたなら来てくれると思っていたわ、トリトン」


 女はシャチに向かって微笑みかける。


 シャチはそれに呼応するように悲しげな鳴き声をあげた。


 背後には兵士たちの鎧や掛け声が近づいてくるのが聞こえていた。もう時間がない。彼女は手早くネックレスを幼子の首にくくりつけた。幼子は不安げに母親の顔を見上げる。彼女はできるだけ息子を安心させようと、精一杯の笑顔を作ってみせた。涙だけは、どれだけ気を張っても止められるものではなかったが。


「ここでお別れよ。母さんはアンフィトリテの首長として、みんなを置いて逃げるわけにはいかないの。でもあなたは生きて。生き延びて……海の平和を守るのよ」


 そう言って、彼女は息子の身体を潮水に浸ける。


 幼子はそこで初めて泣き声をあげた。もう二度と母親には会えない——そんな予感がしてしまったから。だが彼女はすくい上げてはくれなかった。振り返ってはくれなかった。こちらに気づいた兵士たちに向き合い、小さな声で呟く。


「……あとはお願いね」


 シャチのキュウンという悲しげな鳴き声とともに、ずぶりという鈍い音が響く。


 だが幼子の視界はシャチの黒いヒレに覆われていて何も見えなかった。


 何が何だかわからなかった。


 シャチのヒレでは覆いきれない錆びた鉄のような臭いが彼の鼻腔を支配して、幼子はただただ泣いた。


 幼子の身体はシャチに引っ張られて沖へと流されていく。


 臭いが、音が、熱が、どんどんと遠ざかっていく。生まれ育った島の影が見えなくなっていく。


 幼子はただ泣き続けていた。


 この時の彼には、それしかできることがなかったから。




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