第4話 敗北

 頬がしびれるように痛い。殴られた経験などないため、一瞬なにが起こったのかわからなかった。学んだのは、痛みとは後から来るということ。できれば一生知りたくなかった。

「おい」

 第二撃がくる。頭では認識しているのに体は動かない。日ごろの運動不足を呪う。ゲーム機に体を打ちつけられ、積まれた百円玉が散らばった。なぜか拾おうと動く体は、律儀に第三撃を受ける。鼻血を出したのは、いつぶりか。一昨日だ。意外と最近だった。しかも原因は長風呂だ。いっそ、この現実も長風呂でのぼせた幻影であってほしかった。


「おいったら」

「え?」

 気づくと、ぼくは椅子に座り、男も目の前に立っているだけだった。百円玉も先ほどと変わらず、寂しそうに出番を待っている。

「早くやろうぜ」

 ワル男は、そう言って先ほど、ぼくが使っていた機体に座った。やるって、リアルファイトを? 状況を整理できない。何はともあれ、逃げなくては。ぼくは、そろそろと席を離れようとする。

「え? おい、どこ行くんだよ」

 すぐに見つかった。進んだ距離は椅子から、わずか一歩程度。万事休す。妄想が現実になってしまう気がした。回避するには、逃げるよりほかない。攻撃を回避するのは難しいのだから。


 それなのに、ぼくは戻ることも、ましてや逃げることもできずに固まってしまった。まさに蛇に睨まれた蛙状態だ。カエルは大人しく飛び跳ねて、所持金を献上するべきなのか。だがしかし、お金はなかった。

 

 憐れなカエルを見て、ワル男は何かを察したように頭をかいた。

「あー。おれ、こわくない。おまえ、きずつけない」

 とつぜん、ワル男は身振り手振りをつけて何やら弁解し始めた。カタコトが気になったが、突っ込めるはずもない。


「もういいから座れよ。金ないなら俺が貸してやる」

 依然として動かないぼくを見て、やけくそとばかりに叫んだ。あまりの迫力に腰が抜けかける。だが明らかに「しまった」という顔をする彼を見て、どうにか持ちこたえることができた。

 ぼくは、ふぁい、と気の抜けた返事をしぼりだし、倒れるように座った。すぐに丸太みたいな腕がぬっと伸びたかと思うと「とりあえずこれだけな」と百円玉三枚が置かれる。まさか、本当にゲームをするだけなのか。彼の思惑は不明だが、ここは従うしかない。ぼくは、震える手で硬貨をつかみゲームを起動させた。


「お前、強いの?」

「はあ、強いです」

 あまりの緊張に、つい本音が出た。そこそこ自信は、ある。あるのだが今は言うべきでなかった。いまだリアルファイトの危険性を疑うぼくは、早々に頭を抱えた。彼の逆立った髪がゲーム機を挟んだ向こうで見える。尖りすぎだ。一種の武器に見えて、恐怖を覚える。

「へえ、楽しみだ」

 彼は、愉快そうに髪を揺らした。その邪気のない声音のおかげで、針の山地獄が少しだけ爽やかな草原地帯に見えた。だけど一体何が楽しみなのか、聞く勇気はなかった。


 勝負は、瞬く間に終わった。あっさり負けて。わざとじゃない。

 前半は圧倒的に有利だった。ぼくは、いつもの調子で猛攻を仕掛け、相手の体力ゲージを半分ほど削った。その途端、スイッチが入ったかのごとく、あれよあれよとコンボを決められ、ぼくのゲージは半分以下になった。とどめに、必殺技でジ・エンドである。反撃のチャンスすらなかった。

「対人戦、ほとんどやったことないだろ」

 二ラウンド目も同じ調子で惨敗すると、針の山地獄の根元から、ぬっと目玉がのぞいた。その通りだった。ぼくは、コンピューター相手には無敗を誇っていたが、人と対戦したことはほとんどない。というか先ほどのゲタ姉さんが初めてだった。

「負けたのは初めてです」

 なので、強がった。強がってみたが何の意味もないことに気づき、白状した。「友達いなかったので」


 もう一回やるか。ワル男がぽつりと言う。いっそ笑うか殴るかされたほうが、気持ちはすっきりしたかもしれない。ぼくは、少し気まずい気分を残しつつ、硬貨を投入し、肯定の意を示した。先ほどと違うキャラクターを選択し、リベンジする。ワル男は、同じキャラクターを継続した。


「俺も友達いなかったんだ」

 さも普通の会話のように、ワル男が言った。こちらは操作で必死なのに、ずいぶんと余裕だ。「まあ、今もそんなにいないけど」と付け足される。この場合、何と返すのが正解なのだろう。おそろいですね、とでも言えばいいのだろうか。

「そうだな、おそろいだ」

 クックと笑う声が聞こえて血の気が引く。口にチャックがないか真剣に探してしまった。あったところでもう遅いけれど。

「他人ごとに思えなかったんだ。それに」昔の俺と、クセが似てる。その言葉を合図に、またしても勝負は劣勢になった。必殺技を繰り出され、華麗に決着がついた。


「わる……じゃなかった、えーっと」

「スグルだ。漢字は聞くな」

 質問するだけで冷や汗が出る。危うく身勝手なあだ名で呼ぶところだった。彼がゲタ姉さんのように笑って許してくれるとは限らない。

 漢字は聞くなと言っているけど、予想はついた。おそらく「優」だ。彼の強面とのギャップを考えれば、あまり好ましく思っていないことは想像に難くない。

「……スグルさんは、このゲーム長いんですか?」

 聞くと彼は、針の山地獄の表面をなでながら、しばし考えこんでしまった。そうしている間に、二ラウンド目が始まる。

「長いよ」

 たっぷり時間を取った割に、返事はあっさりしていた。「お前と一緒だ。コンピューター相手なら無敵だった」またぎょろりと目が覗いた。自然と腰が引ける。

 このゲームセンターで己の実力を思い知らされたところも一緒だったらしい。上には上がいるものだなあ、と感心してしまう。


「いまだに勝ててないんだ」

 ぼやくスグルさんは、どこか寂しそうだった。


 それから何戦も死闘を繰り広げたが、一度も敵わなかった。スグルさんは手加減というものを知らず、なかには完敗を喫するプレイもあった。それは過去に彼を打ちのめしたという件の人へのリスペクトから来ているのか、それとも彼の性格なのか。理由はともかく、容赦のなさ具合はゲタ姉さんといい勝負だった。中学生相手に本気を出す大人たち。それはそれで清々しく、見方によってはカッコいい。

 そんなわけあるか。


「じゃあ、そろそろ行くわ」

 あと一ラウンド残したところで、スグルさんは席を立った。首元のアクセサリーがガチャリと音を立て、改めて怖い人だと認識する。

「また来いよな」

 その時は、もっと強くなっとけ。スグルさんはニッと笑うと背を向けて去っていった。殺人的強面が嘘かのような、人懐っこい笑顔だった。スグルさんにせよ、ゲタ姉さんにせよ、いつも笑っていればいいのに。ぼくは、自分のことを棚に上げて思わずにはいられなかった。


 ゲタ姉さんが置いていった硬貨の隣に、また新しく塔が形成される。またここへ来る理由ができてしまった。次はサボりじゃないといいけど。

 不確かな未来を描きつつ、ひとまず動かない敵の撃退に向かった。

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