第9話 あの世

 話終わると、ひどく喉がかわいた。どうしてぼくは、こんな話をしているのだろう。カフェオレを飲みながら考える。底に溜まった苦味が、ひどく舌に絡み、じんわりと涙をにじませた。


 ゲタ姉さんは、何も言わず天井を見上げている。ぼくもつられて見上げると、プロペラがぐるぐる回っていた。確かファンと言ったか。意識し始めると、ぶおんぶおんとひどく低い音を奏でているのがわかる。


「それで、屋上か」ゲタ姉さんが言う。

 正直、場所はどこでもよかった。どうせ、あいつらの望みを叶えてやるなら派手なほうがいいと思っただけだ。一生ものの衝撃を刻みつけてやろう。その点、学校は特等席だ。喜べよ、バカども。

「確かにバカだな」

 また、声に出ていたらしい。ぼくは、苦笑しながらホットケーキを待った。まだ運ばれてこない。


「くだらないな。本当に」

 あんたも。ゲタ姉さんはそう続けた。まさか自分が貶されるとは思わなかったため、聞き直そうとしてしまう。確かに、バカなことをしようとした自覚はある。だけど、くだらないと一蹴されるのは納得いかなかった。


「あんたさ、死んだ後のこと考えたことある?」

「……残された人の気持ちを考えろってことですか」

 使い古された言葉だ。そんな余裕があるなら、自ら死を選ぶようなことはしない。ゲタ姉さんは、首を振った。

「んなことは言わない。中学生なんて自分のことで精いっぱいだ。自分のことだけ考えてりゃいいんだ。そうじゃなくて」

 ニューゲームが始まる、とか。屋上で考えたことを口にするが、そんな話ではないことくらい、わかる。ただ言えるのは。明るい展望を持ちながら、自ら命を絶つ人はいないということだ。自殺とは衝動的なものだ。


「あんたは、どうやらそのクソ野郎どもにバカにされるのが嫌で、死のうとしてたんだよな。じゃあ、もしあの世ってものが存在するとしたら、どうするよ」

 ゲタ姉さんは、ぼくと同じカフェオレをひと飲みし、乱暴に置いた。彼女は何かに憤っている。ぼくには、それが何だかわからない。

「あの世なんてものがあるとしたら、そこには当然人間、いや、元人間か? いるに決まっている。死んだからって全員が全員、聖人君子になるとは限らない。だとしたら、だ」

 

 あの世でもバカにされたらどうするんだ?


 後頭部が、開ける感覚があった。それは徐々にしびれるよう広がり、やがて胸の痛みへと変わった。 

 あの世のというものは、漠然としてイメージにあった。だけど、その想像の中には、圧倒的に他者という存在がなかった。

「いじめで死んだってなったら、憐れんでくれる奴もいるだろう。けどな、バカにするやつだって必ずいる」

 そのクソ野郎どもみたいなやつがな。ゲタ姉さんは、また天井を見上げた。まるで自分が過ごした世界に思いを馳せるかのようだった。


「そしたら、どうすんだ? もう死んで逃げることもできない」それとも、と前置きしてゲタ姉さんは続ける。「無になることを信じて、また飛び降りるか?」 

 先刻の自分を思い出した。ニューゲームを終えたら果たしてどうなるのか。ぼくは、飛び降りればわかると結論づけた。

 

 違う。

 ぼくは、考えることを放棄したのだ。今、この時の苦しみから逃れられれば、それでよかった。

 

 それでよかったのに。ぼくは、助けられた。

 屋上の自分は、あの世を考えるとともに、自分という存在が消える可能性も考えていた。無になるなら、それはそれでいいのではないかとも考えた。だけど今は、無になることがひどく怖くなっている。屋上に立った自分と、今の自分は、明らかに何かが違う。死にたくない理由が増えてしまっている。……それはなんだ?


 自分が向かおうとしていた「先」を見た気がした。それは未来や希望なんて殊勝ではないし、かといって絶望というには不確かで、限りなくあやふやなものだった。


「先が見えないのは、この世だって同じだよ。けど挽回の余地はある。生きてたほうが得なんだよ。あんたみたいなのは」

 言い終えると、不意にゲタ姉さんは例の寂しそうな微笑を浮かべ、何かを言った。ちょうどカウンターの奥で派手に食器が割れる音がして、よく聞こえなかった。聞き返す暇もなく、彼女は続ける。


「生きろ。あの世でバカにされたくなきゃ、今を精一杯な。生きてれば、たいていなんとかなるんだよ。それでも、疲れたときは――」

 にやりとゲタ姉さんは笑った。わかってるだろ? 表情は、語っている。途端、彼女の言葉が体に浸みていくのを感じた。


 悪意ある言葉を貯める器官と、善意ある言葉を貯める器官は同じものだと思う。酸いも甘いも取り込み、ふとしたきっかけで悪意ある言葉を思い出し、心を痛めることもあるだろう。だけど彼女の言葉は、そんなものを押しのけて、堂々と鎮座してしまうような力があった。

 なんて不器用な慰め方だろう。優しいのか厳しいのかもよくわからない。だけど、そんな彼女の言葉が、少し照れくさそうな笑顔が、たまらなく……たまらなく、何だろう。


「おう、話は終わったか」

 マスターがホットケーキを両手に抱えて、現れた。ゲタ姉さんは、待ちくたびれたとぶうたれる。「卵買いに行ってたんだよ。許せ」こちらを見ずに、ひらひらと手を振って、マスターはすぐに引っ込んだ。

 すっかり空っぽになった胃袋は、厚切りのホットケーキを快く引き受けた。我が家で作るホットケーキより、ずっと甘いはずなのに、ひどくしょっぱい味がした。


「ほら、ハチミツもっとかけろ」

 ゲタ姉さんが余計なことをしてくるけど、ぼくは抵抗しなかった。ホットケーキは、まだまだしょっぱかった。

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