第10話 うたうたい
満腹になって船を漕ぎ出したころ、それを阻止するかのように人が雪崩れ込んできた。ほとんどがおじいさん、おばあさんだった。ちらほら若い人もいる。共通するのは、それぞれ楽器のケースと思しきものを背負っていることだ。サークル団体が、お昼でも食べに来たのだろうか。
「姉ちゃん、今日も頼むぜ」
ぼくの推測を無視するかのように、おじいさんが威勢よく声をかけた。「おーう」とゲタ姉さんが応じる。彼女は常連なのだ。顔見知りくらい居てもおかしくはない。
「知り合い多いですね」おかわりにもらったオレンジジュースをすすりながら聞く。
「まあな」ゲタ姉さんは、すでにホットケーキの二皿目をたいらげていた。続けてカレーライスを頼もうとしている。四次元腹。太りますよ、というぼくの言葉はチョップで黙殺された。
「ところで」
額をさするぼくに、ちょうど今思い出したと言わんばかりに、質問がぶつけられる。「あんた、ギター弾ける?」
「はあ、コードくらいなら」
「じゅうぶん」
いったい何の意図が。訝しんでいるぼくをさらに不安に陥れるべく、彼女は不敵に笑った。ただ趣味を聞いたわけではない。それだけは明白だった。彼女は、何かを企んでいる。
ゲタ姉さんの目論見を阻止する前に、店は一層賑わい、そして訪れる人たちは口々に彼女に声をかけた。ここまでくると、ただの顔見知りでないことは明らかだ。では、一体なにか。見当もつかない。
やがて老婆の団体が、ゲタ姉さんを引っ張っていくと、入れ違いにマスターがやってきた。手持無沙汰なぼくを気遣ってなのか、単に暇になったからなのか。ぼくは、後者だと睨んでいる。
「あいつ人気者だろ」
マスターは、ゲタ姉さんを顎で示しながら、にやりと笑った。とりあえず頷いておいた。あの奇妙な風体の、不審人物として職務質問されてもおかしくない彼女が、このお店では引っぱりだこなのだ。否定する理由はない。
「最初に見た時は、俺も呆然としたね。歳食ったみたいで癪だが、最近の若い者はわからん、って素で言っちまいそうになったよ」
無理もない。まだ大人の階段を上る途中のぼくですら、よくわからないのだから。
「とつぜん、店に来て歌わせろ、なんていうもんだからよ」
「歌、ですか?」
つい反射的に聞いてしまう。「お、やっと喋ったな」そう言ってマスターは、バシバシと背中を叩いてきた。無骨な手で繰り出される平手は、ゲタ姉さんのそれより乱暴で痛い。恥ずかしいやら痛いやらで、もはや質問の内容もどうでもよくなりそうだった。
「うちは、毎月『うたうたいの集い』って催しやっててな。ようは趣味のライブだ。半分は、歌。もう半分は楽器って感じだな」
いくら察しの悪いぼくでも、今日がその『うたうたいの集い』の日だと気づく。どうりでみんな楽器を背負っているはずだ。……一瞬、嫌な予感が過ったが考えないことにした。
「まあ、ほとんど顔見知りの会だ。何か横の繋がりでもない限り、部外者が入ることはまずないんだがな」
マスターは、ゲタ姉さんを見やり、感慨深げに語り始める。手塩にかけて育てた娘を自慢する父親のような、優しいまなざしだった。
もういつだか忘れちまったけどな。うたうたいの集いも恒例化して、だんだん面子も固定されてきたころだ。突然、アイツが乱入してきてな。ああ、別に窓を割って飛び込んできたわけじゃないぞ。
一応、外看板でイベントやってることは知らせちゃいるがな。まあ一見さんは、まず寄りつかねえ。お前さんも無理だろ? 照れんなよ、へへへ。まあ、たまに入ってきても遠慮がちに端っこ座って、すぐに帰っちまう。
だからアイツが「歌わせろ」って入ってきたときは驚いたね。突然のことで俺も反応できなかった。当然、店内も静まりかえったよ。閉店した後だって、あんなに静かにならねえだろってくらい。シーンっとな。
で、カミさんにドヤされてようやく我に返った。何とかしろって。そんで、俺も変な意地張っちまってな。順序ってもんがあるだろ、って説教垂れたんだ。ああ、めちゃくちゃってことはわかってる。年取ると融通が利かなくなるんだよ。そんな不安そうな顔するな。
あいつは、まったく動じなかったよ。俺のギターを勝手に取ってよ。堂々とマイクの前に立ちやがった。止める暇もなかったな。いや止めたらいけないとでも思ったのかね。え? それは出来すぎだって? お前さんも言うじゃねえか。
そこまできたら、じゃあ聞かせてもらおうかってなるだろ。司会が気ィ利かせて紹介するんだが、あいつ何も言わずに演奏始めやがってな。普通じゃないかって? そりゃお前さん、初顔なんだから、ちょっとした挨拶があってもいいだろ。年寄りってやつは、礼儀に敏感なんだよ。年取って分かったけどな。
ギターは、まあ下手くそだった。粗削りだし強弱もあったもんじゃない。ピックの持ち方も変だし、初心者なのが丸わかりだった。客も苦笑いだよ。ああ。普段は、そんな空気ないんだけどな、さすがに自信満々で立ったとあっちゃあ、仕方ねえってもんだ。
けど奴が歌い出した瞬間、変わった。俺のちんけな表現力じゃあ、鳥肌が立った、くらいにしか言えねえな。あいつが入ってきた時とは別の意味で静まり返ったよ。さっきはてんでバラバラだった沈黙に、一定の流れができたっていうのかね。客は全員あいつに釘づけだったよ。一言一句、どんな雑音ですら聞き逃さない。そんな気迫に満ちていた。あの場を乱す奴がいたら、うっかり殺されちまうってくらいだったな。
……冗談だよ。青い顔するな。
「ここにくる連中は、みんなアイツの歌が好きなんだよ」
マスターが言いたいのは、とどのつまり、そこに収束するらしい。ゲタ姉さんの風体からは、およそ考えられない。歌よりも道上破りのほうが似合いそうなくらいだ。正直、驚きしかなかった。ゲタ姉さんと歌は、どう頑張ってもつながらない。
「想像つかねえか? まあそうだろうなあ」
ぼくの心境を見透かすように、マスターは言う。まあ楽しみにしてろよ、と今度はイタズラ小僧のようにシシシと笑った。
「そうそう。お前さんがギター弾くんだろ」
「え?」
マスターは、インテリアだと思っていたギターをおもむろに持ち上げると、こちらに手渡してきた。「好きに弾いていいからよ」それだけ言うと、また奥へと消えた。
嫌な予感は的中した。やっぱり、そうなるのか。
ゲタ姉さんが、ただの観客としてここに連れてくるはずがない。ぼくは不用意な発言を後悔した。軽いはずのアコースディックギターが見えない重量を携えて腕にのしかかる。
ギターは、寂しそうにぼくを見上げた。弾かないの? と言うかのように。ぼくは、試しにギターをかき鳴らしてみる。だが、ピックが挟まっていたため、みょーんと情けない音が響くだけだった。
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